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歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会 -日本文学に見る河川-

歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会
-日本文学に見る河川-
第六回議事録(案)

平成14年9月13日(金)
日時:13:30〜15:30
場所:最上川リバーポート

3.懇談
 
○委員
   私も芭蕉が好きでしたし、茂吉は特に私、前に「アララギ」に入ってましたし、茂吉の弟子の結社に入ってましたから。僕なんか茂吉の孫弟子になるかもしれませんが、ですからこの小さな結社なんですけれども、そこのみんなで夏でしたけど、はるばると上山からずっとこちらに入って、2度に分けて来ましたかね、訪ねて回ったんです。ですから今日は非常に懐かしい話と、それまで私が考えなかったことをいろいろお話しくださってありがとうございました。
 特に茂吉の場合で言いますと、今日つくづく思ったのは、今もお話にあった有名な「逆白波」ですね。言葉としては知っていますし、状況としては想像できたんですけど、地形的にまさにその逆白波のたつという状況が今日よく分かりました。川が流れてる、そしてそれがちょうど風の向きに対するのと、それと今日車で通ってくる途中、地吹雪を避けるためだという、あれ土地の言葉なのか建設界の言葉でなんか言うんですか。防雪柵ですか。今どきですからそうなんでしょうが、もっといい詩的な言葉がないかと思いますね( 笑い) つまりあれは今風に効率よくするために金属製なのでしょうが、昔はやっぱりあれにかわるのがあったと思うんですけどね。ああいう風景というのは私自身が子供の時に、自分の家から駅まで田圃の中の道を通う時の、新潟ですから、ちょうど弥彦山の方から1月の終わりから2月にかけて、もろに顔にぶつかってくる風ですから、その頃は腰まで足が取られるようだったらもう歩けないですね。仕方なくて遠回りして線路伝いに駅に行ったことがありますけど、そういう経験などから想像してみて、今日は茂吉が逆白波と言った最上川の風景が分かりました。目の前が白くなって見えませんし、頬は痛いですし息ができないですね。最上川の歌で言うと先生おっしゃったように、それぞれさすが茂吉だなと思う表現をしてると思うんです。
 あと今日先生は最後を急いでお触れにならなかったのかもしれませんが、2枚目の下段の三首目ですね。これなんかも行き着いた当時の心境ではないかなという感じがしました。

 最上川の流れのうへに浮びゆけ行方なきわれのこころの貧困

 ちょっと僕はこれ好きなんですけどね。「こころの貧困」なんて言うのは。
○委員長
   僕はその次の歌がまた好きなんです。

 けふ一日雪のはれたるしづかさに小さくなりて日が山に入る

 というのね。小さくなって日が山に入る−というのね。太陽自身が小さくなって雪の山の中にかくれていく。自分もなんか一緒にそこで雪の山の中に入っていくようでね。それから

 つつましきものにもあるかけむるごと最上川に降る三月のあめ

 また三月の雨が出てくるけれども、さっきの白皚々のあすこと同じでね。
○委員
   これは面白いですね。そんなことで考えてみますと、茂吉は山形の生まれ、育ちで、そしてまた最後は山形に帰ってきて、歌をこんなふうに最上川に関してまとめていってるんだと思いますが、そういう意味では茂吉は最上川を歌うことによって茂吉の文学を仕上げていったと言うか、そういう感じがしますね。それに対して芭蕉の場合は外からやってきた人なんですけど、外からやってきて最上川を詠むことによって、最上川を含めた出羽の国の自然というものの深さを、あるいは文化を詠み上げて行ったんだろうかなという、そんなふうに今日は先生のお話を伺いながら感じました。
 茂吉の少年時代からのお話がありまして、そこは本当に私自身でまた後で来て歩いた時もありまして、いろいろ当時の、もう30年ぐらいたちますかね、その前の風景を思い出していました。
○委員長
   見にきたことがあるんですか。斎藤茂吉を慕って。
○委員
   まあ、そうですね。
○委員長
   何人かで。歌の仲間とか。
○委員
   はい。あの頃で15人か20人ぐらいいたでしょうか。上山の茂吉の親戚の宿に泊まって。
○委員長
   あれ今もあるんでしょうか。高橋なんとかさんという・・。
○委員
   四郎兵衛さん。小さな旅館なさってましたけどね。先生が今日は特に芭蕉の方で「集めて」とか「崩れて」とか「入れたり」とか、動詞の重要さをおっしゃって、しかもそこの意味合いをエロスの問題としてお解きになったのがとても印象的でしたね。「集めて」ということをおっしゃったのと、お酒や醤油などを瓶に入れる、私の田舎なんかでは「じょうご」と言いました。
○委員長
   「じょうご」ですね。最近はあまり使わなくなりましたね。
○委員
   そうですね。それと芭蕉の句で「ねまる」という言葉、あれは私の田舎でも、私自身も使ってましたけど、それは大人が子供なんかによく言うんですけど、「ねまって」とか「ねまねまして」とかという言い方してましたけど、くつろいだ形ではなくて、私の田舎なんかではちゃんと(正座して)こういうふうに座りなさいという「ねまる」というのというのは、そういう言葉でしたね。
○委員長
   ねまると言うから、なんか横になることだと思ってたんですよ。そうじゃないんですね。鈴木清風が芭蕉先生、どうかねまらっしゃいとか言ったわけですな。ここは涼しいから、どうかよくねまらっしゃいと。芭蕉がはいはいと、その言葉を面白いと思ったんですね。それをちょっと使うわけです。
○委員
   やはり涼しさを感じ取って一瞬くつろいだと言うよりも、なんでしょうね。
○委員長
   さっぱりした感じ?
○委員
   そう。それで身体もこう、きちんとしたかな。そういう感じで僕は受け取ったんですけど。
○委員長
   それでまあ鈴木清風に対する挨拶の句でもあるわけですね。お宅はとっても涼しくて、僕は本当にくつろげますと。わが宿にして−と言ったら、本当に自分の家みたいに思って休ませていただきますと。そういうことも入っていて、なかなかこれうまいもんですね。とってもわれわれはそう出来ないね。
 最上川を詠んだ歌というのはいろいろあるんでしょうけどね。結城哀草果もあるでしょうし。結城哀草果も茂吉の一番弟子でした。あの人は山形市ですかね。山形市ですか。それであの人は学校の先生ですか。
○委員
   随筆なんかもありましてね。
○委員長
   なかなかいい随筆書いてますね。それで北上川はどうですかね。石川啄木の北上川の何でしたっけ。柳青めるなんとかだっけ。あれと宮沢賢治のなんとかイギリス海岸とかいうような、ああいう詩ぐらいしかないね。ちょっと寂しいですね。あとは「兵共が夢の跡」ですか、あれは浪花節だよ。 あれ読むと僕は無法松の一生とかなんか、大河ドラマというやつ、あれを思い出すんだな。だから皆さんよく知ってるでしょう。

 夏草や兵共が夢の跡

 ですね。
○事務局
   明日行きますので 。
○委員長
   それに比べると、やっぱり「暑き日を海る入れたり最上川」なんてのは、なんか全然違うね。あっちは割合歴史的な事実にちょっと近過ぎたんだな。芭蕉独自の想像力が十分に離陸してないというか、そういう感じがありましたね。それから「雲の峰いくつ崩れて月の山」なんてのは、僕の解説読むと驚くでしょう。それほどのことかと思うけど、読めばまさにそうでしょう? 雲の峰は本来夏の季語ですからね。月は秋の季語ですから。ちょうど7月の初めで、夏からまさに秋に変わっていく時ですからね。雲の峰はどう見たって男性でしょう。こう突っ立ってるもの。月の山は、あの月山というのはまろやかに伏せてるし、月と雲の峰、夏と秋、昼間と夜、動と静、それから生と死、陽と陰、陰の中にすべて崩れて収まっていくわけです。やっぱりこの世は女性原理が支配する、陰の原理が支配するという。あれはやっぱり形だけでも修験道風にあって、何か一種の啓示のようなものがあったところじゃないかと思いますけどね。芭蕉自身の体験の中にね。それでこれだけの強大な、強烈な、雄渾な句が出来たんじゃないかと思う。同じ場所でもむらがあるわけですね。

 あらたうと青葉若葉の日の光

 それから金色堂はなんでしたっけ。

 五月雨の降残してや光堂

 あれもなかなかいいですね。「五月雨の降残してや光堂」あれは歴史の奥行きがあってね、暗い東北の歴史の中に光堂、金色堂だけが光を宿している。本当に目の前に五月雨が降っていて、祭堂があってその中に金色堂があるなんていうだけじゃなくてね。それから周りの五月雨の暗さと光堂のにじみ合いがあるしね。なかなかあれはいいと思う。しかし、それでもダイナミックなところで言えば、なんと言ったって最上川に来て、出羽三山に登ってからですね。山形県はこれを唯一の誇りにしなければいけない。山形県の誇りとは何かと言うと芭蕉が芭蕉になったのは山形であると。芭蕉が最高の芭蕉のなったのは山形であると。しかもそれから二百年あとに斎藤茂吉という20世紀世界最大のワンオブザテングレートストポーエスザワールド オブザトエンティセンチュリーが出た。T・Sエリオットも偉いだろうが、バレリだって悪くはない。しかし、大したことはない。あと歴史ものはちょっとあるとかね。斎藤茂吉は断然残る。
 われわれはリルケもドイツ語でちゃんと読んで、バレリもフランス語で読んで、T・Sエリオットも英語で読んでいる。それからオフイラニパスクはスペイン語で読んで、なおかつ斎藤茂吉は日本語で読んでそう言ってんだから確かなんですよ。ノーベル委員会が日本語読めたら斎藤茂吉なんか2回ぐらいノーベル賞もらってるところです。山形へ来るといつも言ってるんです僕は。山形県を元気にするために。
 茂吉の歌はただ叙景歌じゃないんですね。景色を詠んでとかそんなんじゃないんですね。目の前の景色を大づかみして、力強くつかまえていながら自分の精神というか、そういうものが全部その中に入ってる、一種形而上学の詩でもある。メタフィズカルポーエットという言い方、そうのもある。リルケの詩なんかよりもいいんじゃないかな。リルケの詩なんて、なんかこんなに明快じゃないですね。明快じゃないと言うか、小面倒くさくてね。それから長ったらしいしね。というので、これから国土交通省河川局は茂吉と芭蕉は抜き差しならぬものとして心得ておいてくださいますように。局長訓示とか局次長訓示という時には必ず一首、この本を持っててさ、これ順に引いていけばいいんですよ。そして河川というのはこういうふうに一種の精神現象でもあるんだとかね。精神の世界に
そのまま入り込んでるものもあるということを、よく局員に説いてくださいますように。
○事務局
   自浄作用はなんて。
○委員長
   自浄作用?わが心の貧困なんて。それからね、この最上川と直接関係ないけれども、僕が非常に好きなのは、今日の資料の一番最後に付け足してある歌で

 ぬばたまの夜はすがらにくれなゐの蜻蛉(あきつ)のむれよ何処にかねむる

 この歌なんですけどね。これは昭和20年の9月の初めか半ばぐらいの歌なんです。本当に敗戦直後で「ぬばたま」というのは夜の枕詞で「すがら」というのは日もすがら、夜もすがらなんて言う時に、一晩中という意味ですね。一晩中、あの昼間から夕方、あんなにたくさん飛んでいたミヤマアカネですか、アキツアカネ、あの赤とんぼ、あれ一体どこに眠っているんだとね。トンボを詠んだ歌とか俳句とか詩とかはいろいろありますけれども、トンボの眠りを問うた歌というのはこれが最初で最後じゃないかと思うんです。要するに自分自身も、このトンボと殆ど同じになっているんですよ。本当にアニミズムというのがあるけれども、まさにそれですね。

 ぬばたまの夜はすがらにくれなゐの蜻蛉のむれよ何処にかねむる

 いま自分も半分眠りかけていて、その半分眠りかけた頭の中で、今日の昼間、夕方、たくさん飛んでいて最上川のほとりの河原の石なんかに止まっていたあの赤とんぼ、あれは今、どこでどうやって眠っているのかと。その赤とんぼに向かって問いかけているわけです。自分自身が殆ど赤とんぼと同じ、同列、同ランクになって、そこまで自分が殆どゼロに近くなっている。これも本当に深い、夜の深さを詠んだ歌で、こういうところが山部赤人や柿本人麻呂に同格で並んでいる歌だろうと思います。だから思想詩人でもあるんだね。こういう日本の思想というのは西田幾多郎だ、田辺元だというばかりじゃないんですね。こういう歌の中に体系化されることの出来ない、体系化以前の思想が宿されているわけで、日本思想史を語るならば柿本人麻呂だ、山部赤人だ、坂上郎女だ、大伴家持だというあたりから、ああいう歌や俳句の中に思想詩を詠んでいる。読んでいくとはじめてちゃんとした思想詩がある。日本はヨーロッパと違う基準があるんですね。歌のレベルの基準の方がより深くて、より広い、そしてより古い。だから時々こういう古い、いい俳句の世界とか歌の世界に戻ることはわれわれ自身をリフレッシュしていくのに非常に大事なことだろうと思います。毎日朝から晩まで、ただ行政というだけじゃなくてね。株価がどうこうというんじゃなくてね、グローバリゼーションなんていう時には、一層こういうことが必要になってくる。僕は以上です。
○事務局
   茂吉の歌の中のかなりの数が、さっき先生がおっしゃったことなんですけれども、夜とか月とか蛍とか、夜の最上川とか、夜を詠んだ歌がかなり多いかなと思うんです。気のせいかもしれないですけれども。
○委員長
   いや、確かに多いですね。それにいい歌も多いですね。
○事務局
   それは何か当時の茂吉の暮らしぶりに・・。
○委員長
   そうでしょうね。精神状況ですね。それから夜の方が、夜になると人間は原始に戻るわけで、昼間は近代人で動いていても夜は原始人になっていく。やっぱり原始人になった時によい歌が生まれるんだろうと思っています。夜ということで、その山部赤人のなんでしたっけ

 ぬばたまの夜のふけゆけばひさぎ生ふる清き川原に千鳥しば鳴く

 とかね。あれなんぞ夜そのもの。夜とは何かというと、その定義を問われたら山部赤人のその歌を引けばいいように、万葉の人間にとっては夜というのは時間が絞られていく、きりきりと絞られていく時間なんだそうです。その夜がこのきつく縛られていた時間が緩んでいくのが夜のほどろというので、それは夜明けのことなんですね。ほどろというのは本当にほどけること、それからほどこすこと、拡がっていくことなんですね。そういう時間の感覚があって、それが山部赤人の「ぬばたまの夜のふけゆけばひさぎ生ふる清き川原に千鳥しば鳴く」というあの歌の中に、まさに螺旋を描いて夜が深まっていく感じが出てるわけです。あれは吉原の上流の宮崎というところに離宮があって、そこに天智天皇かなんかと一緒に行った時の歌なんですよね。ああいう感覚がこの「ぬばたまの夜はすがらにくれなゐの蜻蛉のむれよ何処にかねむる」、ああいう歌の中にずっと出ている。万葉の夜の暗さ、夜の深さ、そいなものが茂吉の歌の中に入っていると思います。いま夜の歌が多いことに気付かれたのはさすが国土交通省ですね。
○事務局
   いま柿本人麻呂の話が出ていますけれども、斎藤茂吉が柿本人麻呂のお墓というか、亡くなった場所を捜すのに非常に熱心でした。それで私も石見のイワカユ温泉というのがある所なんですけど、考えてみますと江川の広島県の三次盆地から流れ出まして島根県の江津というところの日本海に注ぐんですけど、その中流なんです。茂吉が江川の方から入って行くんですよね。やっぱり最上川とはタイプも違う川なんですが、私もその時の歌なんかすぐ紹介できなく申し訳ないんですけど、川ということにかなり思い入れを持っていらっしゃるかなと思いました。確か川から霧が立ち上るさまを見て人麻呂の地はここに違いないと直感した歌があったように思うんですけどね。
○委員長
   そこの絵図まで書いてますよね茂吉は。斎藤茂吉記念館に行くと茂吉が書いたんだったか、なんかの山の人麻呂の住んだところというのが出ています。しかしね、川はやっぱり、川を遡るというのは物事の起源に戻るということですから。
○事務局
   そうですね、人麻呂がついの命を・・えした鴨山の地をここに定めんと、こういうのが茂吉の・・・。
○委員
   「……鴨山をしもここと定めむ」。「人麻呂がつひの命を終はりたる」。
○委員長
   鴨山ってどういう字でしたっけ。
○委員
   鳥の鴨です。でかい歌碑がありましてね。
○事務局
   やっぱり、ちょっとその川の方がかなりヒントというか、影響してるかなと、最上川の歌を見て思いましたんですけど。
○委員長
   川というのはなんかそういう・・・。
○事務局
   精神に働きかけることなんでしょうかね。
○委員長
   結局、茂吉の見当つけたところは間違いなんでしょう。
○事務局
   地元の人もあまり信じてはいないようですね。
○委員長
   梅原さんは島の方でしたっけ、あれも発掘までやってみたんですね。あれもちょっと当たらないらしいけれども。でも何か梅原さんもそうだけど、茂吉もそうだけど、柿本人麻呂をきわめてみたかったんですね。歌の源流に遡ってみたかったんですね。そして茂吉は柿本人麻呂のこんな大きな本を2冊ぐらい書いたでしょう。あれで文化勲章かなんかもらったんですね。ものすごく万葉集を研究しているし、岩波新書で万葉秀歌というのが斎藤茂吉編で出ていますね。あれなかなかいい歌を選んでありますね。戦争中は戦地に行く兵士は、大学出なんかの兵士はあれを持って行ったようですね。茂吉の選んだ万葉秀歌。非常にああいう極限の状態になると万葉みたいなのが心の頼りになるんですね。もうひとつは川端康成の柳生・・だそうです。それをジャワあたりの戦線の暑いところで読むわけです。本当に日本が懐かしかった。あんなの戦争中禁止本になったかもしれない。それから茂吉編集の万葉秀歌上下2冊。岩波新書でポケットに入れやすくて。
○委員
   それこそ明日いらっしゃる北上川の近いところ、宮城県涌谷町の山から黄金、東大寺の大仏を作るためのものが出た、それを家持が越中、今の高岡にいて、そしてはるばる天皇のところに祝賀した歌があるんですよ。
○委員長
   海ゆかば?
○委員
   はい。それがつまり、家持は大伴氏の氏の上、責任者でしたから、大伴氏が代々休廷に仕えてきた神話を語っている歌に出ています。
○委員長
   それでは事務局の方に戻しまして、和歌による最上川の変遷。
 

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