水管理・国土保全

  

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菊池川の歴史

菊池川の史跡
装飾古墳
全国の装飾古墳のうち、約20%が菊池川流域に確認されており、チブサン古墳などが国指定史跡となっています。
 装飾古墳とは、古墳の石室や石棺、あるいは横穴の外壁や内部に文様や絵画、彫刻を施されているものです。
 その図柄には、船が描かれたものが多くあり、被葬者が河川舟運、あるいは海上交易に関わっていた可能性を示していると考えられています。
 古墳時代の5世紀後半頃に築造された江田船山古墳(国指定重要文化財)の副葬品などからは大陸との深い交流がうかがわれ、また、菊池川流域産の舟形石棺が遠く瀬戸内、近畿地方まで運ばれていたことが判っています。


チブサン古墳


江田船山古墳



菊池川の史跡
俵転がし
平安末期には、下流に高瀬、伊倉(熊本県玉名市)の港が開かれ、国際貿易港として栄えました。
 江戸時代になると、鎖国体制になっていく過程で、港としての機能は高瀬に統合されていきました。
 菊池川流域で産出される米は、質・量ともに良好なため、標準米として全国の米相場に影響を与えたほどで、高瀬は肥後米最大の輸出港として一層の発展を遂げました。
 その頃作られた俵転がし(流域各地から集められた米俵を蔵から船へ積むために作られた)は現在もその跡が残されています。


俵転がし




菊池川の史跡
石はね
菊池川の治水及び新田開発事業は、16世紀の終わりから17世紀の初めにかけて加藤清正により本格的に始められました。
 もともと菊池川は桃田(現玉名市大倉)から南に曲がって伊倉の西を通り、横島町横島と天水町久島山の間を通って有明海に注いでいたといいます。
 洪水時には、JR鹿児島本線付近の高瀬付近だけでなく現在の九州自動車道付近まで浸水していました。
 そのため、清正は川を西の方へ直流にする形にもっていき、旧菊池川は唐人川として残し水量も川幅も減じました。
 新菊池川には、ところどころに轡塘(くつわども)(遊水地)を築き、蛇行するところには数多くの石はね(水の勢いを和らげる)が設けられ洪水被害を軽減させました。
 特に、「石はね」については、現代の河川工事でも作られることがあります。







菊池川の史跡
石塘(いしども)
有明海は干満の差が大きく、満潮時には平野部まで潮が入りこむため、耕作できない土地が多くありました。
 そのため、唐人川の久島・横島の間に石塘を築いて海水の進入を防ぎ、干拓を行い広い水田が開発されました。



石塘模式図


石塘





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