明治時代に入ると、日本で最初の鉄道が鶴見川を横断して新橋-横浜間に開通し、横浜の生麦地区などでは海面の埋め立てが行われるようになり、鶴見川河口部では京浜工業地帯の礎が築かれていきました。その後、大正12年の関東大震災や第二次世界大戦により、横浜市一帯も大きな被害を受けましたが、復興とともに沿岸部の埋め立てや道路網の整備など、工業化が更に進められていきました。
戦後、昭和30年頃の鶴見川流域は、自然豊かな環境も数多く残されていましたが、昭和40年頃からこの鶴見川流域も著しい市街化が進みました。国際都市横浜に位置し、首都東京にも近いという地理的条件により、下流域では京浜工業地帯が発達し、昭和39年には東海道新幹線が開通し、新横浜駅も開業しました。その後も第三京浜や田園都市線、東名高速の開通など、主要交通機関の発達に伴って中流域を中心に急速な都市化が進みました。その結果、現在では鶴見川は国内でも有数の典型的な都市河川となっています。