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番匠川の歴史
番匠川の歴史と先人の知恵
佐伯城の築城と佐伯藩初代藩主 毛利高政の都市計画
佐伯藩初代藩主 毛利高政は慶長6年(1601年)、日田隈城から佐伯二万石を封ぜられ、番匠川下流の左岸に位置する八幡山(城山)に佐伯城を築き、番匠川の河口付近の干潟を埋め立てて城下町を整備しました。佐伯城下町は、外敵からの防衛のために様々な工夫をこらして整備されていたことが、文政元年(1818年)に描かれた「御城下分見明細図絵」から読みとられます。町の南側を大きく曲がり込む番匠川の本流が外堀となるほか、支流や入江も自然の防御線となっていました。さらに湿地帯が内堀のようにして残され、軍事的な防備だけでなく、防火線ともなっていました。城下町の内部では、いざというときに大勢の軍兵や騎馬が通過できるだけの広い街路が整備され、防衛の要所となる広場も各所に設けられていました。
御城下分見明細図絵 文政九(1812)年
交通の変遷:舟運
番匠川では下流部を中心に古くから舟運が発達しており、江戸時代から舟運のための流路や水深を確保するための工事が行われていました。明治4年(1871年)頃の「佐伯藩時代屋敷図」には江戸時代の船着き場が描かれています。江戸時代の船着き場は藩主専用の乗船場、藩士の乗船場、一般の乗船場などに分けられていました。渡し船や定期船も多く、河川に沿って街が賑わいを見せていました。その後、昭和29年(1954年)に開港した佐伯港を中心とする海上交通の発展により、船舶は河口近くの港に集結するようになり、番匠川本流以外の支川は交通路としての性格を失っていきました。さらに近代に入り、道路や橋梁が整備されるようになると、河川を利用した舟運はほとんど行われなくなりました。
明治四(1871)年頃佐伯藩時代屋敷図
佐伯藩の四大井路
番匠川の流域では江戸時代に4つの大規模な用水路(小田井路、鬼ヶ瀬井路、常盤井路、高畠井路)が建設されており、「佐伯藩の四大井路」と呼ばれています。これらの用水路は流域の農業の振興に大きく役立てられ、佐伯藩の財政を潤したと言われています。当時建設された堰は現在もかんがいの役割を果たし、番匠川下流域から中流域の田畑を潤し続けています。
小田堰
高畠堰
番匠川の聖牛
聖牛は河岸の前面に設置されていて、増水時、河岸に水流が激突するのを和らげる効果を持っています。武田信玄の創案になるものと云われており、専ら山梨県の釜無川や笛吹川に施工されていましたが、信玄の勢力圏拡大に伴い他河川に伝わり、享保年間(1716~1736年)以後から各地に流布したものです。当聖牛は、下流部である番匠川本川左岸の5K100~5K500付近までの延長約400mにわたり、昭和初期頃に約20基施工されたものと思われます。当地区には砂州が形成され生態系の保全に効果を発揮しており、野鳥が合掌木等を止まり木に利用し、地域住民からも好評を得ていましたが、過去の洪水により流出や破損等が見られ老朽化が著しかったため平成13年(2001)年に改築しました。
野鳥の止まり木、聖牛
夕日に映える聖牛
近代の治水事業
昭和12年より大分県の河川改修事業に始まり、龍護寺(りょうごじ)から河口までの区間について、昭和16年に着手した池田地区の捷水路をはじめ、築堤、掘削、護岸等の工事を実施しました。その後、昭和18年9月台風26号等の洪水を受けたため、龍護寺から上流については提内(ひさぎうち)川、井崎川の主要河川を加え、改修工事を実施しました。
昭和26年からは国の直轄事業として改修工事を実施し、池田地区の捷水路は昭和38年に完成しました。
池田捷水路
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