阿賀川は、縦横無尽に暴れて沿川の人間を悩ませてきました。このため、古くからいろいろな治水工事(川除け普請)や制度(福祉政策)がおこなわれてきました。江戸時代には「川干し」という大工事、「山崎湖の水抜き普請」、「島田覚右衛門による大川普請」、「藤森十左衛門の災害復旧工事」など「川除け普請」がおこなわれてきました。しかし、川除け普請は、農民の負担も大きいことから、会津藩の藩主、保科正之は農民救済を目的とし、「社倉米」という制度を設けました。
そのような中で、蛇篭出しに使用する竹の代わりに葡萄ヅルを用いる工法など、地域の特性にあった工法なども生まれました。中央で技術の成功をみて、会津には「蛇篭出し」に使用する竹が少ないため、地元でとれる葡萄ヅルを用い河川工事費の削減を図ったことが伝えられています。このように地域の特性、川の性格を巧みに活かした技術は、現代の阿賀川でも環境面という評価を加え、地域で調達可能な天然素材を使用した木工沈床等の伝統的工法を採用しています。