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河川局

歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会 -日本文学に見る河川-

歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会
-日本文学に見る河川-
第七回議事録

平成15年1月24日(金)
日時:14:00〜17:00
場所:国土交通省11階特別会議室


 歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会
-日本文学に見る河川-
第七回議事録


1.開会の挨拶
 
○事務局
   ただいまから、第7回歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会−日本文学に見る河川−を開催させていただきます。
 初めに、資料を確認させていただきます。議事次第、配席図の次に資料目次がありまして、資料が1から5でございます。お手元に資料1、2、3、4、5が配付されていると思いますが、もし足りない等ありましたら事務局に御連絡いただきたいと思います。
 よろしいでしょうか。
 それでは、これから懇談会を開催させていただきたいと思います。委員長、よろしくお願いいたします。
 
2.話題提供
 
○委員長
   この会場でお目にかかるのは久しぶりでございます。どうも皆様、きょうは御多用のところお集まりくださいまして、ありがとうございます。きょうが第7回になりますが、第1回はいつ始まったんでしょうか。随分遠い昔のようでございますが。
○河川情報対策室長
   平成12年8月です。先生、資料3でございます。経緯が載っております。
○委員長
   なるほどね。平成12年、東京で「隅田川」から始まって、「明日香川」に行って、「映画の中の川」があって、「紀州・古座川の祭り」があって、赤坂さんの話で「川の暮らしと民俗」、それから前回「最上川・北上川」を見せていただきました。あのとき私はもう本当に死ぬぐらい終わりのころへこたれて、ちょうど手術した後だったものですから。でも、実に徹底して北上川などを見せていただきました。  きょうは、そういうわけで2年半続いてきた会のそろそろ終わりに近い方ですが、宮村委員から、「中世の一級河川について」というお話をいただきます。その後事務局から、この懇談会のこれまでのいきさつとそれを踏まえて事務側が作成しました報告書案について御説明いただいて、その報告書案について皆様に御議論をいただきたいと思っております。この報告書は、今回の議論の後に、次回の懇談会でまとめようという予定になっております。  それでは、宮村先生、どうぞよろしくお願いいたします。
○宮村委員
   宮村です。タイトルどおりの話をというなかなかつかみどころのないタイトルになっていますが、要は今まで懇談会でやってきました文学に見る川ということの、少し川の紹介というところに焦点を合わせました。
 現在、河川の管理は、国土交通省が直接管理している「一級水系」と呼ばれている河川が日本を代表する川になっていますが、少し古い川は、どんな形でどういう川が大事とされたのかという点で、少し前に触れられております「歌枕」を取り出してみました。歌枕の中で、特に「勅撰和歌集」でとられた歌枕、これが平安時代の一級河川と思うような意味合いをくっつけまして、その時代にどんな川が取り出されて、どんな条件のもとに取り出されたかというのを簡単に結びつけてみました。
 結びつけたやつを、大変恐縮ですが、グッズですけれども、この湯飲みに川の名前を入れまして、それを「平安時代の一級河川」というような名前で歌枕の川をこんなふうにしてみました。これは私がやったのではなくて、私の研究室の学生がやりました。きょうも学生に紹介させますが、素人ですのでお許しいただきたいと思います。
 先にまず学生に、この一級河川の歌枕の川の紹介をさせていただきます。学生の千葉君が話します。
○千葉
   私は千葉ユキミと申します。よろしくお願いします。
○小倉
   小倉ユウコです。よろしくお願いします。
○千葉
   それでは、発表させていただきます。
 「文学から見た河川、平安時代の一級河川」と題しまして発表いたします。
 河川への視点はさまざまなものがあります。文学からの視点もその一つであり、文学とのかかわりで河川を見てきた例はありません。そこで、河川との応答関係を豊かにし、そうした河川と人とのかかわりを文学の視点から追求してみました。具体的には、平安時代に設定された「歌枕」から、当時の河川観にアプローチしてみました。
 ところで、全国にはこのように河川がたくさんあります。「歌枕」とは、古歌に詠み込まれた名所であり、特定の連想をもたらす場所としての地名です。地名が歌枕として一般化するのは平安時代とされ、用法として特定の景物に結びつくもの、特定の印象を伴っているもの、掛詞として用いられているものがあります。これらの用法から見ていくと、特定の景物や印象とつながっている歌枕は、人とのかかわりを詠み取る上で有効な指標となると言えます。
 次に、歌枕の河川の具体的な説明をします。古歌に詠み込まれている歌枕から河川を選出し、古歌の中でも「勅撰和歌集」を中心に選出しました。勅撰和歌集は、国の命令によってつくられたものであり、国が選んだものです。その歌集に納められていることによって、国に「名所」として許可されていたものであると考えました。
 さらに、平安時代までに編集された歌集をもとに、河川名が歌枕として用いられている和歌を抽出しました。平安時代の歌集に限った理由として、鎌倉時代に入ると河川を人間が暮らしやすいように開発し始めたという背景があります。開発が行われる以前の河川が人とどのようにかかわってきたのかを知るために、平安時代の歌集に限定し、平安時代の歌集の中から和歌に詠み込まれている歌枕の河川を指標としました。
 そこで、それらの河川を現在で言う「一級河川」であると考え、「平安時代の一級河川」としました。それらを表にしてみました。77河川あります。
 次に、平安時代の特色をあらわすものとして街道を取り上げてみます。図を見てください。青色で示したものが平安京より太宰府を結ぶ最も重要な大路、黄色で示したものが中路、桃色はその他の道と太宰府より九州各地へと向かう街道、小路にあらわしました。これらの街道を歌枕の河川の分布と重ね合わせると、街道筋に点在していることがわかりました。街道があるということは人の往来があるということであり、人と密接した関係であると言えます。
 平安時代に平安京は天皇が所在していたことから、現在の京都付近は政治的にも文化的にも中心地であり、人の行き来が盛んになり、交通が発達し河川や街道が重要視されるようになりました。その結果、現在の京都周辺に情緒が生まれ、和歌に詠み込まれた河川が多く存在していると言えます。
 それでは、個別に現在と昔の様子を見てみようと思います。
 こちらは岩手県の地図になります。岩手には衣川という川がありまして、これは北上川の支川となっております。これが昔の様子をあらわした絵になります。
 次に、これは宮城県の地図になります。名取川の現在の様子です。昔の様子をあらわした絵になります。
 野田の玉川は、現在二級河川、砂押川へ流れる玉川水路となっています。
 こちらが阿武隈川の現在の様子と、昔の様子をあらわした絵になります。
 山形県の地図になります。山形県を流れる一級河川の最上川です。最上川は王朝時代以前から舟運に利用されており、そのことは「最上川のぼればくだる稲舟のいなにはあらずこの月ばかり」という和歌からも知ることができます。「稲舟」は「いなにはあらず」を導き出す序詞ですが、実際に稲を積む舟が最上川を上ったり下ったりした様子が推測されます。昔はたくさんの文化交流の舞台となりましたが、鉄道の普及により舟運は役割を奪われてしまいました。現在は、三大急流として、急流を生かした舟下りが観光事業として力を入れておるほか、昔の舟運の姿は見ることができなくなりました。
 こちらが関東地方の地図になります。隅田川は、在原業平によって、「名にしおはばいざ言問わむ都鳥わが思う人はありやなしやと」と詠まれ、「都鳥」が「隅田川」をイメージさせるものとなっています。
 男女川は四股名に用いられ、第34代横綱男女川は茨城県つくば市の出身です。
 こちらが利根川の昔の様子をあらわした絵になります。
 現在の多摩川の様子です。以前の多摩川を描いた絵になります。
 こちらが静岡県の地図になります。富士川の現在の様子です。以前の様子をあらわした絵になります。
 こちらが新潟県と長野県をあらわした地図になります。千曲川は現在でも多くの文学作品の題材となっています。千曲川は、長野県を流れ、新潟に入り、その名を「信濃川」と変える一級河川です。千曲川は詩情豊かな川です。その景観は上流から下流まで変化に富んでおり、四季それぞれに美しく、古来、数多くのすぐれた文学作品を生んできました。「信濃なる 千曲の川の小石(さざれし)も 君し踏みてば 玉と拾(ひり)はむ」と詠まれ、信濃の千曲川の小石でさえ、あなたが踏まれた石ならば玉と思って拾いますという意味があり、「小石」は、美しいロマンチックな川の象徴として古代の人々のあこがれの的でした。
 小説や詩歌ばかりでなく、民謡、童謡、歌謡曲、唱歌にも広く歌われ、千曲川に沿って広がる万葉公園には、古く万葉の時代から現代に至るまでの信濃を歌い上げた27の歌碑が建てられているなど、多くの人々に親しまれています。また、橋に「万葉橋」と名づけ、文化の伝承を行っています。
 こちらが諏訪湖の現在の様子になります。
 こちらは富山県の地図になります。神通川の今の様子です。以前は「鵜坂川」と詠まれ、歌枕になっています。
 こちらが三重県の地図になります。三重県を流れる一級河川宮川の支川であり、伊勢湾に注いでいる御裳濯川です。御裳濯川とは、五十鈴川のことです。倭姫尊が裳裾の汚れをすすいだという伝承から、一名「御裳濯川」とも称します。「君が代はつきじとぞ思ふ神風や御裳濯川のすまんかぎりは」と詠まれ、尽きることのない流れは天照大神の悠久性に例えられていました。現在もその清流は尽きることなく流れ、昔の面影を残し、神秘的な雰囲気を漂わせています。
 これが、昔の様子をあらわした絵になります。
 三渡川とありますが、こちらは歌枕では涙川のことで、現在は三渡川となって、今の様子がこちらの写真になります。
 宮川は、以前は「度会の大川」と詠まれ歌枕となっています。これが以前の様子をあらわした絵になります。
 こちらが滋賀県と大阪府の地図になります。十禅川とあります。野路の玉川は現在の十禅川となっており、滋賀県の草津市を流れて琵琶湖に注ぐ川です。「あすもこむ野路の玉川萩越えて色なる波に月やどりけり」と詠まれ、川の両岸に埋める萩について詠まれています。萩の名所なり、「萩の玉川」とも呼ばれました。現在は、昭和51年に復元され、両岸コンクリートの護岸となり、幻想的な野景の萩は見られなくなりました。これがその当時の絵になります。
 こちらは横川の様子なのですが、横川は現在、比叡山延暦寺のところにある中堂の跡になっています。
 こちらが現在の野洲川の様子になります。以前の野洲川を描いた絵になります。
 藤子川の現在の様子です。以前は「関の藤川」と呼ばれ、歌枕となっています。こちらが関ヶ原合戦が行われたときの屏風絵になります。
 こちらが田上川の現在の様子です。
 こちらが琵琶湖の現在の様子になります。昔をあらわした絵になります。
 こちらが京都の地図になります。こちらが大堰川の現在の様子になります。昔の様子をあらわした絵になります。
 井出の玉川の現在の様子です。
 桂川の現在の写真になります。桂川の昔の様子を描いた絵になります。
 白川の現在の様子です。昔の様子を描いた絵になります。
 こちらが清滝川の現在の様子になります。昔の様子を描いた絵になります。
 こちらは鴨川の現在の様子です。鴨川は、京都府京都市上賀茂神社の西を流れ、下鴨神社の南で高野川と流れを合わせ、南下して桂川と合流する川です。現在、一級河川淀川二次支川となっております。鴨川の河原では以前、鳥や獣を集めた見せ物があり、四条鴨川の東には芝居がかかっていました。また、納涼床を大きく取り上げ、歓楽の人々を示し、夏の京都の雰囲気を十二分を見てとることができます。「賀茂川の水底すみて照る月を生きて見んとや夏ばらへす」と詠まれ、川底が見えるように澄んだ賀茂川に、人々は集まり楽しんでいました。
 また、楢の小川、瀬見の小川、御手洗川と称するものも鴨川を指しています。このように、鴨川は平安京にとって非常に重要かつ人々に密着した河川であったことは、鴨川が別名でたびたび詠まれていることから言えます。
 こちらが木津川の現在の様子です。木津川は「泉川」や「沢田川」といった歌枕として、別名で詠まれています。
 こちらが淀川の現在の様子です。淀川の以前の様子をあらわした絵になります。
 宇治川の現在の様子です。宇治川は、京都府宇治市を流れる淀川水系一級河川です。柿本人麻呂が近江の国より都に来るときに、「もののふの八十氏河の網代木にいさよふ波の行く方知らずも」と宇治川のあたりで詠んでつくった歌です。  その当時、網代は宇治川の代表的景物と言ってよく、平等院鳳凰堂の扉にも書かれているなど、「万葉集」成立時から宇治川に網代は広く知られていました。平安時代には、宇治川河畔で生活していた人々の日常生活や自然がつくり出す風景は珍しい光景として、宇治を訪れる人々の目に映っていました。特に網代見物、鵜飼い見物は平安貴族に娯楽として親しまれていました。
 これが以前の様子をあらわした絵になります。
 こちらは、現在の有栖川の様子をあらわした写真になります。
 こちらが平安時代の地図なんですが、赤く示した場所が、巨椋の池があったとされる場所です。巨椋の池は現存いたしません。巨椋の池は、宇治川、桂川の水を集め木津川と合流する、湖と言ってもよいほどの巨大な池でした。「万葉集」に柿本人麻呂によって、「巨椋の入江とよむなり射目人(いめひと)の伏見が田居(たい)に雁渡るらし」と詠まれたのが初めてで、巨椋の池の広さは東西4キロ、南北3キロ、周囲16キロとされ、水深は1メートル足らずでした。
 このように、写真や絵で見られるように蓮の花が有名でした。この時代の水運交通において、淀川、巨椋の池、琵琶湖、宇治川、桂川等を結ぶ一大遊水地は重要な役割を果たしていました。現在は、河川の付け替えや干拓によって工場や住宅地に利用されているため現存せず、昔の姿はしのぶこともできなくなりました。
 こちらが奈良県の地図になります。奈良県を流れる大和川の一次支流一級河川の竜田川です。現在この写真からも見てとれるように、もみじで有名な土地となっています。また、竜田川公園ではもみじ祭りがあり、人々に親しまれています。「ちはやぶる かみよもきかず竜田川 からくれないにみずくくるとは」と在原業平に詠まれ、神々の霊域で不可思議なことが幾ら起こった大昔にもこんなことがあったとは聞いていない、竜田川の水を美しい紅色にくくり染めするとはという意味があり、紅色に染めるというところには、川岸のもみじが美しく川一面に覆い尽くしたもみじの下を水が流れる、という意味があることから、もみじの名所であったことが読み取れます。このように、もみじを通して現在でも昔の様子を見ることのできる河川となっています。
 これが現在の吉野川の様子になります。吉野川は、「夏実川」とも別名で呼ばれ、歌枕として定着しています。
 こちらが、檜隈川の現在の様子です。檜隈川は大和川の支川となっています。こちらが檜隈川の以前の様子をあらわした絵になります。
 こちらが初瀬川の現在の様子です。初瀬川は、「三輪川」とも呼ばれ、歌枕として定着しています。これが以前の様子になります。
 佐保川の現在の様子です。佐保川は、歌枕では「細谷川」と詠まれていました。こちらが以前の様子になります。
 こちらが富雄川の現在の様子になります。
 穴師川の現在の様子です。
 こちらが飛鳥川の現在の様子になります。
 広瀬川の現在の写真です。
 布留川の現在の写真となります。以前の様子をあらわした絵になります。
 天の川の現在の様子です。
 猿沢の池です。猿沢の池は、奈良市の興福寺の中にあるとされています。こちらが以前の様子です。
 こちらの大川の現在の様子なんですが、歌枕では「堀江」と詠まれていました。
 玉川の里の現在の様子です。以前の様子を描いた絵になります。
 水無瀬川の現在の様子です。
 芥川の現在の様子です。
 こちらが和歌山県の地図になります。音無川は熊野川の支川です。現在の写真です。以前の様子をあらわした絵になります。
 紀ノ川の現在の様子です。
 こちらが兵庫県の地図になります。
 布引滝は生田川の上流にあります。こちらが布引滝の昔の様子をあらわした絵になります。
 こちらの地図が福岡県と佐賀県の地図になります。御笠川は逢染川、染川、思川と詠まれ、歌枕となっています。現在は二級河川です。
 こちらが玉島川の現在の様子です。こちらの河川も現在は二級河川となっています。
 個別に見ていただきましたが、まとめとして、歌枕として詠まれた河川が特定のイメージを持つとき、当時のその河川と人とのつながりが殊のほか強かったということをあらわしています。そして、人とのつながりの強い河川がその当時の重要河川と言えます。昔、重要視された河川は今も重要なのか、また、今重要視されている河川は昔も重要だったのかを考えると、人々は河川との応答関係から文化をつくり出し、今日の生活の中で息づいているものが見られます。
 また、現存するかしないかという観点だけでなく、その地域の人々の中でどのような位置であるかということが、現代の時代による重要性の違いとして見ることができます。ほぼ現在も一級河川であり、歌枕であった河川は、現在も川と人とのかかわりは絶えず進化を続けてきていると言えます。今も一級河川は歴史的にも大事な河川として認識してみました。そして、時代とともに強くなっていると言えます。  終わりになりますが、平安時代と現在の河川間には、時代による違いが見られます。かつて人々は、何げない生活の中でも自然の地形を把握し、自然とかかわってきました。この長い時代の流れの中で人々が得てきたことや、失ってきたことは多くあります。その河川が得たものも失ったものもそれぞれの河川の歴史であり個性です。文化をつくること、守ることはその土地の人にしかできないことです。かつてのものにしてしまうことなく、向き合ってほしいものと考えました。
 ということで発表を終わらせていただきます。ありがとうございました。
○委員長
   大変よくできました。
○宮村委員
   文学の先生方の前で文学の話をするというその度胸、歌枕の解説を堂々とするというところの図々しさも川をやっているとこうなる、というふうに御理解いただけたらと思います。
 お手元に配りました資料は、歌枕を現在の水系名に直して、どこに所在しているかというのを県名で出して、代表的な歌を一覧表にしております。一等最初に近いころに地図を出しましたが、この資料の3枚目にあるのが日本の河川図で、歌枕だったので北海道は除いていますが、全国の川が書いてある地図を使いまして、それに歌枕の川を落とすとこんな小さい地図ですので点になってしまいますので、先ほどこれを拡大した地図で、府県別にどの川かということを示させていただきました。この街道を入れまして、ちょっと上がっちゃって話を抜かしましたが、これと国府を入れました。そうしますとこの歌枕の川と一致するということで、大変重要な川だったということが浮かび上がってくるかと思います。
 私のところでやったこのまとめは、土木工学科の卒業論文の発表会用の中身だと御理解いただければと思います。今度これの続きとして、これは先ほどもちょっと彼女が触れたように、川に対する見方が平安時代で変わるだろうというふうな想定をしております。土地の所有者がリーダーになってからは、開発という概念が入ってきますので、鎌倉時代以降の歌枕に少し変化があるんじゃないかということで、次はその辺から、これは近世まで入れるのか、あるいは近世の前までで一段階した方がいいか。さらに近世を入れて、そして明治になってから今度は、具体的に内務省が河川管理として直轄をどうやって選んだかというところを整理して、そして現代までどうなっているかということで時代区分をしてやる最初の取っかかりとして、歌枕を使わさせていただいたということです。
 今、日本全国の中の河川図というのは国土交通省から出されているんですが、なかなか手に入らない。皆さん多分お持ちでないと思うんですが、日本の川だけを書いた地図があると大変便利なので、もしよろしければ、CD−ROMで入れたやつを入れております。これも宣伝になりますが、私の職場の土木工学科が50周年記念のときこれを整理して、土木工学科の高校生の紹介としてこんなものをつくりました。その中にテーマとしては、川のいろいろとして歌枕の川、現代の日本の河川図というのを拡大できるように入れました。全部の川の名前が入っております。
 そのほかに、「橋」ということで、橋のいろいろということで世界の名橋を100個ぐらい選んでおります。
 それから、これは少し国土交通省ということで意識してお持ちしたんですが、このCD−ROMの中には、川のいろいろと橋のいろいろのほかに、内務省で活躍した人というと大変恐縮になるんですが、つくった人と言った方がいいんでしょうが、古市公威さんという方がいます。このお孫さんが横須賀に生存されていたものですから、お孫さんに、「祖父、公威を語る」という講演をお願いしたので、その講演録が入っております。
 それから、川の方で言うと明治の終わりから大正の初めにかけて、渇水流量と言って川の一番水の少ないときの流量調査を全国的にした人がおりまして、菊池さんという方ですが、この菊池先生のお子さんがおられて、この方は建設省の元道路局長をされていた菊池ミツオさんという方ですが、その方に「父、菊池を語る」という話をしてもらいまして、その講演録を入れております。なぜ講演録をやったかというと、古いことを少し皆忘れ過ぎているものですから、忘れないでいなければ土木の紹介はできないよという意味で、古い人の話を集めてみました。
 その中で、古市公威さんという方が朝鮮半島の釜山鉄道をつくったときにその祝賀会で演説をしておりまして、その演説の声と、それから、そのときに謡曲で「新年の山」というのを歌っております。それが両方ともコロンビアレコードの試作品として教育に資するということでレコードに入っておりました。それをお孫さんが持っておったんですが、もちろんもう壊れておりました。ひびが入って割れておりましたが、これをNHKに持ち込んで復元してもらいました。昔のレコードというのは回転数は関係なかったみたいなので、その回転数を合わせまして、お孫さんに、これが祖父の声だというところまで合わせましたので、肉声の古市の声で演説と謡曲が入っております。それをこの中に入れてあります。きょうグッズを持って行くのが一番こういうときに話すのにいいと思いましたので。それから、先ほど言いました地図とかその他入っておりますので、これは幾らでもダビングできますので、後でよろしかったらお持ちください。
 そんなことで私の役割を終えようという図々しい話になりましたが、来年の学生に少し、歌枕を土地の所有者、つまり開発の思考が入ってきたときに川をどう見ていたかということに視点を置きながら歌枕を整理してみよう、その次に近代まで持ってこようというふうな途中経過だと思っていただけたらと思います。
 1時間という時間をいただいたんですが、学生が緊張して少し早くしゃべり過ぎちゃったので、地図やなんかお見苦しかったかもしれませんが、早目に終わりましたので、最後に古市さんの肉声を聞いてください。ちょっと、さわりだけです。
〔古市公威の肉声〕
 これに音がくっついている機械がなかったもので、マイクで拾ったのでお聞き苦しかったと思います。これは普通のパソコンで聞いていただければ、よい声で聞こえます。河川の最初の親分の声というふうに御理解いただければと思います。いろんな遊びを含めまして申しわけありませんが、そんなことで終わらせていただきます。
○委員長
   どうも、大変おもしろいのをありがとうございました。
 古市公威さんは内務省の方ですか。
○宮村委員
   内務省の技監です。それから、土木学会の初代の会長でもあります。
○委員長
   そのころは国土交通省は内務省ですね。
○宮村委員
   内務省から建設省になりまして、それから、現在の国土交通省になったわけですね。
○委員長
   その古市さんは、内務省の中では内務大臣ではないんですか。
○宮村委員
   内務大臣ではないんです。今の何になるんですか。
○委員
   どこまでやられたのかよく知りませんが、ポンジュショセイで首席だったという話、トップで卒業されたというふうに聞いています。
○宮村委員
   2番なんです。その成績証もお孫さんから見せてもらいましたが、高校、大学、2番ですね。
○委員長
   高校は日本ですか。
○宮村委員
   いや、向こうへ行って。
○委員
   エコールポリテクですか。
○宮村委員
   そうです。
○委員
   ポリテクを出てから、最優秀はエコールデメヌーに行くんですが、その次のトップテンぐらいがポンジュショセイに行きます。その中へ入っております。
○委員長
   いつ留学しました。明治20年代。
○宮村委員
   最初の留学生ですから。明治の何年でしたか。
○委員長
   最初の留学生というと、岩倉使節団と一緒に行った明治4年出発の。
○宮村委員
   そのころです。
○委員長
   古市さんは何年生まれですか。
○宮村委員
   青木シュウゾウが監視役のあれで書いていますから。青木シュウゾウさんなんかが確認している時代です。
○委員
   ポンジュショセイは一番古い大学ですので。エコーデポンジュショセイですね。
○委員長
   そこに最初に古市は留学したわけですか。中江兆民や何かと同じときの留学生ですね。津田梅子も。
○宮村委員
   1875年、明治8年です。
○委員長
   じゃあ、その後だ。中江兆民、津田梅子、牧野伸顕などが全部そろって留学生が50名、岩倉使節団に同行して出掛けたのは明治4年ですからね。明治4年というのは1871年ですから、その少し後ですね。
○宮村委員
   その後に、同じようにオキノさんという人が行きまして。最初の内務省の河川の人たちはフランスで。帰ってきて内務省の組織を事実上つくり上げるんです。
○委員長
   内務省の中では、国土交通省につながるようなところは何と言っていたんですか。内務省の中の何局。
○河川局長
   土木局ですね。
○宮村委員
   それでまた変わりまして、土木局というのは今度は、地方建設局の今の事務所みたいなところを土木局と言ったりするんです。官制の変遷はありますけど。
○委員長
   内務省土木局というのが建設省なり、今の国土交通省になってきたわけですか。
○宮村委員
   そうです。内務省で官制組織をつくると同時に、東大の最初の工科大学の学長です。その後に土木学会の会長になりました。ですから、川の方の日本で最初の近代的なところの方です。
○委員長
   古市公威について、ちゃんとした伝記は出ていますか。
○宮村委員
   はい。コウユウカイ、キュウコウカイというのを出しておりますし、さまざまな古市さんの研究は出ています。ただ、声を収集したりというのはなかったので、肉声に迫るということをやったわけです。
○委員長
   その伝記というのは、いつごろ書かれたものですか。亡くなって間もないぐらいの追悼とか顕彰。
○宮村委員
   顕彰として出しています。それは内務省の時代に最初に出しています。その後も出しております。
○委員長
   最近は。
○宮村委員
   最近は、「土木史」というのがありまして。
○委員長
   古市についての評伝は。
○宮村委員
   出ています。個別に古市さんだけ取り出したのはないんですが。
○委員長
   古市公威についてちゃんとした評伝はありますか。
○宮村委員
   一応3冊ぐらいあります。
○委員長
   資料もよく当たって、フランス留学中のことなんかもよく調べて。
○宮村委員
   細かい人物評ということではなくて、古市のやったこととして出ています。
○委員長
   土木の方からだけでなくて、古市公威という人物が、どこで生まれて、どういう家柄で育って、どういう学校に行って、何で留学して、戻って来てから内務省の中ではどういうキャリアをたどり、それから、日仏関係では例えばクローデルと一緒に日仏会館をつくった日本側の一番キーパーソンですね。渋沢のもとでね。ああいうことも含めて。それから、いつ死んで。ちゃんとした伝記。
○宮村委員
   愛媛県姫路市がその出身地なんですが、古市さんの資料を御遺族から寄贈されまして、そのときにまとめたものもあります。それが一番新しいものです。
○委員長
   姫路文学館。
○宮村委員
   姫路市歴史博物館です。
○委員長
   非常に興味あるね。ちゃんとした評伝を書かなければいけないね。土木のこともきちんと専門的な知識を持って、古市公威の日本土木事業に与えた業績を評価する。それから、日仏関係の上での彼の業績を評価する。
○宮村委員
   それから、印刷されてない古市さんのヨーロッパ紀行のノートですとか、そういうのも東大の土木の図書室にあります。
○委員長
   東大の工学部ですか。
○宮村委員
   はい。
○委員長
   土木は今何と言うんですか。
○宮村委員
   社会基盤。でも、土木というのを使っておりますから。大学院の名前が「社会基盤」という名前で、学部は「土木」です。
○委員長
   そこに資料があると。これは、だれか書かなきゃな。
○委員
   残念ながらフランスの中に、彼が帰国してからどういうことをしたかというのが一つも伝わってないんです。向こうのポンジュショセイが、200年か300年で卒業生の中で著名な業績を挙げた人というこのぐらいの本を出しているんですが、全くないんです。
○委員長
   一般に、フランス人自身がアジアのことには関心がないし、無知蒙昧だからね。
○委員
   向こうに戻してないんですね。日本の中で情報が閉じているというのは非常にまずいので、そういう情報を世界に発信するようなことを考えていかないといけないですね。
○委員長
   きちんとした古市公威の400枚ぐらいの伝記を書いて、それも仏訳して出せばいいんだな。でも、古市公威はさっき言ったようにポール・クローデルが大正10年に日本に駐日大使としてやってくると非常に親しくつき合って、日仏会館の建設に非常にお金を集め、設計のことや土地の交渉まで含めていろいろやるんですね。非常に重要な役割を果たすんです。
○宮村委員
   昭和10年ごろ鎌倉の人たちと提携として、土木の人の顕彰を随分やっているんです。その中で河村瑞軒のお墓の整備は古市さんが発起人の一人としてやっております。
○委員長
   昔の人は、やっぱり昔を大事にしたんだな。
○宮村委員
   そんなことがあるので、肉声で少し背筋をピンとさせようという思いでやってみました。
○委員長
   関東学院大学土木研究室で、衆知を集めて古市公威の研究というので、300ページぐらいの本をつくったらいいですね。
○宮村委員
   たまたまお孫さんがすぐ近くにいらしたので、80何歳ですけど、まだ記憶が新しい方だったので、こんなものをつくってみました。
○委員長
   さっきの謡いの釜山鉄道の開通ですか。釜山鉄道というのは釜山と京城の間の。釜山に行って。
○宮村委員
   向こうでやったそうです。日本で鉄道省でやって、それから向こうでもオープニングをやったということです。
○委員長
   なるほど。
○宮村委員
   ちょっと歌枕と離れたんですけど、川の先人はこんなこともやっていたよということです。
○委員
   資料は関東学院大学の方にあるんですか。
○宮村委員
   そういうわけではなくて、たまたま。いろんな方が古市さんのことをやり始めているんです。ただ、その資料が一カ所にあるわけではないので、御遺族から寄贈されたのが土木学会が半分と、それから姫路市。というのは、御遺族から資料をあげるよと言われてから、保存しておくのに困っちゃったんです。本当は国土交通省がそれをやればいいんでしょうが、なかなかそうはいかないというので、土木学会の図書館の整備があったものですからそこへ入れようということで、半分土木関係のものだけもらって、個人的なものは姫路の方に。姫路の方も、実は生家がなくなっちゃってタクシー会社の駐車場になっているんです。これは寂しいことだなということもあって、姫路の方で一生懸命やった。これは建設省の国道の姫路工事が一生懸命やって、その資料の渡しのときに記念のシンポジウムをやったんです。
○委員長
   姫路藩の藩士ですか。
○宮村委員
   そうですね。
○委員長
   建設省が内務省の時代にさかのぼって、土木系の重要な技術の面でも行政の面での重要な働きをした人の研究とか評伝というのは。
○宮村委員
   やっと始まって、かなり進んできつつあります。
○委員長
   古市公威はその一番最初の方ですね。それから、さっきの菊池さんですか。
○宮村委員
   この方は逓信省にいたものですから余り評判にならなかったんですが、日本のすべての沢と言ってもいいんですけれども、沢の流量をはかって歩いたんです。明治41年か42年に東大の土木を卒業してから、家にほとんどいなくてずっと歩いた。大変熱心なクリスチャンだったので、日曜学校の先生をやったりして、全国の教会に泊まりながら全国の川の調査をしたという方です。流量調査だけは本になっているんです。これは大変貴重な本で、環境問題が出てきているだけに、本来の川の流量を知るにはいいものです。この方が逓信省ですから電気系統の水力発電の方だったので、洪水の話とはまた違うものですから、割合日の目を見ないままにきていたんですが、たまたまそのお子さんから、「うちの父はどんな人ですか」という設問を朝日新聞を通じて私のところに来たもんで、いや、偉い先生なんだけどという話をして。資料を今集めている最中です。
○委員長
   河川改修技術の上で重要な働きをした行政官、技師の調査と顕彰というのも大事ですね。
○宮村委員
   そうですね。それが意外に少ないんですよ。それが一つ河川行政の欠点になるのかなと思うんです。
○委員長
   それぞれの川に土着でいろいろ川のことをやった人間もいるけど、しかし、中央政府から官僚として管理した優秀な人物もいるはずですね。
○宮村委員
   それから、神様に祭り上げられた方も北海道にはいます。小原ゲンジさんという方で、これは夕張川の改修の後、治水神社に祭られたりしています。
○委員長
   どうも失礼いたしました。どうぞ。
○委員
   貴重な発表いただきました。ただ、和歌の詠まれている時代が大体平安時代で、ちょうどその図で示されているのが江戸時代で、中世の末ぐらいですか、戦国時代にかなり開発が行われているから、そこの間の転換というのは、時代的な変化をもうちょっと入れると、さらによかったんじゃないか。例えば、あれはみんな名所図絵とかそういう関係なんですけれども、絵巻とかその他いろんな図がありますので、それとドッキングさせると非常にいいと思います。
○宮村委員
   屏風で見つけたのが幾つかあるんですけれども、なかなかないものですから、空けておくより近世のやつでもいいから通し見してみたらというようなことで、苦しまぎれにあれを入れております。あれは平安時代ではないことを十分承知しておりますが、その辺を少し時間かけて発掘して、全部におさめられたらおもしろいなと思います。この作業が少し時間がかかるなということで、彼女たちはまだ1年1カ月か2カ月しか携わってなかったもので、その中では和歌の歌の勉強から始めたものですから。身近にいる先生方を訪ねて行ってそういうところから始めたもので。雰囲気を出す絵図、屏風、その他が出てくるといいなと思うんです。多分あるんじゃないかと思うんですが、その辺は先生、一度お邪魔させていただきます。
○委員
   あと最近の研究ですと、武士の館の根拠地は大体河川沿いなんです。いわゆる大路とかそういう道、陸路ではなくて河川の方がかなり重要だったのではないか。古代ですと大体大きな道をつくるんですけれども、これ、ランニングコスト、維持するのが大変なんですね。ちょっと雨が降るともう。中世になってくると基本的には大体河川の方がかなり重要になってきて、その周辺に大体こういうふうに館が生まれてくるという感じですね。平安時代の和歌とはちょっと違った、また、いろいろな文学作品なんかにも川が出てきますので、そういう変化を追っていくとさらにいいのではないか。
○宮村委員
   少し注目したのは大分県の宇佐なんですけれども、ここは「道の駅」の最初のところですね。ここは「館(たち)」と書かないで「家」と書いて、「駅家(えきか)」と呼んでいたようです。それが館とか。今は駅館川となまっているんです。ですから、道の方からきた川の名前なんです。川の名前の中に古代の思いをしのんでいるところがあって。道と川とどういうウエートがあったのか少し探りたいと思ったんですが、やはり道の方が強いなというなという感じは受けているんです。
○委員
   そうですね。ただ、古代は一生懸命維持するために、たくさん挑発してやるんですけれども、もうできないんですよ。
○宮村委員
   平安時代にできた道の管理システムを書いたものがあるんですが、これなんかは、街道に食べられる実のなる木を植えろと。どうしようもないときには松を植えろと。今残っている松林がすごいのは、ほかに方法がなかったときに、松林というのはそんな順序でいくとあったりして。道がいかにも人を往来させるために、道そのものの維持管理と、それから旅人へのサービスのためにどういうふうにするかというのは、多分川が前面に出てきて物流という概念になってくるのは、やはり近世になってからかなという感じがしていたんです。
 ただ、中世のころにどのようなかかわりを持っていたかというのは、余りよく河川史の方でもとらえてないものですから。物流も実は一番弱点になっているのが、船の数はわかるんですけれども、運んだ量が何の資料もないんですよ。これが日本の舟運の最大の弱点で、原点に返っての評価ができないものですから。海の方はできるんですが、川の方ができないんです。近世になって開発という概念になってきたときに、流域という概念が入ってくるので、中世のころにはそれがなかなか読み取れないんです。そんなことが川の表現の中で違うかなという感じがしているんです。
○委員
   平安時代は開発がなかったというか、それは僕は違うんじゃないかと思うんです。例えば飛鳥時代から、ものすごく川の開発をして。かんがいをするという視点に立って川と接していますし、そのためには当然治水が必要ですからいろいろ働きかけておって、人間の手もついていない自然としての川という時代があったと私は思ってないんです。そういう視点で奈良、平安の時代の川をとらえると、僕は違うんじゃないかというのが一つです。
 物流でいくと古い時代から川が使われておって、メインのルートは川で、その中に配っていくのは道路に頼っているので、その接点の港が非常に大事な働きを持っていると思うんです。そういう意味では、平安の時代が手つかずの自然を持っているというふうにとらえると、全く違うんじゃないかと私は思うんです。
○宮村委員
   中世のころの川関係、周りの用水路の関係で言いますと、もう反当たり収量を高める技術に入っていますので、かなり。ただその場合に地域分布があって、西南日本の方は反収を高めるための技術が入っている。ところが東北日本の方は開発の緒についたというところで、部分的に開発が進んだところがありますけれども、大きな川が多いところはなかなか手がつかなかったかなと。むしろ小さい川が集まっているところの開発は、ものすごい勢いでいったかなと思うんです。ただ、物流という概念で言うと、本当に船で物流、つまり米を集める必要もなかったというところもかなりあったので。小さいものを街道で運ぶことはあるでしょうけど、実際に川を動脈として生活圏の中で物流する必要があるかないかというのは、ちょっとよくわからないんです。
○委員
   奈良時代は全部集めていますから、それはものすごい物流があったはずでね。
○宮村委員
   ただ、その量がどのぐらいのものかというのをつかみ切れないので。近世になると割合つかみやすいので。という意味で、近世と中世と分けてみたらどうかという感じです。
○委員
   中世より前ですね。そのときから自然とのつながりという意味では今と同じような感じであったはずで、歴史のいろんなものを読むと、日本の古い時代は余りだめだったという印象がものすごく強く書いている本が多いんですが、僕はそうではなくて、もっともっとビビッドな関係があったんじゃないかと思うんです。特に川との関係においては。
○宮村委員
   それはそうだと思うんです。ただ、近世の開発の概念とその前の開発の概念はかなり違いますよね。つまり、思い切った改造的なものをやっていく場合と、そうでない小区域でやっていく場合と。例えば流域という概念がそんなに前からあったかというと、僕は余り感じられないんです。流域的概念を含めながらやっていくような近世の開発の概念とちょっと違えた方がいいかなという感じで。ただ、川の方から河川史をまとめた例がないので、この辺をもう一回やっていかなければいけないと思っているんです。
 ただ、時代と地域の分け方をやらないと、全部同じに押しなべてどういう時代だったかというのは難しいので。西南日本は単収を上げる技術は栽培品種だけではなくて、土地改良をやり始めていますから。そういうことの技術段階と、それから東北日本型の開発の概念と分けて考えてみたらどうかなと、そんな分け方を考えております。ただ、この歌枕に出てきたようなところは、そういう場所と東北の方は違うものですから、そこのところをどういうふうに読んだらいいのかなと思って。もうちょっと先まで行ってみてから振り返ってみた方がいいかなという思いなんです。
○委員
   おっしゃるとおり川の歴史がないということで、これは3月になっていますが、世界水フォーラムで水の歴史、川の歴史をまとめようとしたとき、日本、アジアが抜けるんですよ。そういう意味では、学問的にもぽこっと穴のあいている部分かもわかりませんね。
○委員長
   でも、揚子江とか黄河とか幾らでも歴史はあるよね。それから、淀川、吉野川だって。
○委員
   淀川にしても、淀川がどういう変遷をたどったかをコンパクトにまとめた本を1冊用意しろと、それを英語であるかと言われると、ないんですね。日本語でもないんじゃないですか。ありますか。
○委員長
   川の歴史というのは、どういうふうに川と人間がかかわってきたかという歴史。洪水になったとか、橋を架けたとか、物流の手段になったとか、そういうことまで含めた川の歴史ね。矢作川でも、淀川でも。
○委員
   何川でもいいんですが。
○委員長
   急遽今から淀川をやったらいいじゃないですか。国土交通省、大至急20人ぐらい動員して。
○委員
   本当にそのぐらいやらないと恥ずかしいぐらいで。
○委員長
   世界水フォーラムを招きながら、それがないの。では、淀川一つでいいよ、ぜひやってくださいよ。今1月24日だから、あと2月ある。2月あれば国土交通省はできますよ。近くのホテルに部屋とって、缶詰で2週間、原稿用紙で300枚書けと。世界水フォーラムからお金を出して、それが今年の国土交通省の一つの業績になる。それは恥ずかしいですよ。だって、ヨーロッパの川以上に、日本の川はもっといろんな人文の歴史をまとって流れているわけで。昔からローヌ川もロワール川も流れていたし、ミシシッピー川もあったろうけど、アメリカの川というのはろくな歴史ないじゃない。それと比べて、日本の文明は川で成り立っているということを言おうというんでしょう。それで川の歴史がないのは残念で、それはぜひ緊急動令で。局長はお帰りになったけど、かわって局長代理で。2週間。
○宮村委員
   共同作業が要るのに、そういう共同作業をやってないんです。
○委員長
   水フォーラムは滋賀県と京都と大阪でしょう。琵琶湖から淀川でしょう。琵琶湖と淀川だけでいいですよ。大至急。
○委員
   少なくとも私ども事務局としては、年内には何とかやります。
○河川計画課長
   日本の近代河川改修が始まってから大きい川も大体100年たっていますので、大体100年目ぐらいに各々の川で100年史的なものをまとめているんですが、その中に、過去から川がどういうふうな変遷を経てきたとか、あるいは地域とのかかわりも書いている部分はあるんですが、残念ながらそれを書いているのが土木系の人間が書いているので、人文的な話だとか今お話にある和歌の話とかになりますと、欠落してきている。そういう部分がございます。
○委員長
   古市公威はちゃんと昔の研究もやったいい伝統をとっぱなにつくっているのに、それを継承しなかった。まことに申しわけないじゃないですか。国土交通省、大先輩に対して恥ずかしくて、いても立ってもいられないんじゃないか。困ったもんだな。じゃあ、世界水フォーラムを1年延ばしてもらって。
○委員
   こういう研究会が始まったのはまさにそういうことでしょうから、この研究会の成果としても出てくることは大事ですよね。だから、そういう作業をやったらどうかな。後の議論にあるのかもわからないけど、本当にまとめて、共同作業としていろんな分野の方の。
○委員長
   それは前から言っていましたね。前の青山さんが局長のころ、局長室に呼ばれて行ったら、本棚にいろんな川の歴史の本がまとまっていましたね。ああいうのもまとめて、もうちょっとスタンダード化してまとめていくといいんですね。それから、川についてのデータベースをつくろうという話も何遍もここで出ましたね。淀川とポンとやると、淀川についてのことがダーッと3時間もぶっ続けに出てくる。映像は映像でバーッと出てくる。流域から、さっきの巨椋池のことから。大正時代どうなって、いつから巨椋池は消えたかとか、そういうことまで含めてダーッと出てくるような、そういう日本河川大百科というのは夢に見ている大叢書ですけど、ぜひ、実現してください。世界水フォーラムの最後の決議案に、日本河川の研究をこれから徹底して周到にやり遂げるということを、ぜひ宣言してくださいますように。
○委員
   この会のアウトプットとしても、ぜひ委員長に。
○委員長
   それから、さっきの歌枕は、歌枕に出てくる川を全部網羅したわけではないんですね。全部挙げたわけではないんでしょう。
○宮村委員
   全部挙げました。70幾つ。
○委員長
   もっとほかにもあるんじゃない。時代によって違うけど。
○宮村委員
   最初のときだけということです。
○委員
   これは新古今は入っているんですか。1種だけ出ていますけど、ちょっと少ないと思います。
○委員長
   では、どうぞ。
○委員
   とても立派な発表で、私2年かかって土木工学の論文を書いても、絶対あのレベルのものに行かないと思いますよ。
 私は専門家の端くれですからちょっと聞きたいんですが、平安時代の歌枕を挙げて、それの和歌を全部集めた本があるんですよ。広辞苑ぐらいの厚さの「平安和歌歌枕地名索引」というのがあるんですよ。それをごらんになった。
○千葉
   いいえ。
○委員
   それは見た方がいいね。自分一人で作品をつくるというのは立派だからそれはそれで立派なんですが、漏れがないかどうかというのを確認する意味でも。それは本当に便利な本で、「平安和歌歌枕地名索引」と言うんです。和歌を歌枕ごとに集めてあるんです。そこで川の項目だけチェックすればいいんです。
○委員長
   何通りかの歌枕集があって、そこからも取ってあるわけね。
○委員
   そうです。私家集も取っていますから、漏れなく平安時代のものは全部取っているんです。現存の歌は。ですから、多い河川だと1つの川で100を超えると思います。ですから、その1つの川の総合的なイメージが全部つかめるわけです。ここにこういうふうに抜き出していらっしゃるのはいいけど、どういう基準でこの歌を取ったかと言われると、ちょっとつらいでしょう。私家集は個人歌集の歌は引いてないと思うから、もっとあるんですよ。個人歌集の。
○宮村委員
   勅撰和歌集だけを取ったんです。
○委員
   もちろん勅撰和歌集というのはオーソリティーだから、それでいいんですが。
○宮村委員
   そのとき、特別の個人和歌集の中でも偉い人のも取りましたから、ほぼ取り上げたかなと思っています。
○委員
   論文にするときは、できるだけ川の総合イメージが大事だから、全体を見た感じで。
○宮村委員
   一応きょうは話せなかったようですが、それは全部取るようにしています。
○委員
   それは卒業論文の発表の入れてくださるのね。
○委員長
   「平安和歌歌枕地名索引」というのがありまして、それをこのたびは見る暇がありませんでしたと言えばいいので。あることをちゃんと言っておいてね。
○委員
   私どもがどういう点があれと思ったところ、これは追加する意味で申し上げるんですが、例えば玉川という川は日本に6つあるんです。これは有名な6玉川、6つの玉川。タマは東京都の多摩川ではなくて、宝石の「玉」の字を書きますけど、その6つの玉川を北から、ここに挙げてありますけど、そのうちの5つしか挙がってないんです。和歌山の紀ノ玉川というのが抜けていますけど、あれは何で抜けたんだろう。あれは勅撰集とか平安時代の歌に出てこない。弘法大師がつくったということになっていて、あれは新古今に出てきたんじゃなかったかな。
○千葉
   弘法大師の集に載っていたんです。
○委員長
   よほど有名な歌だよ。
○千葉
   平成時代に整理された歌集じゃなかったので。
○委員
   それは中世、伝承として日本の文学にかなり大きな影響を与えるんですよ。6玉川というね。「6玉川の歌」という歌までできるわけです。「陸奥千鳥 武蔵たづくり 近江萩 山は山吹 きどく つうつぎ」という、これは6つの玉川がどの国にあるかを挙げてそこの名産をセットで覚える。これは入試対策の第1号みたいな歌なんですよ。要するに知識を歌われたときに、漏れなく。そういう歌がいっぱいできるんです。川の覚え方もね。あと、海がない国の歌は「無海国の歌」と言うんです。海に面していない国の歌とか、そういうのがいっぱいあって。そういう国土がどういう条件にあるかということを昔の人は、中世ですけど、全部歌にして覚えたんです。それが知識を覚えていく一つの日本の知識修得の伝統になるんです。「鳴くよウグイス平安京」というのは、そういう時代に始まっているんですよ。だから、そういう国土の覚え方を含めて知識がどういうふうに集大成されていくかということを込みでお話になると、もうちょっとおもしろい面が出てくると思います。
 それから、これは揚げ足取りで申しわけないんだけど、長野の諏訪海のところに、「近江の海夕波千鳥」というのは琵琶湖だから、これはどうしても間違い。これ、直しておいてね。これは明らかな間違いです。ここにあるのはどう考えてもおかしいので、直しておいてくださいね。それから、もう言わないけど、あと14種ほどちょっと引用の細かい間違いがありますから、後で来てください。引用の細かい間違いをちょっと後で言います。ここの資料としては正確なものを残しておいてほしいですから、来てくださいね。
○委員長
   光田先生は日本の和歌とか俳句なんかの専門家なんです。だから、それはね。今の平安歌枕和歌集成は1冊の本の中に入れてあるわけ。
○委員
   1冊の本です。
○委員長
   いつ出ました。
○委員
   1970年ごろだったと思います。
○委員長
   それでは古本でしかないな。
○委員
   もう新本はありません。
○委員長
   どこの出版社。
○委員
   ひめまつの会というこれは個人出版に近いところです。平仮名で、ひめまつの会。出版社は大学堂書店という京都の河原町三条の古本屋だったと思います。片桐洋一先生のお弟子さんがやって、あそこで出しているんですよ。もう新本はないと思います。
○委員長
   片桐先生というのは、歌枕の専門家ね。
○委員
   はい。古本屋で5万ぐらいで買えます。
○委員長
   じゃあ、それは大学で買ってもらえばいいね。
○委員
   それはCD−ROMにはなってないんですか。
○委員
   それは……。
○委員
   万葉はなっているそうですね。万葉は全部入っているそうです。言葉を入れれば、ザーッとすぐ検索できるようになっていると言っていましたね。
○委員長
   国文学研究資料館あたりがそれをやってないかな。国文学研究資料館も、古い歌は全部コンピュータに入れてあって、「落ち葉」、「枯れ葉」というのを引くと、それが入っている歌がバーッと出てくるんです。
○委員
   それは『新編国家大観』(角川書店刊、CD−ROM版)ですよ。
○委員長
   国家大観を入れたらいいわけですね。
○委員
   CDになっています。
○委員
   だから、川の名前さえちゃんとしていればそれで全部出てきます。
○委員
   ただ、それは川の名前の昔の呼び方をちゃんと知ってないと検出できないからね。そこだけちょっと難しいですね。
○委員
   「川」と入れればバーッと出てきますね。
○委員長
   いろいろと論文指導、寄ってたかって。
○委員
   川にも名前がありますよね。
○委員長
   ああいう名前は、だれがいつつけたんですか。
○委員
   なかなかわからない。日常生活と川は非常に関係があって、道は古代国家ですよね。だから、道というのはすごく維持しようとして国家的なこういうものがあるんだけど、川は非常に日常生活にかかわっているから、どうしても道の思想の方が強いんです。例えば百科辞書とか何とかでは、川の名前を挙げるということはないんです。
○委員長
   いつの百科辞書。
○委員
   中世の辞書ですね。チュウガイショとかそういうものに川の名前は挙がってませんね。歌枕という形とかそういうことでは。ですから、非常に川は。
○委員長
   歌枕では、川は川だけですか。例えば海岸だと岸もあるし、磯もあるし、浦もあるし、江もあるし、地形によって、海岸の形状によって。石ころだらけの海岸は磯になり、大磯、小磯があり、何とかの浦もあるし、何とかの江もあるし、何とかの潟もあるし、いろいろ使い分けている。海の形態、海岸の形態。川はみんな川だけですか。
○委員
   川でしょうね。河川の「河」と「川」の区別さえ日本語にはないんですから。中国では江もありますけど。
○委員長
   大小もなければ、滝川から、ゆったり流れている川、その区別もない。
○委員
   滝は古い川の名前ですけどね。山川を滝と言っているわけですから。滝はあり得ますけど。
○委員長
   そうか、滝と川ぐらいですか。
○委員
   でしょうね。
○委員
   何で「川」と言うのか。
○委員長
   それはわからないんですか。
○委員
   そんなことで調べたことがないので。
○委員長
   でも、山を何で「ヤマ」と言うのか。そこまでいくと、本当に。
○委員
   おもしろいですよね。
○委員長
   穴師川というのは、あれは何で。足が痛いという書き方もありましたね。あれは何で穴師川ということになったのかな。淀川というのは、淀むからということが考えられますね。ああいう川の名前の由来というのも不思議ですね。地名の由来は。だれが、いつごろですか。やはり奈良の初めですか。
○委員
   もっと早いんじゃないですか。歌枕についているのは古代から使われていますね。
○委員長
   古代というのは、大和朝廷の成り立ちのころから。
○委員
   須佐之男がやってきたのはヒノ川でしょう。ヒノ川と言うからあったと考えて。
○委員
   風土記の時代ですね。
○委員
   川の名前の由来なんかが出てくる場合がありますよね。それが歌枕にあるとは別にどこにも書いてないわけですけど。しかし、あのつけ方からすると、基本的には神様が何かして、それでこう言ったという名前のつけ方ですね。
○委員長
   利根川というのは、何で「利根」なのか。富士川というのは富士山か。信濃川というのは、信濃の国が決まってからついた名前でしょう。
○委員
   それは隅田川なんかもそうでしょうけど、土地の人は「大川」ですかね。信濃川は僕らなんかだって、僕のところでは「大川」ですから。
○宮村委員
   地先の呼び名と全体の呼び名は違って、地先の呼び名から始まったと思うんです。例えば浅草川という名前とかね。
○委員長
   さっきの歌枕に戻ると、それぞれの川に固有の感情が託されていることもあるんですが、そこは余りよく出てきませんね。淀川については淀川なりの風情があって。例えば歌枕で言うと、「吉野」という歌枕は桜の花で、何かにぎやかで、華やかで、めでたい感じ。「宮城野」と言えば萩が必ずつきもので、悲しい、寂しい、旅先という感じで、それでもう定着するんです。「宮城野」と言っただけで、ある寂しい感じがズーンと日本人の中にはわいてくる。「吉野」というだけで、何かフワーッと桜が広がっているイメージがある。歌枕というのはそういう効果を持っているんです。
 あなた方が挙げた川の名前では、余りそれははっきり出てこなかったですね。男女川というのはわかるけどね。これも何で「男女」と書いて男女川なのか。こういうことまで言うとわからなくなる。だから、その川独特の風情とか、その川の名前を言うだけである感情を伝統的に日本人の心の中に呼び起こしてきたとか、そういうところまで幾つかの川について、この歌を詠んで歌の中から掘り起こしてくれば、さらに次元は深くなるのではないでしょうか。
○委員
   おっしゃるとおりです。
○委員
   この歌枕に詠まれている歌をずっと拾い出さないとだめなんでしょうね。
○委員
   そうですね。ですから、歌枕集成で見てそれを討議なりすればいいわけですね。
○宮村委員
   一つごとにはかなりの部分を拾い出してみているんです。残念なことに私どもの弱点は、歌の意味を皆さんに聞いて歩かなければいけないということで時間がかかってしまったんです。ただ、かなりの部分は拾い出してみて、素人なりに雰囲気は何かあるんだなということはわかりました。
○委員
   ちょっとうろ覚えなんですが、たしか今から15年か20年ぐらい前に「本朝三十六河川」という本が出ておりまして、これは御存じでしょうか。河川はもちろん川という意味なんですが、それは「三十六歌仙」に引っかけているんです。たしか日本の36の川についてその伝統とか歴史とかそれにまつわる文学をかなりまとめた、あれは大森何とかさんという人が世界思想社というところから出したもので、結構おもしろかったんです。あの方は民俗学の人みたいですね。ですから、それはここで参考にしてもいいような本ではないかと思います。
○宮村委員
   それは使っておりまして。ただ、川の方から言うと、これでいいのかなという部分はありますけれども。
○委員
   民俗的とか文学的なものが多いでしょうね。
○委員長
   どうもいろいろと一遍にいろいろな意見を、それから、学生さんに対する御丁重なアドバイス、ありがとうございました。
○委員
   1つ、画面に出ていた千曲川のところのあれ、どこかな。姥捨て山あたりのところでその絵の説明のところに、菅野真澄遊覧記と出ていたけど、菅江真澄、江戸の「江」です。あと、先生にはリバーフロントのあれは差し上げてないのかな。研究所の報告、同じ歌枕をあれしたの。
○宮村委員
   それは手元に置いてやっております。ですから、それにないやつをつけ加えながらやりました。
○委員長
   どうもありがとうございました。
 

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