ホーム >> 政策・仕事  >> 河川トップ  >> 審議会等  >> 過去情報

河川局

歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会 -日本文学に見る河川-

歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会
-日本文学に見る河川-
第九回議事録

平成15年11月13日(木)
日時:14:30〜17:00
場所:上山田ホテル3F弥生


 歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会
-日本文学に見る河川-
第九回議事録


1.開会の挨拶
 
○事務局
   それでは只今から「第9回 歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会」を開催させていただきます。
 資料の確認をさせていただきます。座席表を取って頂きますと、ホチキス止めをした資料がございます。一枚めくっていただきますと資料一覧がございます。もう一枚めくって頂きますと資料1、その後資料3に参ります。それはこれまでの懇談会の経緯でございます。資料4、今後の懇談会の進め方について。それから資料5、これは赤井先生の発表資料でございます。それからしばらくめくっていただきますと、資料6、新井先生の発表資料です。それから、それとは別冊になってございますが、先日第8回の懇談会で御報告を頂きました、本懇談会の報告書、これが資料2として出ています。以上でございます。そろっておりますでしょうか。それでは芳賀委員長、よろしくお願い致します。
 
2.話題提供
 
○芳賀委員長
   どうも今日はお寒い中、皆様おいでいただきましてありがとうございます。この研究会は今回で9回目になります。前回、これまでの研究会の様々な報告を要領よくまとめてくださいまして、こういう冊子が出来、これを国土交通省の河川局局長に提出いたしました。
 その時にこの研究会ではこれから歴史、風土に根ざした郷土の川について懇談をしてくれということで、この研究会・懇談会を続けることになりました。懇談会の趣旨につきましては河川情報対策室長に、まず簡単にご説明いただくということになっています。
 どうぞよろしくおねがいします。
○河川情報対策室長
   時間が押していますので簡潔に解説致します。資料4をお開き頂きたいと思います。本懇談会は川の姿、川と人との関わりを文学などを中心とした学術の中で考え直して見ることを目的といたしまして、平成12年8月から開催をしてきております。
委員の方からは和歌や俳句、絵画、映画など色々な話題提供、ご議論を頂きました。また、飛鳥村とか最上川、北上川などの視察もしておりました。
その結果をまとめさせていただきましたのが、只今委員長からご紹介頂きました報告書でございます。これは河川局のホームページの方にも掲載させていただいているところでございます。
 今後でございますけれども、世界文学に見る河川と日本の川の比較を通じて、日本の川の特性を明らかにして参りたいと考えてございます。
 本日はその第1回目としまして、赤井先生にご紹介をいただくという予定で考えているところでございます。
 今後年2回毎のペースで開催したいと思っておりまして、そのうちの第1回は今回のように、実際の河川を見ていただきながら、日本河川の姿につきまして、色々御提言をいただければと思っております。以上でございます。
○芳賀委員長
   どうもありがとうございました。
 この懇談会の研究内容も段々広がりまして、ついに世界の芸術における河川の表現ということにまでなってまいりました。今日はこの千曲川沿いのこの場所で、世界文学における河川研究の第1回として國學院大學の赤井先生に「中国文学に見る河川と人と」ということで話題を提供していただくことになりました。赤井先生のお話の後に、今日と明日と見学させて頂きます千曲川の流域の歴史・文化につきまして、小諸市の藤村記念館の新井館長に「島崎藤村と千曲川」、それから市川長野県立歴史館館長から「千曲川と歴史風土」ということでお話を頂くことになっております。
 じゃあ、赤井先生、どうぞよろしくお願い申し上げます。
 赤井先生には今日資料を頂いておりますね。
○赤井臨時委員
   お手元の資料5から私の資料になります。中国の中世文学、中世文学と言ってもちょっと分かりにくいと思うんですけれども、大体7世紀から10世紀。王朝で言いますと唐の時代の唐詩という詩や文章、小説などを勉強しております。
 今日は資料をあらかじめ配布しておったんですけれど、図版があった方がご覧いただいて、少しでもイメージが湧きやすいかなと思って、コピーをして頂きましたので、併せてご覧いただければと思います。
 中国文学と一口に言いましても、3000年の歴史がありますので、なかなかやっかいであります。的を少し絞りまして私の専門としております唐詩を見てみようというわけです。
 中国文学の中で海という言葉は、例えばはじめに書きましたように四海ですとか、それからかいだい海内ですとか、世界や宇宙といった意味でよく使われる言葉であります。しかし、実際に詩人・文人たちが海のイメージをどの程度具体的に持っていたかといえば、非常に漠としている。わかりにくいです。つまり本当に海を見た詩人というのはどれくらいいるのか。つまり、ほとんど海を見てないで海をイメージしているという感じすらします。我々海になじみの深い日本人から見ますと非常に驚くというところがございます。
 荀子という書物にはこういう言葉がございまして、土を積みて山となり、水を積みて海となると。土が積み重なって山ができ、水が積み重なって海ができるという。また、王維という詩人には、阿倍仲麻呂、中国名はちょうこう晁衡と言いますけれども、この阿倍仲麻呂は若くして唐に渡りまして官僚になっています。友人には李白ですとか、王維ですとか、当時一流の詩人がいました。で、帰って来ようとして難破して九死に一生を得るんですけれども、その時死んだと、阿倍仲麻呂死すという報が流れまして、李白ですとか王維は非常に悲しんでですね、死を弔う詩を作っています。その前に送別の詩を送っているんですけれども、阿倍仲麻呂が日本に帰るということを聞きまして、中国の詩人たちは遙か大海、大海原の向こうにある海のイメージというのはですね、非常に今から見ますとまるで魑魅魍魎が跋扈する暗黒の世界といった感じで描いております。それに対しまして川というのは、非常に具体的で、しかも頻度も多うございまして、今日話題提供で申し上げますのは、特にその河川、詩歌に見えました河川という点で申し上げたいと思います。
 漢詩、唐詩と呼ばれるものにはいくつかのテーマがございまして、今日はそのテーマのいくつか代表的なものを選んで、詩をいくつかピックアップして参りました。まずはじめに見ますのは送別詩に見える川、河川ということで、王昌齢、これは盛唐の詩人なんですけれども、大変有名な詩で恐らく多くの方がご存知かと思うんですが、「芙蓉楼にて辛漸を送る」という詩でございます。
 「寒雨 江に連なり 夜 呉に入り
 平明 客を送れば 楚山 孤なり
 洛陽の親友 如し相問わば
 一片氷心 玉壺に在り」
 このように歌っております。ここで出て来ます川は「江」。普通、江と言う場合は長江を意味します。黄河の場合はさんずいに河川の河ですね。可能性の可のさんずいの河の方を使うことが多うございまして、仮に長江の本流でなくても、支流でも江と言うことが多うございます。この場合には長江を歌っております。訳をそこに付けておきましたので、ちょっとこの詩を読んでみますと、
 「川面をたたき煙らす冷たい雨が激しく降り、
 我々がいる呉の地方に到来する。
 一夜明けて旅立つ君を送る早朝には
 既に雨は晴れ、楚の山がひときわ寂しく聳える。
 君が帰る洛陽の友人たちが、
 君に私の消息を尋ねたならば、こう答えてくれと言うわけです。
 私の心境はあたかも
 一つの氷が玉の壺、玉壺の中にあるようなもの、と答えてくれたまえ」
 ここで詩人たちは友と別れ、帰っていくわけなんですけれども、それを送る光景が一句目、二句目というわけです。ここに注意しなければいけませんのは、川と山が描かれています。多くの場合山水と熟したり、山河と熟したりするように、中国文学においては山と川というのは自然そのものを表すことが少なくありません。山は動かない、川は絶えず動いているという象徴にもなるわけですけれども、この場合、ぽつんとそびえます山は詩人の心象とも言えますし、川というのはそのまま乗っていけば自分の故郷に行き着くという発想で詩人たちは歌っているようであります。
 どのような船でどのような別れをしたかというのは非常にわかりにくいんですけれども、今それも併せて私は勉強しております。しだいに考古学的な資料ですとか、絵画の資料ですとかによって、ある程度かなり具体的にですね、詩人たちがどの程度の船、どの程度の経路をとって都との間を行き来しているかということはわかりつつございます。だからここに、図版資料にあげましたのは、かなりシンボライズされていますので、そのまま信用していいかどうか分かりませんし、時代もかなり後期のものです。ただ中国においては絵画が特に発達しますのは明以降、宋から明です。宋のものはほとんど、伝なになにという作家が伝わっていまして、そのまま真物かどうか決めにくいところではございます。明以降に大きく発達しましたので、この明の版画をいくつか載せておきました。このような例にあげましたのは、渡し場と言いましょうか、送る人と送られる人とが別れをしているシーンであります。苫屋船のような船が半分ほど見えまして、船頭が竿を差しています。お付きのかむろらしき童がご主人の乗るのを待っているというような感じであろうかと思うんですけれども、そういう図式で送別のシーンが描かれておりまして、下の飛びまして、Cの方もそのような。こちらの方がちょっと船が大型になっています。マストが2本、少しロープらしきものがあるんですが、これはマストを上げるだけではなくて、先ほどもちょっと我々見学しました時に、船を陸から引くという話をどなたかなさっていたと思うんですけれども、中国ではそれは現在でも行われていまして、急流の時には船をロープで引っ張ります。水夫、その水夫の詩っていうのも唐代には残っておりまして、こういうようなかたちで人々は別れていた。ここに描かれますのは、ほとんどが士人・・・poetではなくてですね、武士の士に人と書きます士人。士人階層ということで、同時に役人でもあり官僚でもあり、また詩人でもあったわけです。そういった階層の人が当時の文化・教養を担っておりましたので、ここに出てくる人々も、概ねはそうだろうと考えられます。
 それでは次に送別詩に見える川のB・・・。
○芳賀委員長
   今ので、この一片の氷心玉壺に在りというのは有名な言葉のようですけれど、これはどういうことですか。一片の氷心。
○赤井臨時委員
   一片というのは普通量詞で使われまして、ひとひら、月なども天上に昇る時にはひとひらと感じます。この場合は氷ひとかけらといった場合、それが玉の壺の中にある。つまり、今で言うとガラスのような乳白色の半透明の壺の中に氷が入っている。そのような自分の心境だと言っているんです。
 つまり何物にも煩わされない清澄な、澄み切った気持ちということであろうと、今は理解されています。
○芳賀委員長
   じゃあ別にこの洛陽の親友は、自分の親友でしょ。その親友から離れていることに自分は不安でも寂しくもないということですか。
○赤井臨時委員
   そうですね。この場合は実は色々な説がありまして、友人達はこの王昌齢に向かって何をしているんだ。つまり、鳴かず飛ばずではないかと心配しているわけです。それに対して自分はそういう俗世に煩わされるような気持ちはなく過ごしているという例えであろうと理解されています。
○芳賀委員長
   悟っているわけですね。冷え冷えとしているわけではない。
○赤井臨時委員
   この表現はいくつか先行例もございまして、皆がプラスの肯定的な表現で。
○芳賀委員長
   ここの最後の一句だけを軸に書いてありますね。
○赤井臨時委員
   そうですね。ことわざのようになっておりますですね。
○芳賀委員長
   つまり、非常に安らかな、静かな気持ちで、俗世に未練を感じたりはしていないと。で、この親友に対して別に悪くないわけね。お前さんいなくたって私は静かにしてるから。川と関係ないけども。
○赤井臨時委員
   これは旅立つ友人に言付けていくわけですので、自分の心境を伝えてくれということだそうです。
○芳賀委員長
   なかなかこうは言えないものな。大変よく分かりました。
○赤井臨時委員
   続きましてBの方ですけれども。これも送別詩として大変名手だと、李白と並んで名手だろうと言われています王維の作品で、「斉州に祖三を送る」と。この祖三の三という字は排行と申しまして、一族の年嵩の者から大を付けまして、後は二、三、四、五、六と、多いものになりますと三十ですとか四十となります。
○芳賀委員長
   総数で。
○赤井臨時委員
   同世代です。つまり同じ世代ですね。ジェネレーションを同じくする従兄弟、はとこの類は全て当時兄弟とみなしてましたから。
○芳賀委員長
   兄弟じゃなくて従兄弟まで含めてこの順番で行くんですか。
○赤井臨時委員
   その当時一族をどう数えるのかというのも難しいんですけれども、祖父、父親、自分の世代という、それをひとつのジェネレーションと見て、くくっていたようですね。
 この祖三というのは祖詠であると。「詠」というのは、ごんべんに永久の永と書きます人だと言われています。これは少し長い形で五言の八句、律詩からなっています。
 「相逢いて 方に一笑し
 相送りて 還た泣を成す
 祖帳 已に離るるを傷み
 荒城 復た入るを愁う
 天 寒くして 遠山 浄らかに
 日 暮れて 長河も急なり
 纜を解けば 君 已に遙かなり
 君を望みて 猶お佇立す」
という詩です。ここでは王維が見送る人で、祖詠が見送られる、旅立つ人という図式で作られています。最初は君と会っては破顔一笑、別れては涙を流すということで、その出会いと別れを描いています。祖帳というのは別れの宴を言います。この言葉は大変古い言葉で、他には祖餞ですとか、祖宴ですとか、餞というのはしょくへんに錢という字のつくりを書きます。はなむけするという意味であります。こういった宴で詩人達は友人を送るわけですけれども、これについては後で少し補足説明致します。荒城というのは荒れ果てた町ということで、荒城の月の荒城と意味としては同じなんですが、城ではありませんで、これは町。まあ中国は城郭都市ですので、城というのはほぼイコール町と考えていただいていいかと思います。友人のいない町に帰るのは悩ましい。君は既にいないから、帰る町も荒れ果てて見えると、これは心象の風景であって、現実町が荒れているわけではありません。その次にやはりまた山と川が出てまいりまして、天寒くして遠山清らかに。遙か遠く、山々がくっきりと見える。寒いと言いますからこれは季節感を表す言葉で、秋から冬、多くは冬のことを詠む言葉が多いです。日が暮れますと、長河も急なりとはどういう意味かと言いますと、天が寒くなると空気が澄み、遠くの山々がはっきり見えると。これは視覚的な描写で、六句目は日暮れて長河も急なり。日が落ちまして、落ちると視覚的な器官が働かなくなりますので、聴覚的な、耳で川の流れを聞いている。せせらぎが急に聞こえてくるということだと思います。
 纜を解きますと、君は既に遙かに遠くまで行って点になってしまう。ずっと君を望み続けては佇み続けるという詩であります。これもやはり山と川が象徴的に歌われておりまして、山は両者を隔てるもの、川は遠く離れた地点を結ぶものといったイメージで、この川の流れに乗れば見送られる祖三は、あっという間に遠く離れていく。やがて帰っていく土地に帰りつくと詠まれている。最後の2連は、君を望めば既に遙けしと読む読み方もございまして、これも人口に膾炙している表現かと思われます。
 これも別れの詩なんですけれども、先ほど申しました祖帳について一言申しますと、この祖帳というのは現在の別れですと、例えば駅でも飛行場でもそうですけれども、まあ見送る者と見送られる者がさようならと言って別れます。当時は、例えば長安、都から西もしくは東南に別れるのが主なんですけれども、西に行く人には渭城と言って渭水のほとりの町まで一泊して見送りに行ったんです。つまり見送る者も一泊して、同道して途中まで行きます。で、見送る者は、また帰ってくるわけですね。旅立つ人はそのまま旅先へ進むというかたちで送る、つまり儀式と言いましょうか、これは古代の儀式から繋がっている発想でして、その名残が、実は祖帳とか祖餞とか祖宴というかたちで、別れの宴ということで残っていた。実はその宴というのは、大袈裟に言いますと宗教的な儀礼と言ってもいいかもしれません。古代の社会によっては、そういうようなことが漢字の方からは認めることが出来ます。それが宴と結びついて、儀式というほどの大袈裟なものではないんですけれども、一種セレモニーとして、別れの宴として定着したのが、祖帳、祖宴、祖餞という言葉です。この祖帳というのは「とばり」。直訳しますとテントですので、本来は道ばたにテントを張って宴をしたというのが、原義です。もちろん後には宿屋でこれを行っております。
○芳賀委員長
   なんでこれは「祖」という字を使うんですか。
○赤井臨時委員
   祖というのは道祖神の祖でもあるんですけれども、道の神様を祖と言いまして、この祖には色々な原義が考えられていますけれども、「且」というのはですね、道の神様だろうと言われております。元々しめすへんは神を示しますので、本来このしめすというのは元々神の依代で、これはしめすでもいいですし、Tの字型、あるいはTの字に点々が左右にふたつ付くという、これは神の依代にお酒を振りかけるというところから来ている象形文字でして、これはローマ字で言いますとIの字、Tの字、それからこの「しめす」という字で、いずれも同じ意味です。ですからかたちとしては変わって表れますけれども、意味は同じで神の依代。右側の「かつ且」と字に本来の意味があったように思われます。
 これは道の神様、道神と考えられていまして、その道の神様をお祭りする。中国の古代社会には祖という、道の神様はどういうのかという儀式まで今ではかなりはっきり分かっていまして、その儀式がどういうものであったかというと、ちょっと話が長くなりますので、そちらはあとで、もしご質問等あればお答えしたいと思います。
○芳賀委員長
   この長河は、これは黄河ですか。
○赤井臨時委員
   これは黄河です。
 詩人たちは漢詩の場合、ひょうそく平仄というのがございまして、今の中国でもございますけれども、平らな響きと傾きのある響きというのをはっきり分けていまして、もちろんそれによって使い分けすることもあるんですけれども、川においては、ほとんどその使われる型はありません。
 それでは2ページの方にページをめくっていただきますと、ローマ数字のUというのは「登高遠望詩」にみえる川といって、「登高遠望詩」というのも耳馴染みがないと思いますけれども、要するに高いところに登って遠くを望み見るという、これも元々は宗教的な祭祀に由来する節句に定着した儀礼なんですけれども、端的に申しますと9月の9日、これは例えば1月の1日から3月3日、5月5日、7月7日という奇数月は、いずれも例えば、3月上巳ですとか端午の節句ですとか、7節供七夕ですとかという奇数月は節句として定着しているんですが、以前中国から伝わった習俗で日本にも重陽の節句というのがございまして、九・九ですね。9月9日は高いところに登って菊の花を浮かべた酒を飲むという風習がございました。その元々の宗教的な祭祀に由来する節句と思っていただければいいんですが、この高いところに登って遠くを望み見るというのは、高いところとは何処かというと、山でも結構ですし、丘でも結構ですし、楼閣ですね、高殿、うてな台、塔。唐の詩人はここに出て来ます台ですとか、それから塔ですね、タワーです。それに登って詩をよく作っております。Cに挙げましたのは李白の金陵の鳳凰台に登るという、現在では南京に相当するところの鳳凰が飛来したと伝わる台に自分は登ってみて、その感慨を詩に歌っています。
 これは先ほどの詩よりもちょっと長くなりまして、1句が7言8句からなりますから、7言の律詩ということになります。
 「鳳凰台上 鳳凰遊び
 鳳去り 台空しくして 江自ら流る
 呉宮の花草は 幽径に埋もれ
 晋代の衣冠は 古丘と成る
 三山 半ば落つ 青天の外
 一水 中分す 白鷺洲
 總て浮雲の能く日を蔽ふが為に
 長安見えず 人をして愁えしむ」
 この詩は実は崔ルという人の黄鶴楼、黄色い鶴のたかどの楼というのが武昌にあったと。現在は再建されて鉄筋コンクリートの高殿が立派に建っていますけれども、唐代のものは消失して、現在はそのものはございません。それを意識した詩だと言われるんですけれども、鳳凰台上に鳳凰が来たけれども、鳳凰は既に去って、台だけが空しくある。傍らを長江が流れていく。呉宮の花草は幽径に埋もれ、晋代の衣冠は古丘と成るというのはいずれも繁栄を誇った呉の宮殿、その花草も道端に埋もれてゆき、晋の時代栄華を誇った貴族たちも、今は丘となっている。三山半ば落つ青天の外、切り立った山がここでもまた出てまいりますけれども、これは天から落ちたようだと、逆の発想をしております。ひとつの川が白鷺洲を挟んでふたつに分かれて流れていく。ここまではつまり、鳳凰台上から見た景色であるわけですけれども、その後が、ちょっと比喩が入っておりまして、浮雲が、浮き雲が太陽を覆い隠すが為に、自分にとって故郷である長安は見えず。人というのは自分のことを言いまして、これも慣用句です。私は悲しくなる、このように歌っています。
 これは高いところに登って遠くを望み見るというのはどういう意味なのかと言いますと、実はこれはある方向性がこのテーマには隠れていまして、ひとつは望郷、故郷を懐かしむ。郷愁ですね。もうひとつは時間の推移、時間の経過を嘆くという主題がほとんどの場合、この登高遠望詩には認めることが出来ます。
 従って李白はこの金陵の鳳凰台という台に登りながら、自分は故郷に帰りたいなぁという思いと、それから時代の移り変わりですね、栄華を誇っていた人たちも、昔この地で栄華を誇っていた人たちも今は既に皆滅びてしまっていなくなる。そういう二重の時間の推移、それから時代の変遷、望郷という、巧みに読まれていると思います。
 この詩の7句目ですね、最後から2句目に、浮き雲が太陽を覆い隠すという表現が出てくるんですが、ここも色々諸説があって、これは古詩十九首詩という漢代に作られた詩を意識して作られているということで、恐らく自分を排斥した高力士などをこのように批判しているんだろうという説もございます。
 それからもうひとつDの文、これは明らかに九日と出ておりますので先ほど申しました重陽の節句ですね。重陽の陽という字は陰陽の陽、陽を重ねると書きます。中国人は奇数を陽、偶数を陰と考えましたので、10までの最大の数である9が重なるということで、重陽の節句を一番尊んだわけです。このDは9月の9日に斉山という山に登って、やはり高いところに登り遠くを見ているという詩であります。
 ここでは、
 「江は秋影を涵して 雁初めて飛び
 客と壺を携えて 翠微に上る
 人世 口を開きて笑うに逢いがたく
 菊花 須く満頭に挿して帰るべし
 但だ 酩酊を将って 佳節に酬いん
 用いず 登臨して 落暉を怨むを
 古往近来 只だ 此くのごときのみ
 牛山 何ぞ必ずしも独り衣を沾おさんや」
 折しも9月、秋ということで、重陽の節句、牛山に登って遠くを望み見ようとします。お酒を携えて、翠微というのは山の中腹を翠微というと辞書にございます。人生人の世、口を開きて愉快に笑うに逢いがたくというのは、『荘子』に典拠がございまして、「人生、口を開きて笑うは一月のうち4〜5日のみ」と。人生というのは辛いもので、1ヶ月のうちに大きく口を開けて愉快に笑うことが出来るのは4日か5日ぐらいだと、人生を道破した言葉だと思いますけれども、それを踏まえて言っております。ですから菊花、菊の花を頭一杯挿して帰ろうと言っているんです。菊の花は邪を払う効能があって、お酒に菊の花を浮かべたり、普通は懐に挿しても結構ですし、頭に挿しても結構ですし、肘に当時は付けたという説もございます。菊の花は邪を払うということで、一年の厄を払おうというわけです。ただ高いところに登って落暉を怨む、つまり夕日が落ちていくのを悲しむ必要はないよと言っていますのは、先ほども言いましたように、高いところに登って遠くを望み見るということは必ずしもただ、物見遊山で行くんではなくて、望郷ですとか郷愁ですとか、そういうものを持って行く行為ですので、夕日を怨むまでもない、何故ならば古往近来、昔から現在に至るまで人生というのはみんなそんなもんなんだ。なるようにしかならない。時間は刻々と過ぎていく。「牛山何ぞ必ずしも独り衣を沾おさんや」というのは非常にわかりにくい言葉だと思うんですが、これは昔、斉の景公が牛山に登って泣いたわけですね。そうすると側近の二人もはらはらと涙を流して、王様が泣いているんだから自分も悲しいというわけですが、独り側近のあんえい晏嬰だけはにっこりするわけです。王様が泣いているのに何お前笑ってるんだと怒られるわけですけれども、それはおかしいというわけですね。もし王様、死を恐れているのだったらそれはおかしい。もし人間死ななかったならば、王様の先代、またその先代、その先代という優れた聖人賢人がたくさん死なずに残っていて、王様が出る幕はないんですよ。こう諫めることがあった。ですから牛山何ぞ必ずしも独り衣を沾おさんやというのは、死を恐れる必要はない、涙を流して悲しむ必要はないんだという戒めの言葉になっています。
 ここでも実は何故ここで河川が大事なのかということになるわけですが、図版の資料のBをちょっとご覧いただきたいんですけれども、これは柳宗元という人が幽州に左遷された時のある山に登ってやはり望郷をしているところなんですけれども、これはまあ大変分かりやすいから載せてきましたけれども、よく見ますと、下は川なんですね。遠くに見えますのが、この山の向こうには自分の故郷である都があるという図式なんですけれども、その高台に至るまでに階段が見えまして、そのところにやはりお付きの者がお茶かお酒か分かりませんけれども、お酒だと思うんですが、それを持って階段を上ろうとしている図式です。ここに見えますのはつまり、高いところに登って故郷が見えるのか。例えば金陵から見えるはずがありませんし、この斉山からも自分の故郷が見えるはずがありません。例えばここ長野から東京が懐かしいと言って、東京が見えるはずもないんです。ただ、心境としては遠くを望み見るという行為自体に背景があって、それも時間があれば補足致しますが。問題なのはこの山と川であります。この山と川というのは、望んで遠くを見るというのは、人間はですね、昔からそうなんですけど、上と下、天と地と言いましょうか、山と川を詠じて、天地の間にあるものを全て詠じたする、見たとする、そういう発想がございます。現実には見ていないんですけれども、ひとつひとつはつぶさに詩に読むことは出来ません。例えば山、その山にある木、あるいはそこに動物がいたりする、鳥が飛ぶ、畑がある、河川がある中州がある鳥がいるというのは全部読みきれません。しかし、この山と川を描くことによって、その天地の間にあるもの全て把握した、見たという発想がございまして、ここに山と川が決まって歌われるのはそういう意味があります。従って山は天に近いもの、川は地を流れるものという意味で、河川が出てまいります。この河川に乗れば、先ほどの送別詩のように自分の故郷に帰り着くという発想がございます。
 登高遠望というのはそのように、ただ9月の9日になると高殿や山や丘に登って菊を浮かべた酒を飲むという風習だけではなくて、その背後にやはり山や川に託した思いがですね、あるということをご注意いただければと思います。
 それではちょっと先を急ぎますけれども、3ページをご覧いただきたいと思います。
 「隠逸詩」に見える川ということでございます。
 これも詩の中の代表的なテーマのひとつなんですけれども、隠逸という言葉を説明しますと、先ほども申しましたように詩人たちは同時に官僚であり、また教養を支えていく階層でありました。当時の詩人は殆ど、100%と言っていいくらい、官僚です。しかも高級官僚です。ですから今で言うとキャリアの人たちということになります。
 この隠逸というのはですね、隠れ逃れるという意味です。どこから隠れどこへ逃げるのかということなんですけれども、ひとつは一番分かりやすいのは、先ほどご紹介頂きましたけれども、私の勤めている大学が國學院といって國という字は正字で書きます。これを学生達は古い字体だと言ったりしますけれども、漢字に古い新しいの区別はございませんで、この國という字をご覧いただきたいんですが、この國という字はどういう意味かと申しますと、実は右側にほこ戈があるんですね。その戈で護られている小さな中の四角が都城を意味します。つまり、城郭を矛で守っているというのが或という、或いはという字なんですね。それで十分城郭を意識しているんですが、後の人はそれでは足りないということで、更に城郭に城郭を囲ったのが、この國という字になります。つまりこの國を一歩出たならば危険だ。古代で言うと魑魅魍魎が跋扈する、悪霊がいる世界ということになりますので、人々は人知の及ばぬ世界と考えたわけですね。ですから国の中は秩序立って、人為的な完成された空間ということになります。そこから一歩出ると、そこが非常に危険な地ということになる。つまり人為的に完成された国に排除されたり、あるいは折り合いがつかずにそこで住みにくくなった人間は、そこを出るほかないんですね。そこは何処かというと、そこが自然だったんです。実は自然というのは、中国人にとって、ずっと好ましいものではありませんでした。実は悪意があったわけですね、自然というのは。ですから自然の中で生活をするということは、同時に非常に危険を伴いますし、人間的な生活は出来なかったという発想なんです。
 ところが人間の世界で上手くいかない人間はそこに住むわけにいきませんので、そこから逃げて隠れるわけです。山に隠れ、川に隠れたわけです。それが実は隠逸詩という詩として、肯定的な意味を持って自然が捉えられるようになった、ひとつの契機であります。
 ですから山海経と言って古代の中国人の地理感と言いましょうか、認識を表した書物があって、それには図がついていたと伝わるんですけれども、その図そのものは残っておりません。現在は後世のものが残っておりますけれども、そこに出てくる動物ですとか、何々の国というのがあります。その国の住人というのは、今から見れば妖怪ですとか、魑魅魍魎といった類に描かれております。ですから当時の人々が人為的な国の外にある世界をどう捉えていたかというのは、そういうことからも端的に分かるんですけれども、それがいつ、自然が人間に好意を持ったか、あるいは人間が自然に好意を持ったかというのは、西暦で言いますと4〜5世紀頃、いわゆる秦漢帝国以降の魏晋南北朝という中国が三国志で有名なんですけれども、分割され群雄が割拠する時代、つまり黄河を中心とする文明から長江を中心とする文明の美意識が再認識された時期にほぼ重なりまして、南の地方ですね。まあ中国を大きく分けまして華南とか華北とか大雑把に言いますけれども、あれはどこで分けるか、何が境になるかというと、ひとつの文化的な線がですね、秦嶺山脈と淮河を結ぶ線だと言われています。ですからそこに見えない線を引いていただくと、恐らく文化的な境目があるだろうと。ですからそこから北の物は粉食文化ですね。粉で食物を加工して食べる。北が粒食文化といって、粒でお米を食べると。今はそんな区別はあまりございませんけれども、例えば北京の人々が餃子を好んで食べるのですが、餃子というのも小麦粉の文化ですね。日本人は麺というとヌードルを思い浮かべますかれども、元々中国語で麺というと小麦粉です。小麦粉を言います。ですから麺というのはまんとう饅頭でも結構ですし、蕎麦でも結構ですし、餃子でも何でも結構なんですね。粒食文化は南の方ですから、我々と非常に風光も似てます。ですから華南は自然だけ見ますと非常に日本の風土と似ているし、風景だけ見ますとちょっと分かりませんですね。ただ川から水牛がわぁーと出て来たりしますので、ちょっと違うなという感じはしますけれど。風光だけ見ると似ております。
 そういう自然が人間に好意を持つ、人間が自然の美を発見するというのが最初にEに挙げました、謝霊運の時代。謝霊運は最初の人と言っていいかもしれませんですね。これは「始寧の墅に過る」と、長い詩でしたから、川が描かれていて、美がどのように描かれているかというところを節録して参りました。この謝霊運というのは謝氏と言って南朝随一の貴族であります。もともとは謝玄の孫に当たりまして、そのままでいけば諸侯あるいは王、下手をすれば天下を取ったかもしれないんですけれども、時あたかも晋の時代から宋になる時代でして、冷遇されます。政治的な才能もあり文学的な才能もあったんですけれども、非常に冷遇されまして、その憤懣を自然の中に求めたと言われています。その一節が表れている部分を引いてまいりました。
 「山行して 登頓を窮め
 水渉して ゙沿を尽くし
 巌は峭しくして 嶺は稠畳たり
 洲はめぐりて 渚は連綿たり
 白き雲は 幽き石を抱き
 緑の篠は 清き漣に媚ぶ
 宇を葺きて 迴れる江に臨み
 観を築きて 層なる巓に基す」
 山歩きしては上り下り。謝霊運は大変山歩きが好きだと。自分で山歩き用の下駄を作ったと史実にはあります。川を――上り下りとありますが、これは遡り、水に沿って下るという意味にご理解いただければと。で、切り立つ巌は険しくて、嶺は重なり、中州はぐるりと回って、渚はずっと続いていくという景色を。15句目の句は1句で、これだけで諺にもありますけれども、白き雲は幽石、幽き石を抱くようにして、空に浮かび、緑の竹は清きさざなみに媚びるようにゆらめいているという表現かと思います。ここに謝霊運は、しょ墅を構えて、政治の世界を捨ててこの別荘に帰って参ります。タイトルのしょ墅という字は野原の野に土と書きますけれども、今でも使われる言葉ですけど「別荘」と理解して良いかと思います。まあ園林と言ってもいいかもしれません。自然に手を加えて、美意識をそこに再発見するというきっかけになる時代です。
 Fは王維で、これは先ほど送別詩にも出してきた詩人なんですけれども、実は王維という人は19歳で科挙に合格して、67〜68歳で官吏を辞めるまで隠棲したことはございません。つまり厳密な意味で官位を捨てたことはないんです。役人を捨てたことはないんですが、この人は隠逸詩人として非常に知られています。それは何故かと言いますと、実は半官半隠、半分官吏で半分隠者だというような評がありますように、そのバランスを取った非常に精神的なバランスを取った詩人として先駆けをなす人です。その終南山、都のほぼ東南にありました終南山に別荘をこしらえて、川谷という、南川谷というのが正しいんですけれども、川という谷がありまして、その谷川のほとりに別荘を作っています。ここでは
 「中歳 頗る道を好み
 晩に家す 南山の陲
 興来たれば 毎に独り往き
 勝事 空自しく知る
 行きて 水の窮まる処に到り
 坐して 雲の起こるを時を看る
 偶然 林叟に値い
 談笑 還期無し」
 王維のお母さんは崔氏と言いましたけれども、大変仏教に信心深くて、王維も子供の頃からその影響を受けまして、仏教に帰依しておりました。ですから中歳頗る道を好みというのは、中年の頃よりは仏道に親しんできたということです。
 晩に家すというのは、実際には晩年ではないんで中年からやや後半ですけれども、自分ではそう言っています。南山、つまり終南山のほとりに居を構えたことですね。興が乗ってくればいつでも一人で歩き回り、自然の美しさを目で味わう楽しみは私だけが知っている。歩き回っては川の水の尽きるところに行き着き・・・、ここがまた大事なんですけれども、川の行き着くところは何処かというと、これは川の流れに沿って行き着くところに行き着いたというのは陶淵明の桃花源記、ユートピアのある世界。ユートピアと桃源郷とは必ずしも同じではないと思うんですが、簡単に言ってしまうとそこにもうひとつの別世界があったというところを踏まえておりまして、この川沿いに行って、水の窮まるところ、川の行き着くところに誰がいたかといいますと、そこに木こり、林叟というのは林間に住むおじさんという意味なんですけれども、この木こりと出会ってはずむ会話に家に帰るのを忘れてしまう、というのはどういうことかと言いますと、実はこれ木こりだけではなくて、川辺ですから漁師がいたっていいわけです。これは漁師の場合もあるわけです。たまたま木こりなんですけれども。実はこの木こり・漁師というのは、隠逸詩に出てきます木こりや漁師というのは、同時に自分が住みたい理想的な世界の住人であるというふうに考えられまして、象徴的に歌われます。ですから、先ほども申しました国家という人為的な世界、秩序立って完成された人為的な世界からはじかれた人間、もしくはそこに住みにくいと思った人間は、そこから逸脱するほかなかったんですけれども、王維はそれを仮の理想の空間世界として、この別荘、終南山の山麓を選んだわけです。今風に言うと週末にそこに帰ってきて、また仕事が始まると都に戻っていくという感じで、バランスを取った詩人というように考えられます。この木こりと漁師というのはそういう意味では自分の住む世界から理想的な世界の仲立ちをするキャラクターとして中国文学にはしばしば、両者が並称されましたり、この一方だけ歌われたりすることがございます。その図版資料のDのところをちょっとご覧いただきたいんですけれども。
 これは単純に見ますと川辺で、釣りをしている漁師さんかなぁと思うのですが、この人は良く見ますと漁師ではありませんし、なんかまじめに釣りをしてませんですね。これは船浮かべて、櫂を枕代わりに頬杖をして、釣りをしているジェスチャーをしているように思えます。これは服装から見ても漁師そのものではないんで、恐らく頭巾を付けてますから詩人だと思われますけれども。この人は自分は漁師だとポーズをつけていて、魚を釣る釣らないなんて関係ない。こうしていることが実は精神の自由、別世界に住む自由を得たと考えてまして、この絵画の先にはですね、あるいは洞窟があって、その中には別世界があったということを考えていいのかもしれません。そういう大変興味深い版画ではあります。
○芳賀委員長
   これは川谷ということですか、王維の別荘で。
○赤井臨時委員
   これは全く別です。これは必ずしも詩と一致していませんで、これは別の詩人であります。
 最後に詩人達が川に浮かんでどういう思いをし、どういう気持ちで川に浮かんでいたのかということを4番目にいたしました。しゅうこう舟行、舟をやるという、舟に乗って旅をする、船旅をするということで舟行という言葉がございます。それをGとHに載せました。Gは時代から言うと南宋になりますので、随分後になるんですけれども、非常に興味深い詩であります。
 このりくゆう陸游という人は詩をたくさん残した人でも有名なんですけれども、左遷あるいは出世する度にですね、かなり細かな日誌、記録をつけていまして、この時は下のアスタリスクのところをご覧いただきたいんですけれども、乾道5年(1169)11月6日に四川省奉節県の副知事に任命されました。ただ当時病気中でありまして、直ちに赴任することが出来ません。そこで病の癒えるを待って5月に故郷の浙江紹興を発っております。
○芳賀委員長
   紹興酒の紹興ですか。
○赤井臨時委員
   そうです。浙江省の紹興ですね。文豪の魯迅の故郷でもあります。お酒で有名な紹興であります。何故こんな12月6日なんて日にちまで分かるんだというとですね、自分が事細かに「入蜀記」つまり四川省に向かう記録という意味で「入蜀記」というのを書いていまして、そこに旅立ちから何月何日にどこで泊まって、舟をどうしたとかですね、その状況を事細かに書いていまして、この一月後の7月11日の記録を見ますと、ここに出てきます。じぼき慈姥磯という、磯というのは川に巌が突き出したところを言うんで、日本の磯もそこから来たのかも知れませんけれども、その慈姥磯というところのもとに、夜泊まったという時の詩であります。
 これは先ほどと同じ五言の八句ですから、五言律詩であります。
 「山断ちて 峭崖立つ
 江空 翠靄 生ず
 漫りに多し 往来の客
 尽きず 古今の情
 月砕かれて 流れの急なるを知り
 風高くして 笛の清らかなるを覚ゆ
 児らは 笑う 老子の
 睡らずして 潮の平かなるを待つを」
 水際の切り立った断崖、峡谷に挟まれた空に緑色の靄が立ちこめる。ここを行き交う旅人は多く、そのさまを見ては昔を思い出す。以前、陸游はここを通ったことがございます。水面に映る月は急流のために円形を結ぶことはなく、笛は秋風のつよさにひときわ澄んだ音色を響かせる。子供らは、眠らずに潮流の静まるのを待っている父親を笑いながら見ている。
 お父さんが明日舟を出せるか出せないか心配に見ているのを、子供達は笑いながらからかっているという感じでしょうか。ここは図版資料のEのところ。これもイメージで場所的にはちょっと違うんですけれども、赤壁と金陵あたりですので、ちょっと必ずしも陸游の土地とは一致しないんですけれども、これは長江の急流の様を描いた版画です。ここには先ほど言ったロープで舟を引っ張るというシーンはないんですが、長い竿を突き立てながら長江を遡っていくという図式が見えます。これは図にはロープで引くものもございます。長江は今でも、中国行った方は直接ご覧になった方もいらっしゃると思うんですが、外国人が行く場合は5,000トン、10,000トンクラスの、しかも今はかなり高速のエンジンを積んだ速い舟が行き来しておりますけれども、それでも今でもですね、土地の人がジャンクという小さい、こんな舟で大丈夫なのかなと思うような舟で何日もかけて遡って行きます。下るんではなくて遡っていくんですね。それでも陸上を行くよりは遙かに速かった。ですから私も長江を遡ったことがございます。まる4日舟の中にいましたけれども、普通は上りは2週間、下りは1週間と言われています、長江は。上海から重慶まで。ですから遡りますと倍近く時間がかかるわけですから、昔ですからエンジンを積んだ舟はないわけですから、風を待ち、潮の流れを待ち、そして良い時を選んで出かけていきます。
 この入蜀記を見ますと、風を待つというシーンがいろいろ出てまいります。好風を待つとかですね、風に阻まれるという表現が出てきて、舟行、舟をやるということがいかに難しくて大変だったかということが良く伺われます。
 このGの詩はそのひとつの家族のワンシーンと言いましょうか、自然の厳しさ、断崖絶壁の中で舟泊まりしている親子のですね、ちょっとユーモアも込めて描かれているようであります。
○芳賀委員長
   この潮というのは川だから・・・。
○赤井臨時委員
   我々は潮というと潮流と言って、海を意味しますけれども、必ずしもそうではありません。中国の場合には川の流れも潮と言うことがございます。
 有名なところでは浙江の怒潮と言って、海の潮流が100q、110q遡るということも無くはないんですけれども、必ずしもうしお潮と言ったからといって海のものとは限りません。
○芳賀委員長
   要するにこれは流れが今激しすぎるわけですね。
○赤井臨時委員
   そうですね。
○芳賀委員長
   というよりは風に吹かれて・・・。
○赤井臨時委員
   風を待ち、凪ぐのを待っているといった感じでしょうか。
 最後のHは「建徳江に宿る」で、これも実は孟浩然という詩人は日本人は大変「春眠暁を覚えず 処処に啼鳥を聞く」という詩で知っているんですけれども、その割にはなかなか知られていない詩人なんですが。この詩人はどこが違うかというとですね、舟の上で詩をたくさん作っているということなんです。つまり舟の上で詩を作った人も少なくないんですけれども、この人は舟の中で周りの景色をまるでビデオか映画で撮るように撮っているという、そういう特色がある詩人であります。ほぼ李白や王維と同じ時期を生きた詩人でありました。
 「建徳江に宿る」にという詩であります。
 「舟を移して 煙渚に泊す
 日暮 客愁新たなり
 野は曠くして 天 樹より低し
 江は清くして 月 人に近し」
 これは今までかなり間違って読まれてまして、この低いというのを垂れるという動詞で読むという読み方もあるので、「天、樹に垂れる」と読まれておりましたけれども、これは多分そうではなくて、こう読むのが正しいだろうと思いますけれども、これは先ほどこちらの整備局の方が色々資料をくださって、それを見ていた時に、川の断面図というのがありましたですね。それを思い浮かべていただくといいんですが、この作者は舟に浮かんでいます。ですから両側は高い両岸になります。その上に木々がある。自分は一番下の水面にいるという感じでして、水面から空を見ているという感じだとよく分かると思うんですが、従って建徳江に宿った孟浩然は靄霞む渚に停泊します。日が暮れて旅愁がますます募ると。天樹より低しというのはどういうことかというと、空が樹より低いはずないだろうと言うんですけれども、今申しましたけれど、水面にいます詩人からは、天は樹よりも低く見える。つまり天というのは天上だけを意味しません。天から地上までの空間ですね、それが自分の身近に感じられる。江は清くして月人に近しというのは水面に映った月は、天上にある月よりもはるかに近くに感じられる。そういうシーンで、非常に川に浮かぶ詩人のたゆたう感じと、あてどもなくさまようと言いましょうか、旅愁というものが、わずか五言絶句の中に巧みに詠じられているように思います。
 あと、5ページは時間の関係でいちいち読みませんけれども、同じように旅の夜に舟を停めて感慨を詠じた詩であります。このIは「旅夜書懐」旅の夜の思いを書すというところの作品ですけれども、これもやはり水面に浮かぶ、川に浮かぶ詩人の感慨。しかもあてどもなく彷徨う自分はどんなもんだろうかな、さもそれは天地の間にさすらう一羽のカモメであるというふうに言っているところが非常に印象的でありますし、川に浮かぶたゆたう感じと、人間というものは川に浮かんで流れていくようなものであると感慨がこれには出ていると思います。
 J、Kについてはいずれも、まああるいは送別詩として言っていいかもしれませんし、一応舟行の詩に収めましたけれども、詩人たちはこのように舟に乗って旅をしていくという思いを詠じております。
 中国文学は先ほど申しましたように川は大変豊富です。一方海についてなにか詩、文章、小説、曲の類はなかなかありませんけれども、非常に少のうございまして、それも具体性を欠くようなものであります。近世になりますと川と海というものはかなり出て来て、海に対しても外国との接触が増えてきたということもあって認識が外に向くんですけれども、特に古代から中世、近世の初期にかけては文明自体が内に完結するという中国という地がですね。ですから地理的にも中国というのは「中つ国」「中の国」という、自分たちが真ん中にいるという意識が強うございまして、周辺の国については注意が薄いということです。ですから川も二大河川だけではなくてたくさんあるんですけれども、そういうものが二つの大きな本流として支えられ、海が周りを取り囲んでいるというのが大きな認識であったと考えています。
 その間の動脈になったのが、生活の動脈でもあり文明の動脈でもあったのが恐らく河川だろうと。河川は絶えず動くもの、山は不動のものという意識も今日でも変わらないと思います。
 以上雑駁ですけれども、中国文学とりわけ唐詩に見える河川と人ということが話題提供させていただきました。
○芳賀委員長
   どうも大変ありがとうございました。久しぶりに漢詩のお話を聞きました。いいものですね、漢詩は。いかがでございましょうか、ご意見・ご質問。
 あの、詩は日本では山紫水明「山は紫にして水清し」その4文字をよく使いますが、  中国語ではあまり山紫水明・・・あれは日本製の熟語ですか。
○赤井臨時委員
   山紫水明自体はありますけれども、中国にはありますけれどもそれを日本のように多用するということは無いと思うんですね。
 例えば自然の美しさを詠じたものですと、花鳥風月という言葉がございますし、清風朗月、清らかな風に明るく澄み通って、そういう言葉です。
○芳賀委員長
   我々はそういう言葉を書いて日本の風土を中国人とは違うイメージで持っているんです。
○赤井臨時委員
   それもありますし、輸入というんでしょうかね。例えば瀟湘八景に対する八景ものは中国が始まりで、日本にそれを置き換えたといいましょうか。
○芳賀委員長
   日本の漢詩ですと中国風なのをそのまま読むようなのは、唐詩くらいなんですかね。
○赤井臨時委員
   両極端だと思うんですね。古代は文字も文物もそのまま輸入して、例えば懐風藻ですとか、勅撰漢詩集というのはかなり向こうの六朝時代のものをそのまま取ってきますね。それが自分達で熟成、いわゆる国風文化を創り出すと、独自のものとして。それがまた近世になりますと非常に近くなってまいりまして、例えば江戸の詩壇は明清の影響を強く受けている。ですから真ん中が独自のもので、だから逆にわかりにくいという、室町期の五山の禅僧、禅だから難しいというのはあるかもしれませんけれども、独自のものがあって、中国とはまた違う独自性が・・・。
○芳賀委員長
   あの先刻のお話の瀟湘八景は日本に入って来て、色々絵に描かれ詩に読まれたあげく、近江八景になったりする。するとこの長江・黄河、日本人はどこに見立てます?
○赤井臨時委員
   瀟湘の方は長江の支流の洞庭湖から瀟江になりますね。それであれは洞庭湖南という言葉がありまして、洞庭湖とその南の方ですね。それから湘水、瀟江ということで湘南という言葉も日本には入って参りましたけれども、もともと瀟湘八景が出ますのは宋以降なんです。私が専門にしているのが唐なので、それより前なんですけれども、その美意識は唐の中期以降に少しずつ出だしまして、瀟湘八景も以前ご紹介したことがあるんですけれども、非常に明確な輪郭でない、例えば幽谷ですとか、雨ですとか、靄ですとか、その輪郭が少しぼやけているというのを好むという時代は中国・・・。
○芳賀委員長
   瀟湘やこうてんぼせつ江天暮雪。
○赤井臨時委員
   そうですね。それからえんじばんしょう煙寺晩鐘ですね。ですからそういう昼間のですね、風景画ですとはっきり輪郭が見えるというよりはどちらかというとぼやーっとした。
○芳賀委員長
   だから宋代の墨絵に似合ったんですね。
○赤井臨時委員
   そうですね。その考証に合致している。それがある程度日本人の好みにも合ったのではないか。それが恐らく盛唐から中晩唐にかけての美意識の変化だというのが私の考えなんですけれど。
○芳賀委員長
   だから、その瀟湘八景を日本では紆余曲折の挙げ句、近江八景に見立てたですね。そうすると長江を日本の漢詩人はどこに見立てようとしていましたか。あるいは黄河、苦労したんじゃないかな。ちょっとね、長江・黄河に見立てられる川、いくら河川局が立派でもないですよ。
○委員
   瀬戸内海が一番近いですよ。
○芳賀委員長
   淀川・・・。
○委員
   瀬戸内海もそんな感じです。
○芳賀委員長
   江戸時代になると一生懸命隅田川を・・・ところが明治になると隅田川はテムズ川、あるいはセーヌ川に見立て変えられると。色々漢語はたくさん借りてきているけど、実際の風景。こういう李白や杜甫や孟浩然を読んでいても、日本の詩人たちは困ったんじゃないかな。今の最後の李白の「孤帆の遠影 碧空に尽き 唯だ見る長江の天際に流るるを」。これはどうしたって日本には無いですよね。困っちゃいます。そこでやっぱり海に見立てなきゃならんと。
○委員
   古代だったらそうでしょう。江戸時代になるともう渡れませんからね。大陸には。だから最後のところはもうどうしようもないんでしょうね。
○芳賀委員長
   いや、でもそのイメージは関与しているわけですからね。それを日本人はとにかく見立てなきゃいけない。日本列島の中で。それで苦労してたんでしょう。吉野川はあれですね。昔桃花源の川に、漁師が遡っていく川に見立てたりしましたよね。吉野川の奥に桃源がある、と。
 あんまり地元の川は・・・
 出てこないですね。長江と黄河ばっかりですね。
○赤井臨時委員
   そうですね。支流でも江と呼んだり、河と呼んだりしてしまいますので、出てこなくはないんですけど。それでもかなり大きな川が多いですね。
○芳賀委員長
   あんまり千曲川程度の川は滅多にない。よっぽど四川省か雲南省の奥にいかなきゃこんな川見られないでしょう。中国ではね。これが川かと思うような川が、湖かと思うような川が流れているんですからね。
○赤井臨時委員
   私も最初長江に舟で浮かんだ時もやっぱり、河口が広いんですね。海と思って。上流に行くともちろん断崖絶壁、手を伸ばせば届くようなところに行くわけですけれども、それでも流れていくというよりは、湧いてくるといいましょうかね、水流がですね。そういう感じがしました。
○芳賀委員長
   水が多いわけですか。
○赤井臨時委員
   多いですね。
○委員
   一つ質問してよろしいですか。今お聞きしますとこういう詩はないんでしょうか。洪水の歴史でもあったと思うんですが、その洪水・氾濫を歌う。私共越後、信濃川の文献ということを考えると、その中のひとつに良寛さんの水害を憂える詩があるんですけれども、それはまさに氾濫する川を歌った詩でございまして、そういうことでいつからなんでしょうか、川との戦い、水との戦いということ、戦いということで言い出したのは、あるいは近代土木技術の歴史から始まるのか、川と・・・青山氏という方の例えば萬象にですね、天意を悟る者は幸いなり、こういう言葉の意味が、いつも私共の資料館に来る方から問いかけられて、考えるんですが、青山士は川と戦う、水と戦うという言葉をあまり語っていないような気がするんです。
○芳賀委員長
   青山士って誰ですか?
○委員
   信濃川、大河津分水補修工事の責任者で、ただ一人アメリカのパナマの設計に参加しましてね。明治・大正・昭和にかけての近代土木技術者を代表する人でもあるんですけれども、そういうことで、中国の、あるいはこれまでの千曲川の旅情の詩など聞くとそうなんですが、これはこの後のお話にも聞きたいんですが、氾濫し、川が暴れ、仇するそういうものをですね、文芸で描かれているものがあったらお聞かせいただきたい。川と人を考える時に、災害と戦うというものと、共にそこに過ごそうとする発想等あると思うんですけれども、そういうものが文芸の中でどうかなということでお聞かせいただきたい。
○赤井臨時委員
   大変難しいご質問だと思うんですけれども、お答えになるかどうか分かりませんけれども、中国の理想的な天子に禹というのが、堯・舜・禹・湯というふうに聖天子が続くんですけれども、堯帝・舜帝・禹帝、その禹帝の禹というのはちょっと難しい字書くんですけれども。治水の神様と言われていまして、中国はご承知の通り洪水・・・洪水伝説というのは中国の始祖伝説、族祖伝説でして、人間がどう出来たかというと洪水で瓢箪が浮いてきて、その瓢箪の中から人間が出てきたというような神話伝説がございます。それくらい洪水が多くて、私が初めて行った時も、今言った旅でもう30年以上前ですけれども、その時は重慶に行った時は、その2週間前に大洪水がありまして、水位が21メーターあったということです。ということは、重慶はご存知の通り神戸とか横浜に似て、丘・山が多うございまして、その上に町があるわけですけれども、嘉陵江と長江が合流するところで大変美しい、今日見させていただいた千曲川のように風光明媚なところなんですけれども、それが水位がここまで来たというところをペンキで書いてあるんです。7月21日。
 考えもつかないです。もうそれはですね、山が半分というか7分目くらい隠れちゃうような水位。ですから昔からそういう洪水があったということは間違いないんです。それが頻繁にあったことも長江の水流の地形が氾濫のたびに変わっていますのでそれは間違いないんですが、詩人たちはそれを詠んだかというと、実は水は弱くて・・・、老子のなかにこんな言葉がありますけれども、「水を制するものは無い」と。つまり水はちょろちょろで少なければ非常に脆弱なんだけれども、それが集まるとそれを制することが出来ないという言葉が老子にありまして、それは恐らく中国人の認識の反映だと思うんですね。
 つまり戦うという意識が恐らく、いつ頃出てきたか私にもはっきり申せませんけれども、今先生仰ったように非常に新しい発想で、むしろそれに従って、天の定めに従って、むしろそれに順応して上手くやっていくかという考えが当時の人々には先に出てきたんですね。神話伝説にはもちろん治水という言葉があって、水を治めてうまくやっていくという言葉はあるんです。それはあくまで戦うんではなくて、水の力を利用して、それをどう人間の世界に活かしていくかということであろうかと思うんですね。
 氾濫を歌った詩がないかというと、無くはないんですけれども、今日大洪水のお話を伺いましたけれども、その時に何人もの多くの方が亡くなったという、そういう記録を杜甫は残しておりますけれども、その時は自分の家が水びたしになって、大変苦労したと。お客さんが来るにもこれないし、食べる物もなくなったという生活苦の方から歌いまして、それから戦うという姿勢はあまり認められないように思えます。ですから恐らく戦うという意識は、人間が天人相関説と中国では言いますけれど、天の命を受けて人間は生きている。それを人間が自立できる時代、その時が恐らく戦うという意識の出始めではないかと思うんですけれども。
 その天人相関説が克服されるのはやはり宋代以降になるかと思います。従って12〜13世紀以降。あるいはその戦う詩が出てくるかもしれませんですけれども、ちょっと不勉強でそこは・・・。
○委員
   ちなみにですね、良寛はその水害を詠む詩の中で、禹を出しているんですね。治水上の皇帝。そして禹のように何故今政治をしている人たちが、この民の苦しみを抑えてくれないのだろうか。禹は四載と言って四つの乗り物に乗って水を治めた。そのことが出来ないんだろうか。こう言っているんですね。大河津分水を歌った大谷句佛。これは西本願寺の法主ですけれども、この方は「禹に勝る業や心の花盛り」と大河津分水の分水の治水の偉業をですね、「禹に勝る業や心の美しさ」、その心の美しさをたたえて、今私共の公園に大きな句碑が建っています。ちなみにですが。
○芳賀委員長
   はい、ありがとうございました。
 それでは時間もございますので、次のお話を伺うことにいたします。赤井先生、本当にどうもありがとうございました。
 では、今度は藤村記念館の新井館長から「島崎藤村と千曲川」ということでお話をいただきます。どうぞよろしく。30分ぐらいでしょうか。で、この後に市川館長にお話を伺うわけです。
○新井臨時委員
   資料6のところへ話題提供させていただきます。ごく簡単に説明させていただきます。
 「千曲川のスケッチ」について、「千曲川の旅情の歌」について、それから「藤村と川」、この3つの点について若干お話させていただきたいと思います。今の中国の壮大・雄大な川に比べまして日本の川は非常に幅も狭いし、急流ということで形が違うかと思うんですが、千曲川は日常生活に非常に密接に繋がっている、ということになるんだと思います。千曲川は全長213.5キロと東北信の4,650平方キロを流域としています。甲武信ヶ岳を源としまして、それから上田盆地、長野盆地、飯山盆地というふうに形成をしているわけでございます。昔から、今も非常に人々の生活と密接に繋がっているということでございます。
 さきほどお話にありましたが、9月1日には千曲市というのが誕生しまして、ここも千曲市でございます。それから学校の校歌に千曲川を歌っている学校も相当数ありまして、県立歴史館の市川先生の資料によりますと、小学校で84校、それから中学校で43校、高校で31校、合わせまして158校で千曲川を校歌に入れております。
○芳賀委員長
   例えば大体この辺ですか。
○新井臨時委員
   そうですね。東北信の学校総数の約半数以上が。
○芳賀委員長
   信濃川に入るところで、千曲川も信濃川に入るんですか。
○新井臨時委員
   あの、新潟県に入って信濃川となります。
○芳賀委員長
   新潟県に入るあたり。
○新井臨時委員
   そうですね。長野県の学校ですが、このように非常に人々の生活と深く関わっているという次第です。それから島崎藤村と千曲川ということになりますと、「千曲川旅情の歌」それから「千曲川のスケッチ」というものが代表だと思います。
 まずその「千曲川のスケッチ」でありますが、資料の中に「千曲川のスケッチ」が入っていると思いますが、それをお出しいただいて、それをご覧いただきながらお願いします。
○芳賀委員長
   僕は自分の文庫から持ってきたら、昭和22年ですね。4月29日。昭和22年だから,1947年ですか。
○新井臨時委員
   「千曲川スケッチ」は、小諸時代を記念する作品でございます。表題が示します通り、藤村が足かけ7年、小諸で生活をして、この浅間山麓の小さな町を中心にしまして、それから川上の方へ、あるいは川下の方へ旅した時の見聞を交え、すべてこの千曲川沿いの自然と人々をスケッチしているということであります。ご承知のように藤村は明治32年に木村熊二の招きによって小諸へ来るわけでございますが、その来る理由は2つあったようですね。一つは、記念館でも、ちょっとお話しましたけれども、木村熊二に大変世話になっているということですね。数え年10歳で東京へ出て勉強をするわけでありますが、共立学校の時に木村熊二から英語を教わったり、あるいは木村熊二は牧師であります、明治学院で洗礼を受けたりします。あるいは一時期木村熊二の家から学校へ通ったというようなこと。そういうようなことで大変世話になっているということがひとつですが、もうひとつ、この方が本当は大きいんではないかと言われております。それは「千曲川のスケッチ」の序のところに書いてありますが、線の@に書いてありますけれども、「もっと自分を新鮮に簡素にすることはないか。これは私が都会の空気から抜け出して、あの山国へ行った時の心であった」とありますが、新しい自分を開拓しようという気持ちが強く働いていたようであります。
 藤村は小諸に来まして結婚をするわけであります。明治女学校を出ました函館の網問屋秦冬子さんと言う人ですけれども、結婚するわけであります。そして馬場裏に新居を構えるわけです。そして小さな畑を借りまして、初めて鍬を持って畑を耕すということもするわけです。ここにも藤村の並々ならぬ決意を感じるわけであります。
 藤村は小諸へ来る時に、イギリスの評論家ジョン・ラスキンの「近世画家論」というのを携えて来ております。このことからも既に藤村は詩にはある程度限界を感じていたんではないか。詩から散文へという思いが働いていたようであります。そしてラスキンの芸術観とか自然観とか批評精神とか、そういうものに強く影響を与えられたようです。そしてこのラスキンに学びまして、雲の観察なんかを書くわけでありまして、「落梅集」にもそれを載せております。
 もうひとつ自然主義文学の主張にも刺激されて、事物を正しく見ようと、そういう気持ちが強く働いていたわけでございます。明治学院時代に二葉亭四迷の「あいびき」などを読んでおりまして、これは訳文でありますけれども、その新鮮な自然描写に非常に強く感銘と言いますか、文体に感銘をしていったというようなことが書いてあります。
 それから小諸義塾の同僚に三宅克巳という図画教師がおったわけでありますが、その写生画に心を惹かれまして、三宅に頼んで三脚まで買って、日課のようにしてそれを、小諸の自然と風俗などをスケッチした、観察記録したと、忠実にということですね。藤村はこれを「スタディ」という言葉を使っております。それから千曲川のスケッチの奥書に書いてあります。
 「自分の第四詩集、というのは落梅集のことでありますけれども、その時には私はもっと事物を正しく見ることを学ぼうと思い立った。この心はかなり激しかったので、その為に私は3年近くも心静かに黙して暮らすようになった。いつ始めることもなくこんなスケッチを始め、これをていねいに書き続けることを自分の日課のようにした」とここにはあります。
 しかし、この黙していた間にヨーロッパ文学を一生懸命むさぼり読むわけであります。トルストイ、ツルゲーネフ、モーパッサン、ドフトエフスキーとか、そういうものをたくさん読むわけであります。ツルゲーネフの「猟人日記」は英訳した「スポーツマンスケッチ」という訳本でも読んでいるわけであります。これが小諸における自然と人間の観察に活かされて、「千曲川のスケッチ」を産むことになったと言われております。
 この「千曲川のスケッチ」を書き始めたのは明治33年頃から37年にかけてであります。しかし発表したのは大正元年であります。これは何故発表しなかったといいますと、藤村は発表するつもりがなかったと、そのことも書いてございます。
 最初のところにありますが「このスケッチは長いこと発表しないでおいたものであった。またこの他にも私があの山の上で作ったスケッチは少なくなかったが、ひとに示すべきものでもなかったので、その中から年若い人たちの読み物に適しそうなもののみを選んで、更にそれを書き改めたりして、西村渚山の編集をしておりました博文館の雑誌、「中学世界」に毎月連載したと。「千曲川のスケッチ」と題したのもその時であった。と、このように書いてあります。
 このことからも分かりますように、小諸で書いたものそのものではなくて、改めて書き直したというようであります。小諸で書いたそのものは無くなってしまったわけであります。だから比べることはできませんけれども、書き直したということは目次からも分かりますように、その1、その2というかたちで12の章に分けられて書いてあります。
 そしてそれらが季節の変化によって分けられております。目次の後ろのところに表にしてありますように、その1は春、その2は初夏、その3その4は夏というように、季節ごとに分けて1年間の様子が分かるように組み立てられているわけです。と同時に千曲川流域に沿って組み立てられているということにも注目していいかと思います。その1が小諸から田中、その2からその5までが小諸及びその近辺、その6が千曲川の上流、その7その8が小諸及びその近辺、その次が上田、長野方面です。その10が水内、飯山方面、その11、12が小諸というように、千曲川のその流域に沿ってまとめて書いてあります。これは小諸で書いた原スケッチにはそういうことにはなってなかったと思うわけです。明らかにこれは意図的に構成されたものであることが分かります。
 それから始めのところにも書いてありますが、これは樹くんに宛てると書いてありますね。これは吉村樹。これは藤村が樹のお父さん、忠道さんに東京に行った時に世話になったわけでありますが、樹というのは藤村の春樹の樹の一字ですね。貰ってつけているほどですが、非常に仲がよい。お兄ちゃんお兄ちゃんと樹くんは呼んでいたようですし、藤村はしげ樹ちゃんと呼んでいたと言われております。そういうことであります。
 もうひとつ「千曲川のスケッチ」には1年間の中に、巧みにその自然、風物、年中行事というものを配置しまして、読者を小諸付近、あるいは浅間であるとか、あるいは川上に遡った、あるいは川下に下った。千曲川沿岸の様々なものに目を向けさせてくれます。藤村の筆は郷土のあらゆる事象を驚くばかり確実に、また巧みに表現して見せてくれます。ある人が調べたところによりますと、このスケッチの中に表れている人物とか、地名とか動植物とか、それを見ますと人物は444名、職業は63種類、地名が158、動物が30種類、植物は180種類というふうに数えている人がいます。その他方言なども巧みに会話の中に取り入れております。55言というように。      
○新井臨時委員
   「ごわす」「よくしみやすなあ」とか、地方のことばも使ったり書いたりしています。いかに藤村が広く深く観察しているかということがうかがい知れると思います。
 資料の2枚目に千曲川の流れの様子が書かれている場所もたくさんあるわけでありますが、4ヶ所ぐらい挙げておきました。A〜Dでありますが。A目次その4の「中棚」からのものであります。ちょっと最初のところを読んでみますと「暑くなってから、私はよく自分の生徒を連れてここへ泳ぎに来るが、隅田川なぞで泳いだことを思うと水瀬からして違う」と。隅田川との流れの早さの違いのようなことを書いております。
 それからBはその6「甲州街道」からの部分です。秋の修学旅行で千曲川の上流を指して出かけたところを書いているんですが、川上の方から押し流されてきた大きな石が見られる。馬流付近の様子ですね。今も大きな石や岩が出ております。それからこの文章に続いて木々のことが書かれています。白楊、芦、楓、漆、蒲、楢などの類が私たちの歩いている川岸に生い茂ってきたというのが続いて書かれております。これは植物のことですね。
 それからCはその10の「千曲川に沿うて」の最初のところです。真ん中にちょっと傍線をしておきましたけれども、「暇さえあれば私は千曲川沿岸の地方を探るのを楽しみとした」とあります。この一文を見ても、いかに藤村が千曲川とそこに生活している人々の姿とか、生活に関わる生き物、植物、気候などに深く関心を持って見たり、聞いたり、またそれを正確に記録していたかが分かるわけです。
 Dの「川船」にもよく表れています。最初のところを読んでみます。「降ったり止んだりした雪は、やがて霙に変わってきた。あのしとしとと降りそそぐ音を聞きながら、私たちは飯山行の便船が出るのを待っていた。男は真綿帽子を冠り、藁靴を穿き、女は紺色染の真綿を亀の甲のように背中に負って家の内でも手拭を冠る。それがこの辺で眼につく風俗だ」
 それから終わりのところですが「暗い千曲川の水が油のように流れて来る。これが小諸附近の断崖を突いて白波を揚げつつ流れ下る同じ水かと思うと、何となく大河の勢に変って見える。上流の方には高い吊橋が多いが、ここへ来ると船橋も見られる」
 手拭いのことでは、この先の10のところに「愛のしるし」というのがありますが、そこでもこんなことが書いてあります。「飯山で手拭が愛のしるしに用いられるという話を聞いた。縁を切るという場合には手拭を裂くという。だからこのあたり近在の女は皆手拭を大事にして、落としておくことを嫌う。それは縁起が良いとか悪いとかいう類の話に近い。でも優しい風俗だ」と、あります。
 まあ時間がありませんからほんの一例を挙げただけですけれども、藤村はこのように自然、風物、風俗などを巧みに取り入れているということが分かる情景です。
 それから先ほどの奥書のところに戻りますと、こうも言っています。「実際、私が小諸に行って飢え渇いた旅人のように山を望んだ朝から、白雪も残った遠い山々、浅間、牙歯のような山続き。すべてそれらのものが朝の光を帯びて私の目に映った時から、私はもう以前の自分ではないような気がしました。なんとなく内部に別のものがはじまったような気がしました」と、書いてあります。これは従来の浪漫的傾向ですかね、若菜集の頃のものと変わってきて、現実的方向を取ろうとする藤村の気持ち。厳しい寒さの中で家庭を思って生活をしているその厳しさということと、もう一つは詩を捨てて小説に転ずると言いますかね。散文の方へ移行しようと、こういうことを意図しているものだと思います。
 作品でこう描かれた事象は、単純な自然描写だけではなくて、その背景として地方の生活者の実態とか、そういうものも浮き彫りにしようとしたというところにも特色があったと思います。
 このような姿勢は藤村自身も言っております。その中に書いております。「ある意味から言えば自分の散文はこのスケッチから出発したと言ってもいいのである」。このように語っております。
 そして終わりのところに、「とうとう私は7年もを山の上で暮らした。その間には小山内薫君、有島生馬君、青木繁君、田山花袋君、それから柳田國男君を馬場裏の家に迎えた日の事も忘れがたい。私はよく小諸義塾の鮫島理学士や、水彩画の丸山晩霞君と連れだって、学校の生徒等と共に千曲川の上流から下流の方までも旅行に出かけた。このスケッチは色々な意味で思い出の多い小諸生活の形見である」と結んでいます。
 この岩波文庫の解説を井出孫六さんが、昨日も井出孫六さんのお話を聞いたんですけれども、こんなふうに書いてあります。「千曲川のスケッチ」は国木田独歩の『武蔵野』が依然文語体の枠組みから脱しきれないのに比べ、藤村はほぼ完全に近代口語体の基礎工事は終えている、と言っている。裏を返して言えば、日本語が日常の言葉で描写が可能になってたかだか100年に過ぎないとも言えるのだが、その意味で、千曲川のスケッチは文学革命だったと言うことも出来る。昨日もそういうことを、「言葉の革命だった」ということをお話しておられました。
 このように藤村にとって「千曲川のスケッチ」は詩から散文に、また小説に移行するための重要な作品であるばかりではなくて、文語体から口語体に変革したという意味でも重要な作品であるということになるかと思います。
 次に簡単に「千曲川旅情の歌」に触れますけれども、もうひとつ忘れてはならないのが「千曲川旅情の歌」であります。この方が一般には良く知られているわけでありまして、これによって小諸が全国に知られたということにもなりますが、現在「千曲川旅情の歌」というのは1、2となっておりますけれども、1は明治33年4月に雑誌「明星」に「旅情」という題で発表されたものです。これは記念館にありましたから見ていただいたと思いますが、それは34年の落梅集では「小諸なる古城のほとり」と改題しております。それから昭和2年に岩波文庫の藤村詩抄で「千曲川旅情の歌 1」として収録されております。2の「昨日またかくてありけり」は、やはりこれも同じ明治33年4月に雑誌「文界」というところに「一小吟」という題名で発表されたものであります。そして「落梅集」では「千曲川旅情の歌」と改められました。そして藤村詩抄で「千曲川旅情の歌 2」として収録されております。このように藤村というのは何回も題を変えたり直したりということをする人でありました。
 これは私からくどくど申し上げる必要もありませんので、ごく簡単に申し上げますと、藤村は人生を旅と考えておったようでありまして、自分も旅人であるというふうにこの詩を書いたようであります。旅人が旅情に浸って懐古の思いに耽りつつ、濁り酒を飲んで慰めようという。山国の侘びしさ、旅愁の念を抱いて、旅の重さをしみじみと歌った叙情詩であります。
 これは「若菜集」などでは七五調でした。「まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき」の、それがこの「千曲川旅情の歌」では「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ」と、五七調になって調べが重厚な感じになってきていますし、コモロ小諸なる コジョウ古城のほとり クモ雲白く KKKですね。非常に覚えやすいし、親しみやすい巧みな表現になっております。
 藤村は西行や芭蕉も勉強しておりますし、その影響もあったでしょうが、漂泊者のモノローグというものを感じます。もう一方では叙情的な雰囲気でありながら、また小諸の自然を人間の生活と社会、歴史、それを捉えつつ、小諸の自然を歌っているようにも思えます。特に「昨日またかくてありけり」は、人間の日常の生活の中に歴史を見、また人の世の変化する様々を捉えています。藤村は時の流れの中で変わりゆくものと、変わらずにあるものとを見ています。千曲川とその自然は人間の変転する様相をただ見守っているのです。藤村はその自然との対比によって人間のはかなさと、しかし生きていかなければならない人間の宿命を感じているのではないか。藤村はこの「落梅集」を最後に詩ときっぱりと決別するわけです。以後一切書いておりません。
 最後に「藤村と川について」まとめてみますと、藤村は川というものに非常に親しみを持っていたようであります。信州に海はありません。ですから私共は海に憧れます。藤村も木曽の山の中に生まれておりますし、海に憧れを持っていたわけです。ですから川というものは海を目指すものでありますから、非常に親しみをもって、憧れを持って、海に通ずるということで非常に関心もあったし、親しみを持っていたのではないか。幼児期を過ごした馬籠では、木曽福島に入りますと木曽川の清流がありましたし、それから数え年10歳で東京へ出るわけですけれども、その少年時代というものは隅田川の流れに親しんでいますし、関西漂白の旅でも様々な川に接し、明治29年仙台に赴任した時には広瀬川の岸辺に住んでいます。そして明治31年には利根川に接します。今までにない大河の趣をそこで感じています。「夏草」の中に「利根川のほとりに」というのがありますが、その中でこんなふうに書いています。「利根川は淡々として平野の間を流れる大河なれば、木曽川の奇もなく天竜川の壮もなけれど、水静かにして旅人の心をひくこととし、例えば木曽川は草、天竜川が行にして、利根川は楷」書体の楷、行、草というふうになぞらえて表現しております。そうしていよいよ明治32年に信州小諸に赴任して千曲川に接するわけであります。
 「藤村文学における河畔的性格」、川の持つ意味ですけれども、そのことにつきまして藤村研究の第一人者であります東洋大学の名誉教授 伊東一夫先生はこんなふうに言っております。「木曽川は故郷の風土として森林と共に不可欠の要素であるが、なお仙台の広瀬川、佐久の千曲川、東京の隅田川、それから旅行へ色々行ったところがありますが、関係のある碓氷川とか湯河原の藤木川とか、川越の入間川とか、フランスのセーヌ川、色々あるんですけれども、そういう川は藤村の文芸の形成にとって、川の持つ役割は注目されなければならない」と、こんなふうに言っております。「一つは流動性、そこから生まれてくるものは無常観と詠嘆性、あわれが導き出されると言っております。それから現実性と、そこから導き出されるものは現実変革の近代精神であり、現実諦観の精神である。そして次は展開性である。これはいつも時代と歩調を合わせて進むことができる傾向であって、新しい状況に応じうる可能性である」と言っています。
 要するに川というものは藤村にとって文芸の形成に重要な働きをもたらしていると言うことができると思います。特に千曲川は「千曲川のスケッチ」はもちろんのこと、小諸でいくつかの短編小説を書くわけですけれども、「藁草履」とか「老嬢」とか「水彩画家」とか。いずれも千曲河畔の物語であります。「破戒」もですね、場面の多くが千曲川を中心として展開しております。この「破戒」には千曲川流域の図というのをわざわざ挿入して入れてあります。それほどかように藤村と川、特に千曲川は切っても切れない深い関わりを持っていると言えるかと思います。以上雑駁ですけれども、藤村と千曲川についてお話をさせていただきました。終わります。
○芳賀委員長
   どうも新井先生ありがとうございました。さっき見てきたばっかりです。小諸懐古園と、それから千曲川です。宮村さん。
○委員
   今、川が作品として大変重要な役割だったということを、具体的な川ですか、千曲川の風貌と、木曽川という風貌みたいなものを書いているようなお話だったですね。先ほど隅田川はというお話がありましたが、比較をするというような。
○新井臨時委員
   結局その、川の流れとか広さとか、そういうものを藤村は象徴してというか、それで表現したんだと思いますけどね。
○委員
   他の川の紀行文の中でもなにか比較しながら表現したりしておりますか。
○新井臨時委員
   いや、一通り作品に全部当たってそういう検討をしておりませんけれども、色々なところで引用と言いますか、川の風景というものは出しておりますよね。
○委員
   千曲川から始まるとやっぱり流れの速さとか、水のエネルギッシュなとか非常に印象的なんですよね。そういうところから見ると、ちょっと隅田川はかわいそうですよね。ある面ではちょっと表現が出来にくい。同じように木曽というのは場所によっては非常にエネルギッシュで。意外に木曽川と千曲川というのは区別しにくいというのはあると思うんですよね。
○新井臨時委員
   特に上流の方はそうかと思います。オランダから来た河川の専門技師が千曲川を見て「日本の川は滝だ」と言ったそうですね。それほど激しく、狭くて、流れが激しいとか。中国のような大河とかね、非常にこう違うところがあると。
○委員
   そういう千曲川みたいなですね、エネルギッシュな川でね、非常に厳しい自然の中にある川というのは、文学と言いますか、取り上げやすいんですか。どうなんでしょうか。文学としてね、こういうところが取り上げやすい。というのも、隅田川もけっこう色んな文学取り上げていてね。それは違う作風と読むんですか。それとも物が与えた違いなんですかね。例えば文学と川というような感じで見ると。
○芳賀委員長
   いつから詩歌を詠むような人間の生活のなかに、どのような人間がその川の周辺に住み着いたかによるんでしょうね。千曲川については藤村以前に、そんなにたくさん詩歌はないんじゃないですか。千曲川について。
○新井臨時委員
   そうですね。
○芳賀委員長
   千曲川の詩歌というと藤村のこれしか我々は思い浮かばない。隅田川も淀川も最上川もたくさんある。揚子江・黄河だったら限りもないと。千曲川は・・・。
○新井臨時委員
   藤村だからということなんですかね。
○委員
   すいません、ちょっと。面白かったですけど、最初に千曲川のスケッチというかたちで、藤村が小説の勉強をしたようなかたちで、千曲川のスケッチというかたちで非常に面白いことと、それからこれ、年代がひとつも入ってないんですね。何年。何月というのはあるんですけれど、これはどういうことなんでしょうか。
○新井臨時委員
   あの、ひとつひとつ調べるとここのところが何月というのはあるんです。
○芳賀委員長
   時代を消してるんですよね。季節を表に出している。
○新井臨時委員
   だからこれは意図的に構成したものなんですよね。
○芳賀委員長
   これは本当のスケッチのスケッチはないんですよね。破棄しちゃったんですよね。
 どこかに残ってませんか。全集に・・・。
○新井特別委員
   無いんです。
○芳賀委員長
   どんなかたちで書いていたかも誰も分からない?%義塾で一緒にいたような人たちは藤村が何かちょこちょこと書いていたのを見たことないんですかね。
○新井特別委員
   書いてる姿を見た者はいても、そのものはないんです。
○委員
   それを四季の流れの中で人生で照らし合わせながらというかたちですか?
○芳賀委員長
   でも我々は明治34年から38年まででしたっけ、32年から38年ね。その間の・・・。
○新井臨時委員
   書いている33年から37年ぐらいの間。
○芳賀委員長
   その辺のこのあたりの情景は非常に良くでている。いちいちこの中に何年と書いてなくても。毒消し女が薬を売りに来てとかね。昨日の日本経済新聞かな、今朝のかな、最近無くなってしまった俳句の季語というので「毒消し売り」というのがありました。夏の初めの頃でしたかね、毒消し売りは。この「小諸なる古城のほとり」では、今この辺では中学校の生徒は習いますか。
○新井臨時委員
   教科書からは消えちゃってるんですよね。小諸ではね、無くしてはいけないということで、暗誦しろというふうにもやっています。
○芳賀委員長
   これはもう、この地域の義務でしょう。
○新井臨時委員
   それから千曲川スケッチはね。学校で備えまして、読ませるようにしています。
○芳賀委員長
   作文の練習にね、お手本にね。
 これは歴史的に、民俗学的に研究した人というのはいませんか、「千曲川のスケッチ」は。
○新井臨時委員
   ちょっと私は分かりません。
○芳賀委員長
   そうですか。それは何かをやればいいのにな。人物が何人出る、動物が何匹出るとか。
○新井臨時委員
   どなたかね、名前を忘れましたがそういうふうに研究している人はいるんですね。
○芳賀委員長
   「千曲川のスケッチにおける民俗学的研究」、「千曲川の流域のこの地域の明治後期の風俗・民俗」、「河川利用の研究」と、これも千曲川のスケッチを通して見る。信州大学の学生の修士論文にピッタリだ。
○委員
   島崎藤村が小諸義塾の英語教師として、小諸に来たのは明治32年でした。当時日本では、製糸・綿紡績を中心とした産業革命が進行し、また馬耕の普及によって農業革命が進展しています。さらに、鉄道と馬車を軸とした近代における交通革命が同時進行していた時代でした。
○芳賀委員長
   信越線が何年。
○委員
   信越本線の全通が明治26年です。
○芳賀委員長
   全通って上野から長野まで?
○委員
   上野から直江津まで。長野・上田まで開通したのが21年5月。さらに軽井沢まで開通したのが12月。それから碓氷峠の開削に時間かかりまして明治26年に直江津・上野の間が全通しました。
○芳賀委員長
   それにしても早いもんですね。
○委員
   東海道の全通より早いんですよね。何故早いのかと言うと、中山道鉄道の資材運搬線として建設されました。直江津を起点としたので、最初は信越本線じゃなくて直江津線と呼んでいました。
○芳賀委員長
   そういうことも・・・この中に汽車は出てきますか。
○委員
   藤村が、小諸から信越本線に乗って飯山に行ったのは明治37年。豊野駅で下車してそこから歩いて千曲川の蟹沢港まで行っております。
○芳賀委員長
   面白いじゃないですか。「千曲川のスケッチ」における明治末期の日清・日露の間の上田地域、小諸地域と。
○委員
   明治末期は産業革命・農業革命によって、日本の経済社会が大きな変革を遂げた時代です。例えば明治29年にですね、綿花の輸入が自由化されました。日本における綿花は消滅してしまいます。綿花栽培に変わるものは何かというと、養蚕でした。
○芳賀委員長
   綿が無くなって絹に変わる。この地域でですか。それまでは綿だったんですか。
○委員
   小諸あたりは高冷地のため綿花はできないんです。長野盆地においては、表作が綿花で、その裏作が菜種なんです。菜種の油を絞って、昔は燈油として江戸へ売ったわけですね。絞った油かすを肥料にして綿花を作っていました。
○芳賀委員長
   完全なリサイクルなんですね。
 この今の「小諸なる古城のほとり」は、今は何年生ぐらいに教えてるんですかね。小学校4〜5年ぐらいかな。
○新井臨時委員
   高学年ですね。教えているというか、正式なあれではありませんけどね。
○芳賀委員長
   文部省の教科書とか検定とは関係無しに?
○新井臨時委員
   関係なし。
○芳賀委員長
   国語の先生が配ればいいだけの話でしょう。どうってことない。ただみたいなもんです。紙一枚でこれだけの時間が流れるから。国語の先生はちゃんとやってるでしょうね。 そういうところが非常に心配なんです。どこの地域に行っても、良いものがありながら国語の先生はただ教科書の解説書を読んでいる。国語の教科書はやらないで、やったことにして他のことをやりゃいいんですよ。どうして日教組はそういうことを言わないの。
 これなんかは非常に調子は良いんだから、意味なんて分からなくたっていいから。我々だって初めは分からなかったね。「し藉くによしなし」なんて、なんだかなと。「はつかに青し」なんてのもね。
○委員
   そうですよね。暗誦させるというのは大事ですよね。
○芳賀委員長
   これは歌になっていましたね。あれは誰の作曲ですかね。
○新井臨時委員
   弘田龍太郎です。
○芳賀委員長
   弘田龍太郎。今も歌いますか。
○新井臨時委員
   小諸ではね。藤村記念館で毎年藤村忌というのを8月22日にやっています。その時には市内の小中学校の代表が一校ずつ出てきて歌を歌ったり、合唱団もいくつか呼びますので、そういう皆さんに「千曲川旅情の歌」を歌ってもらったり「椰子の実」を歌ってもらったりしているんですね。そういうところでは歌ってますね。
○委員
   藤村以降はどうなんですか。千曲川を題材にした。
○新井臨時委員
   さっきの千曲川を題材にした小説というのは幾つか紹介されておりましたよね。
○芳賀委員長
   あんまりその、やらないですよね。
 中山道でこう来れば千曲川にぶつかるわけでしょう。昔から色んな人がここを通ったんですよね。
 浅間の煙なんてのは色々あって。
○委員
   東北、北海道の日本海側の諸大名は奥州道中をあまり通行しません。中山道を通って、北国街道から出雲崎に出ました。それからは船で故国に帰りました。
○芳賀委員長
   日本海側の方ね。
○委員
   中山道・北国街道を行く大名達は信濃追分宿に泊まります。そこで飯盛女から、追分節を教わるわけです。教わった追分節を元唄にして、越後追分、秋田追分、津軽追分、松前追分などをつくられました。北国街道というのは追分節の伝播する文化の道でもありました。また佐渡でとれた金・銀が春と秋に、北国街道・中山道経由で江戸へ送られていました。
○芳賀委員長
   千曲川の旅情の歌はさっきの漢詩の方の川に沿った色んな歌の種類で言いますと、どれにあたりますか。
 隠逸でもないし、舟行でもないしね。送辞でもないし、登高遠望でもないし。
○委員
   述懐と言いましょうか。
○芳賀委員長
   はこべ繁縷なんて漢詩に出て来ますか。
○委員
   辺塞詩。国境沿いの戦場を歌った詩に辺塞詩というのがあるんですけれど、そこに類似の言葉が出てくるのですけども。
○芳賀委員長
   やっぱりあれだな。本草学で使う漢字かもしれない。
 この「しろがねのふすま衾の岡辺」なんて暫く分からなかったな。
○委員
   中山道はどこで千曲川を渡りますか。
○委員
   信濃国佐久郡塩名田宿で、千曲川を渡りました。この塩名田の渡しは、昔の景観がよく残されています。
○芳賀委員長
   塩名田。そのあたりには宿はあるのですか?
○委員
   ええ、塩名田は中山道六十九次の正式な宿場で、本陣が2軒、脇本陣・問屋が各々1軒、旅籠が7軒ありました。千曲川の対岸には、御馬寄という間宿がありました。
○芳賀委員長
   そこへ行くとかなりいろんなものが出てくる。
 あとはだから千曲川旅情の歌で、藤村で行って、あとぽんと行って軽井沢文学になっちゃう。ぽんと飛んで戸隠もちょっとありますね。津村信夫とかね、川端康成。
 川端康成は戸隠に来るのかな。「少女が少年のように美しい。少年が少女のように美しい」、うまいことを言うなと思って。
○委員
   川端の場合は柏原駅から戸隠中社まで歩いてきています。その際、久山家の娘に案内してもらっています。
○委員
   上山田温泉には文学者なんかは来なかったんですか。
○委員
   田山花袋や、志賀直哉が戸倉温泉を訪れ、志賀は「豊年虫」などの作品を残しています。戸倉温泉を開業した坂井量之助という人は地元を代表する文化人でした。
○芳賀委員長
   それでは丁度、市川先生にお話を移して。では市川館長、お話を続けてお願いします。
○市川臨時委員
   先ほどから千曲川が話題になっておりますが。千曲川は、どういう特徴があるのかと言うと、千曲川の延長が214キロという話がありましたが、千曲川を信越国境で仕切るのは明治29年の河川法以後ですね。それまでは十日町盆地を通過して、魚野川と合流するまでが千曲川でした。幕末の『北越雪譜』の著者である、鈴木牧之は、千隈河と書いています。そういうことで千曲川はかつて260キロありました。
 他の日本の川とどう違うかといいますと、利根川流域は沼田盆地と関東平野という二つの平坦地しかない。木曽川では木曽谷と濃尾平野。結局二つしか平地が無いのです。ところが千曲川には佐久、上田、長野、飯山、十日町と五つ盆地があります。
○芳賀委員長
   色々と盆地を細かく数えているじゃないですか。
○市川臨時委員
   千曲川最上流の盆地が佐久盆地で地元では佐久平と呼んでいます。今日皆さんが降りられた佐久平駅というのは地形的には佐久盆地ではありません。あれよりもっと南の地域が千曲川沖積扇状地です。この盆地はどういう特徴があるかというと、秩父山地から千曲川が流れてきます。その川が持ってくる古生層を母岩とした土壌は日本で最高の土壌だと東大の農学部三井進午先生が言っておられます。
○芳賀委員長
   その辺の盆地の土になりますかね。
○市川臨時委員
   佐久盆地の野沢、中込、臼田などの地域です。そこで、ここでは「畝取り」という生産力の高い水田地帯です。一畝から一俵とれるので1反歩から10俵とれることになります。この高い生産力を基盤にして、長野県では一番多くの地主層が形成されたところです。地主層達が集まって作った銀行が十九銀行。この十九銀行が諏訪の片倉をはじめとする製糸業の金融を担当したわけです。
 このようにして日本最大の製糸業を支えたのが、佐久平の地主層でした。その一人が、神津猛で、島崎藤村のパトロンでした。
○芳賀委員長
   神津牧場というのは。
○市川臨時委員
   神津牧場とは明治20年に志賀村の豪農神津太郎が、群馬県の物見山の官有林約500町の払い下げを受けて、開設したジャージー種の酪農牧場です。ここで生産されたバターは、現在でも缶に入っています。
 市販されているバターはマーガリンが20%くらい入っています。だから紙の容器に入れても形は崩れませんね。神津牧場のバターはすぐ溶けてしまいます。だから缶に入っています。新宿の中村屋で神津バターを買って頂ければ味が分かります。
 佐久盆地は、米の生産力が非常に高かったので、豪農達は酒造業にも進出しました。
○芳賀委員長
   佐久平というのは大名領ですか。
○市川臨時委員
   岩村田藩、小諸藩・田野口藩の三つの藩がありました。
 上田盆地はどういう特徴があるかというと、ほとんどが段丘面です。その段丘面は塩沢平と、染ヶ丘の段丘に分かれています。ここは全面的に条里制遺構水田です。条里制遺構ということは大和朝廷の指示に基づいて1反歩、当時は360坪ですが、区画整理をしています。古代の8世紀から10世紀にかけて行なった土木事業ですね。信州で条里制が一番発展したのは国府が置かれた上田です。早くから稲作の文化が開けたからです。
 中世になっても塩田北条氏が信濃国の守護になり、塩田平に根拠を置いています。塩田平では鎌倉時代から水田で米麦二毛作が始まります。信州で最初に始まったのが上田です。農業生産力が非常に高かったことが上田が古代に中心性があったと考えられます。
 長野盆地ですが、長野盆地は屋代のあたりから、千曲川が急に緩やかになります。河川勾配が900〜1,000分の1になります。蛇行すると。地形的に自然堤防や後背低地をつくります。生産力が高いのは、土地が肥えているからです。この肥えた耕地が水害によって削られてしまう。これを川欠けと言います。逆に起返りといって、今まで河床だったところが耕地にされます。
 川欠けと起返しは常にありますから個人が持っていると非常に危険です。そこで集落ごとに部落共有地にして割替えするわけです。持ち分によって、あるいは平等に割る場合もありますが。日本で一番地割慣行地が多かったのは、信濃川水系と木曽川水系です。越後平野では昭和43年にこの制度が無くなりました。今でも残っているのは長野と飯山の両盆地です。
 多くの大学でも地割慣行地を調べるには長野盆地の千曲川沿岸でやって参ります。農学部のみではなく、川島武宣先生のように法社会学の先生も調査研究にみえています。
○芳賀委員長
   いわばこっちのローテーションですか。
○市川臨時委員
   ローテーションではなく、川欠けで共有地が減っても残った土地を分割して使っています。一種の保険制度で危険を分散しています。千曲工事事務所が管理しているような国有地まで一部が地割慣行地になっています。
 かつて長野盆地の千曲川の沖積地では、主として、綿花や菜種を作っていました。菜の花畑を黄金島といっておりました。菜種から、油をしぼって江戸へ送っていました。上信国境の鳥居峠を油峠といっていました。種油を運んだ大笹街道は油街道、オイルロードでした。
○芳賀委員長
   長野地域あたりでは菜種はいつ頃から始めました。江戸後期。油。
○市川臨時委員
   江戸中期からです。そして綿花の栽培も同時代からでした。
○芳賀委員長
   先程おっしゃった二毛作で。
○市川臨時委員
   面白いことに千曲川はエジプトナイル川と同じでですね、耕地が水害で流れてしまうと土地を測量してから分割しなければなりません。そこでエジプトでは土地を測る幾何学が発達しました。千曲川沿岸では和算研究が農地の再分割のため盛んでした。長野市の眞島と牛島の境界は善光寺の本堂と、保基谷山を結んだ線が基線にされています。
 千曲川の沖積土壌は深い所で200〜300mあります。長野盆地は非常に土地が肥えています。そこで昔は綿や菜種を作っていましたが、今は長芋やリンゴ、桃などを作っています。日本のナスには長ナスと丸ナスがありますね。信濃川水系では越後平野に丸ナスが多いのですが。長野盆地でも長ナスが多く作られています。小布施茄子、川中島茄子は東京でも知られています。
○芳賀委員長
   茄子というと案外、土地土地の特徴がありますね。
○市川臨時委員
   庄内平野には民田茄子という小さな丸ナスが作られていますが、漬け物としては最高のナスですね。
○芳賀委員長
   あれはもう天下の傑作ですよね。あれに匹敵するものはこっちにありますか。
○市川臨時委員
   信州には民田ナスに相当する小さなナスはないです。京都のもぎ茄子は民田ナスと同じですが。このような伝統作物は千曲川が氾濫する常襲水害地にいくつかあります。
○芳賀委員長
   氾濫することで土地が豊かになると。
○市川臨時委員
   洪水は天然の客土なのです。上流から土を持ってきて客土するので、丸ナスを連作しても忌地になりません。第二次世界大戦前まで小布施茄子の苗は東京の近郊に送られ、作られていました。それが何故作らなくなったのか。それは長ナスに比べて収穫量が少ないからです。また収穫期間が短いからです。ところが、長野盆地、飯山盆地では水害の常襲地帯なんですが、一方洪水のない年は土地生産性が高いのです。
 十日町盆地に6、7段の海岸段丘が発達しています。積雪が多いので水田化が進んでいます。新潟県でうまい米ができるのは六日町と十日町の両盆地ですね。
 その様にして千曲川の沿岸には五つの盆地があって、みんな違う河川の自然条件を持っており、しかも開発が進んでいます。前にお話しましたが、千曲川の沖積地が広がる長野、飯山両盆地に地割慣行地が残存しているのは、河川敷や自然堤防まで耕地化が進み、常襲水害地であることを意味します。
 この水害は天然の客土であるため堤外地の生産力を高めているわけです。
 次に申し上げたいことは、千曲川の通船です。千曲川通船が航行した終点が上田です。上田の河川勾配は190分の1できついのでほとんど利用されていません。河川勾配が300分の1以下でないと、舟運は困難でした。この長野の盆地の場合は、900分の1から1,000分の1です。ところが飯山盆地に行きますと、3,600分の1という緩勾配になります。このような勾配ですから、ここでは通船が盛んでした。千曲川の水運で一番大きな舟は75石積み、これは重量11.25トンになります。現在の大型トラックに相当する荷を積んだ帆船が往来していました。
 千曲川通船が、鉄道交通が開通するまで行なわれていました。そこで島崎藤村が明治37年、飯山にやって参りますが、小諸から信越本線に乗り、豊野で下車します。豊野駅から蟹沢港まで歩いて通船に乗りました。大正10年に飯山鉄道が開通しても通船がその後も続けられる。それはどういうことかといいますと、冬は除雪体制不十分ですから鉄道は不通になりました。ところが船の場合は千曲川が凍ってないので運行できたわけです。除雪体制が確立される戦後まで船が併用されていました。
 この通船が西大滝という信越国境にダムがありますが、ここが千曲川通船の終点です。このあたりに滝という地名が七つあります。信越国境の「滝」はフォールじゃなくて早瀬です。それが飯山市の西大滝から十日町の間は船が通れません。その間の交通は牛や馬を使いました。そして十日町とは六日町から下流は新潟まで船が航行していました。
 この千曲川で注目すべきことは、木材の管流しがよく行なわれていたことですね。善光寺の建築材は、宝暦4年の場合、南佐久の千曲川の沿岸から桂を伐って運びました。千曲川の流域には檜がないので桂を伐って流しました。長野まで千曲川を落合まで流送して、それから犀川、裾花川を溯り木留神社から大八車で善光寺まで運びました。
 筏流し管流しは、夏は行わないのは、夏行うと、集中豪雨で一気に新潟まで流失してしまう。そこで冬やるんですが、川に木材を組んでダムを造るんですね。川に。ダムを壊して一気に流すという方法をとっています。
 その場合、天竜川、木曽川、利根川では、くれき榑木流しと言って江戸、大阪、京都、名古屋の都会で使った板葺きの屋根材を流送していますした。この榑木は平安時代から送られています。ところが千曲川は日本海側に出るので、榑木を流すことは行われていません千曲川の中流、下流また信濃川では、水運が広範に使われていました。特に河川勾配は飯山盆地においては3,600分の1平均、部分的には5,000分の1。越後平野では長岡から7,000分の1という緩勾配ですから、長岡から新潟の間は戦後まで蒸気船が通行していました。
 千曲川、信濃川で注目すべきことは、サケやマスの漁業だと思います。平安時代の「延喜式」を見ますと、サケの三大産地国は東北ではなくて、越後、越中、信濃の三国です。そこでは楚割鮭と言って、鮭の天日乾燥したもの、あるいは氷頭といって鮭の頭、筋子、背腸、鮭の血の塩辛など調として越後、越中、信濃の国から送られています。そういう点で、古代においては信濃の国はサケの三大生産国だと。それから武田信玄が信州を征服したときに鮭川を指定して、10本のサケを獲ったら4本は税として貢納させております。
○芳賀委員長
   4本は何?
○市川臨時委員
   10本の水揚げがあれば4本は税金にして取ると、税率は4割になります。なお、甲州では富士川には鮭は溯ってきませんから、貴重な食品でした。
 麦は越後では作れない。川中島合戦は、麦をどちらがとるかという戦いでした。当時は信濃国は越後国より米の生産量が多かったですが、その米をどちらが取るかの戦いでありました。
 千曲川は、普段はおとなしい川ですが、ひとたび荒れると、大きな水害をもたらしてきました。にもかかわらず、千曲川の流域には、平地林がほとんどないのです。平地林が無いことは農地開発が進んでいることを示しています。犀川水系の上流地域には平地林が多く残されています。
○芳賀委員長
   はい、どうもありがとうございました。そろそろ時間も迫って参りましたが、五味さん、なにかありますか。
○委員
   そうですね、古代から変わらず、非常に豊かだったというのが分かりました。いつでしたか別所温泉に行きましたら、朝鮮人参を毎年作っていると。これを作ると非常に土地が痩せるんですよね。だから毎年なんて作れない。土地が痩せちゃうんですよ。でもここは作れるんですね。
○市川臨時委員
   薬用人参の栽培は最初の年は耕起して肥料を入れて寝かせておきます。次の年に種を蒔いてから収穫するのに6年から7年かかります。収穫の後50年間は人参の栽培できません。色々微量要素を吸収してしまいますので、他の作物はいいですが、薬用人参の耕作はできません。そこで薬用人参を作らない家の農地を借りて作るわけです。
 人参と書くと、これは薬用人参です。農林省の統計では人参と表記されていました。なお、食用ニンジンは胡らふく蘿蔔と書かれています。
○芳賀委員長
   市川先生は元農林省ですか。建設省?
○市川臨時委員
   いや東京学芸大学です。
○芳賀委員長
   河川の用語なんかをよくお使いになるから、元建設省にいらっしゃったのかと。
 時々川は洪水があるとその流域が豊かになる。でもそれは大昔でしょ。
○市川臨時委員
   現在でも洪水によって堤外地には天然の客土が行われています。
○芳賀委員長
   農業形態が昔と同じでいいかというのは。今は肥料から何からという世界でやっているんです。それは色んな意味で良いか悪いかというのは。
○市川臨時委員
   千曲川においては上田から飯山にかけていわゆる内務省堤防が大正7年から昭和16年にかけて造られました。霞堤ではなくて連続堤のため、堤内地の水害が減少しました。明治5年の地租改正、内務省堤防の完成、戦後の農地改革といったことなどを経て地割慣行地も減ったわけです。今残っているのは長野盆地と飯山盆地ということでのみになりました。
○委員
   過疎化の問題はここではどうですか?
○市川臨時委員
   千曲川が流れている盆地内ではありません。
○委員
   やはり割替えもやるような慣行が続くというのは、まさにそれがない訳ですね。
○市川臨時委員
   地割慣行には三つの形態があります。つら面割りといって構成員が平等に割ります。学校の先生でも5年経てば、面割りの権限を得て、農地の耕作権が与えられます。次に株割りと言って、持ち分権によって共有地の耕作権が与えられます。もう一つ江戸時代には、高割りといい明治以降は地価割りといっております。所有している本田畑の地価に比例して共有地の耕作権を与えています。
○委員
   長野の盆地、上田盆地とかいったのは一つの文化圏にならないんですか。
○市川臨時委員
   先程もお話ししたように山麓に、上田盆地は侵食盆地で段丘地形が発達しています。長野盆地は山麓に扇状地地形が発達していますが、千曲川の沿岸は沖積層が堆積していますが、その厚さが200〜300メートルに及んでいます。
○芳賀委員長
   そうすると文化も変ってくる。
○委員
   条件が違うから逆に一つの文化圏が形成されやすいとは考えられないんですか。千曲川が一つと考えるか、区分されるのか。
○市川臨時委員
   千曲川には、五つ盆地があり自然条件が大きく違います。そこでその流域には地域性の異なる河川文化が発達しています。
○委員
   こちらの文化があまり全国例にないと。利根川の方へ入って行きますとね。それは上田だけなんですか。群馬県は入って来ますよね。それを越えるのが鳥井峠でしょう。
 上田には非常に篤農家の人たちが多いわけでしょう。
○市川臨時委員
   日本一と言われている群馬県の嬬恋キャベツは昭和初期に信州上田の青果商人の指導によって始められております。
○芳賀委員長
   そういうものが千曲川から利根川に入ると。千曲川の中ではひとつの文化圏はなくて、流域を越えたところで繋がっていくということになると面白いなと思う。
○委員
   先ほどありましたように、塩尻というところがひとつの分岐点になるように感じますけれど。
○市川臨時委員
   その通りですね。というのは海岸から内陸えの塩の搬入路のターミナルという意味です。松本の南にある塩尻と上田の塩尻は有名です。信越国境の栄村にも塩尻があるんです。その塩尻は新潟に入ってくる塩と、直江津から入ってくる塩との接点ですね。
○芳賀委員長
   日本海側の塩の方が上等なんでしたっけ。
○市川臨時委員
   ですからいわゆる、日本海沿岸では、揚げ浜式塩田で塩が作られていますが、太平洋沿岸と瀬戸内地方の入浜式塩田とは製法が違います。太平洋側の方が、質が良かったようです。
○芳賀委員長
   でも上田のあたりは割合百姓一揆が激しかったですね。上田なんとか争議とか。それは豊かでも。
○市川臨時委員
   上田地方では江戸中期以降日本一の蚕種製造が発展するなど、商品経済が発展しました。その反面百姓一揆が起きました。「百姓一揆と夕立は青木村からやってくる」という俚言があるくらいです。蚕がかかりやすい微粒子病の菌を発見するためには顕微鏡を使いましたが明治初期、日本に入った顕微鏡の6割が、上田を中心にする東信地方にあったといわれています。
○芳賀委員長
   どうも本当に色々なお話をありがとうございました。大変面白いお話を聞かせていただきました。
 
3.閉会
 

目次に戻る


Copyright© 2007 MLIT Japan. All Rights Reserved.

国土交通省 〒100-8918 東京都千代田区霞が関2-1-3

アクセス・地図(代表電話)03-5253-8111