水管理・国土保全

  

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後志利別川の歴史

開拓期の始まり

 後志利別川は、さかのぼること天明5年(1785)に幕府により初めての蝦夷地調査が行われ、寛政9年(1798)に編纂された「松前地並西蝦夷地明細記」には「セタナイ川」と記されています。また、弘化2年(1845)の西蝦夷地踏査では、後志利別川をさかのぼった時の様子が「蝦夷日記」に記され、マコマナイなど現在も使われている地名が出ています。明治2年7月に開拓使が設置され、新政府は蝦夷地と呼ばれた一帯を北海道と名付け、北海道の開拓がスタートしました。北海道は11国86郡に分けられ、瀬棚郡は現在の後志支庁と檜山支庁の北部の地域を含んだ「後志国」とされました。後志利別川の「後志」は、ここから付けられたと言われています。

 開拓使時代、瀬棚郡は海岸線の道路しかなく、利別原野は原始林に覆われており瀬棚から現在の北檜山町、今金町へと入るには、後志利別川河口から小舟で川をのぼるしかありませんでした。しかし古くから渡船場はありましたが、この時代、川沿いにあったいくつかのアイヌ集落で捕獲したサケの運搬に川を利用していたものの、流域を上下する舟便と呼べるものではありませんでした。



渡船場位置図




開けゆく流域

 後志利別川流域は、河口瀬棚のニシン漁場とサケ、マス漁によって発展しましたが、明治以前から漁業による乱獲がたたり、漁業資源は減少の傾向をたどったことから、網の制限や川での洗濯、食器類の洗物を禁止し、川の汚染防止規制を行っており、サケ資源保護に関する規制としては、北海道内で最初のものではないかと思われます。また、支川の種川ではサケの産卵遡上する期間、河川での漁獲を禁止し、密漁防止、産卵床の保護に努め天然繁殖による増殖を図る種川制度を採っていました。

 瀬棚郡での稲作は、明治24年(1891)の試作に始まりますが、本格化にはさらに時間が必要でありました。流域の林業の歴史は古く、寛永14年(1637)に松前城の前身である福山城消失後の再建のため現在の北檜山から用材を伐り出したのが始まりとされており、明治25年(1892)には清国向けの輸出も始まり、後志利別川河口には枕木用のナラやトド松の用材などの貯木場ができ賑わっていました。


ニシンの水揚げ状況(明治30年頃)
新撰北海道史より


川尻材木流送滞積場(明治末期)
今金史より



治水事業の幕開け

 明治40年頃までの後志利別川は、毎年のように洪水被害に見舞われ応急的な治水工事を行ってました。しかし、被害を完全に防ぐまでにはほど遠く、抜本的な河川改修を望む声が高まってましたが、不況等の影響より河川改修が進みませんでした。
 一方で、流域一帯は地味肥沃と気候温順のため明治晩年から昭和初期にかけ本州から開拓農民が続々と入植し、流域は農地として発達し沿岸は勿論、源に近い奥地まで開拓されてましたが、洪水による被害も年ごとに増大し河川は年々河岸を決壊流出させ、沿岸の肥沃な農耕地を荒廃させる最悪の現状となり治水事業が急がれました。

 この様な状況から緊急的な事業が立案され最も急を要する箇所を昭和9年から昭和13年度までの5カ年事業とし残余の区間をさらに引き続き施行する計画で本格的な治水工事が開始することとなりました。
 治水工事は、今金町市街部から河口までの区間において河道安定に向けた第一期工事として大富から河口までの低水路の開削や掘削土を利用し今金町市街部の堤防等を施工しました。また、兜野新水路(昭和10年通水)を皮切りに、中里新水路(昭和58年通水)まで、14箇所の捷水路工事により河道が現在の形状となりました。


後志利別川の捷水路工事




現代の治水事業

 後志利別川は、昭和43年に一級河川に指定され昭和44年には、本支川を含め水系一貫した計画の再検討を行った工事実施基本計画が策定されました。
 この計画に基づき堤防、掘削及び内水対策として兜野排水機場(昭和54年完成)・北檜山排水機場(昭和59年完成)を整備すると共に、昭和54年に洪水調節、流水の正常な機能の維持、かんがい用水の補給、発電を目的とする美利河ダムの建設に着手し平成3年に完成しました。

 また、平成9年の河川法改正に伴い後志利別川水系河川整備方針を平成18年2月に策定し平成19年6月に後志利別川水系河川整備計画を策定しました。以降、現在までこの計画に基づき工事を実施しています。


排水機場とダム





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