会議記録

3.ショートスピーチ

【森地座長】 事務局から説明があったかと思うが、自由にご議論いただき、また参加者も自由に未来に向かっての議論をする、そういう趣旨の会である。
 また、前回と同様、報道関係の方々にも公開ということで進めさせていただく。それでは、お一人30分程度をめどにショートスピーチをいただきたい。


【松本】 テーマがテーマなので、少したじろいだことも事実である。私は、生まれてからこの方、本職は漫画家である。漫画とは、つまり漫画なのである。ただ、漫画の「漫」という字はさんずい偏がついている。本来の「漫」という字は、おもしろおかしいという意味ではなく、汚れなき、みずみずしく、清らかな瞳という意味である。だから、漫画あるいは漫遊記という言葉の意味が変わってくるわけである。それは、汚れなき瞳でものを見て回って知識を得るという、語源的には漢字の意味はそうであったが、いつの間にか、漫才もそうだが、おもしろおかしいものというように概念が変化してしまった。しかし、基本的にはみずみずしい瞳で新しい知識を得る、見るということが自分の中で強固にある。
 実は、漫画は意外なところで効果を発揮している。私は大正時代や明治時代の未来予測図をたくさん持っているが、その中に書かれている飛行物体や未来都市は、現在、おおよそ現実になっている。強固に消えないのはプロペラのたぐいである。ジャンボのようなものが書いてあるが、必ずプロペラだけはくっついていた。
 このように一つの概念が固定すると、プロペラ無しの飛行物体は、その時代は考えられないのである。今の子供たちは、火星や金星に住んでいる絵を書く。おそらくこの順番でいくと、彼らが考えているとおり、今の子供たちの中に既に未来は存在していると考えて間違いないと思う。
 そして、存在しているということは、心の中に存在しているわけである。人の能力が動物と違うところは、心の中にある存在を考え、自分の考え、夢、理想を人に伝えることであり、そのような能力を授かったことが、人間が人間になった最大の原因だと考える。二足歩行でもなければ、道具を使ったということでもない。心で昨日を考え、今日を考え、明日を考えるという、連続した時系列的な概念の掌握、時間の掌握が、人間を人間とし高等生命体にした、とても大事な理由だと考える。
 地球上でこのような考え方を持つ生命体はほかにはいない。故に、人間は体力的に恐竜に比べると、はるかにひ弱だったはずが、地球上最強の生命体になることができた。
 私のところに恐竜の糞石がある。中の骨の破片たるや、ものすごい。それを丸飲みにして出す平気な生物というのはいかに恐ろしい存在か。その糞石、おにぎりぐらいの大きさであるが、みんな手に取るとにおいを嗅ぐのがおもしろい。何億年も前のもので、石になっており、においがするわけではないが、粉砕された骨が文字どおり大量に入っている。恐竜を相手にしながら、人間は何とか生き延びた。それは考える力であり、今日の自分、明日の自分、過去の自分というように、時間を把握した結果だと思う。私は、その能力は何のために授かったのかと時々考える。
 人間だけが最強の動物として、地球上の支配者になればいいのか。それほど単純な問題ではないと考える。自然の摂理というか、私は信心深くはないので、そちらとは縁がなく過激なことを言うかもしれない。物を物理的にしか、現実の問題としか考えない人間だが、人間がなぜそのような能力を自然から授かったのか。それは、「人間よ、この能力を授けたのだから、あなた方はこの地球上で生きる全生命体の未来について責任を持ちなさい」と、自然が授けたと考える。私には、子供たちが想い描く未来、過去の人たちが想い描いた未来、特に科学技術を骨幹とした空想的な未来においても、必ず科学技術が、生命の未来を守るための存在だという断固たる想いがある。
 生命を傷つけ、滅ぼし、人類自身を危殆に陥れる、そのような技術であるなら、それは、自然から命ぜられた摂理に反すると考えている。そのための能力を人間は与えられた。だから私たちは、この地球というこの惑星の平和とそこに生きているウイルスに至るまでのすべての全生命体の生存を守る、という義務を課せられた生命体であると、そのように考えている。ほかの星にも、おそらくそのような役割を担った生命体は必ずいると考えるが、人間はこの地球上では、その役割を自然から命ぜられ与えられた能力を持った生き物だと、固く信じて物語を書いている。
 漫画であるから、時々大脱線をし、大酒飲みをかく。あまりの大酒飲みを相手にしたとき、これは外国の大酒飲みだが、「あなたはいかにして奥さんをごまかして、かくも大酒を飲まれるや」と筆談でやると、「酒は百薬の長なりとごまかして飲むのに苦労しておる」と。で、「同感なり」で、また乾杯が続く。そういう大騒動もした。そこに共通していることは、人は、あうんの呼吸と善意という問題があるわけで、これは日本人でも、アメリカ人でも、中国人でも、ドイツ人でも皆同じである。時系列の中、時間の中で、時間を把握しながら未来を考えるということ、これは人間の特別な能力である。カエルも豚も馬も、おそらく明日のことはあまり考えていないと思う。目先の餌のため速く走ったり、虎やライオンが人をかじっても、あしたのことはあまり考えていないと思う。本能的な意味での習性の遺伝、あるいは手習いというのはあるかもしれないが、人間のように、明日のおれは今日より強い、明後日はもっとすごいから覚えていろと考える生命体は、ほかにいないと考える。
 ゆえに、科学技術的未来を築く中で、自分の夢が大切なら、人の夢も大切にしながら、お互いに納得のいく未来をつくるべきだと考える。
 それからもう一つ、今度はそのような生命の強固さゆえに、一つの固定概念にとらわれると、100年、200年、それが全く変わらない。発想の転換が不可能になる部分も、人間の欠点としてあると思う。コロンブスの卵である。
 このごろ時々、新しい開発やいろいろな発明と称するものの中で、概念の転換により新しいことが起こると考えるが、物は一度かたちが決まってしまうと、これはこのようなものだということで、観念的な概念が不変のものとなってレールが引かれてしまう。それから離れることができなくなるという欠点も、この思考形態の中に日本は持っていると考える。ゆえに、自由な発想、頭の中・心の中の自由な発想というものを、子供のころからのすり込みにより自由に展開するということはとても大事なことだと考える。
 日本は資源小国であると言われている。確かに資源小国である。ただ、アメリカの宇宙飛行士が日本へ来て岩手県を案内したとき、あの見事な杉の山をみて、「こんな大森林がありながら、なぜあなたの国はよその国の材木を買うのか」と問われ、返す言葉がなかったことがある。このようにいろいろな立場はあるが、私は、子供のときからのたくさんのすり込みがいずれ、かたちをとってあらわれるのが未来だと考える。
 資源小国という話に戻すと、確かに掘り出したり使ったりする有効な資源は、国土の位置的、地理的な意味と成り立ちの意味から、石油もそう出るわけでもないし石炭も大体掘り尽くしたことで、それほど資源が豊かな国だとは考えていない。米だけは自給自足ができると、八丈島かどこかへ行ったときに言われ、なるほどと考えた。そのようなものを外国に頼るのは、自分の自主性をなくすということで、あまり好きではない。資源小国と言われると、まず日本は小さい国だという概念をたたき込まれる。私は、島国、島国と言われることが大変嫌いである。ところがドイツ人が「日本を切り抜いてヨーロッパの上に載せてごらん。それでも小さい国か。日本は亜熱帯から亜寒帯にまでまたがる巨大な列島で、小国ではない。」と書いている。私もそうしてみて、なるほどそうだと考える。
 それから、世界地図をひっくり返して、南極を上にして大陸側から見たときに、日本列島は、衝立のように壁になっている巨大な屏風みたいなものである。決して小さい国には見えない。私も、小国小国だというイメージをたたき込むことは、決して得ではないと考える。その上に1億2,000万人以上の同胞がここで暮らしている。この同胞はすべて物わかりがよくて、やおよろずの神々で、あまりこだわらない。進取の気質を持ち、比較的自由にあらゆるものを取り込む。この気風は、頑なになるよりは良いことだと考える。開放的なもの、良いものは遠慮なく取り入れ、受け入れるということだ。
 そして、その一人一人の頭の中にある脳細胞こそが、私は日本の最大の資源だと考える。一人一人と言うが、私たち一人一人でも、親の代、親の代、親の代とさかのぼっていくと、ものすごい容量のデータをそこからいただいているわけである。ものすごい数である。コンピュータ云々といっても、我々個体の体の中に、しかも、生まれたての赤ちゃんを見ても、その中に残されていったDNAという名のデータはものすごい数なはずである。それは永久に、コンピューター、機械では、いかに電子技術が発達しても追い抜けないものを、私たち一人一人が受け取っているわけである。その脳細胞の中に、進取の気質と、すべてをやわらかく受けとめる能力のある部分があり、決して日本は資源小国だとは考えていない。脳細胞という最大の輸出物、資源を有効に活用することで、十分地球上でほかの国々と互角に頑張っていける国だと固く信じている。
 そして、空想物語。空想物語は時として途方もないことを書くので、文字どおり空想だが、その中には、空想を繰り広げるためにも、理論的に一旦引っかかる部分だけは、事実に引っかけておかないと説得力がない。幸いにして私の父親は空を飛んでおり、弟は実は技術系の人間で、H−Uロケットの開発の一部分や、いろいろなところに関与している。私はこの弟に、火星人だ、宇宙人だ、惑星だ、何だかんだという子供のときからのすり込みがおまえに影響したのだ、ありがたく思えと言って恩を着せている。また、弟ほどこき使いやすいものはいない。今、某大重工業と言うとすぐわかってしまうが、そこの技術本部の技監をやっている。肩書は工学博士である。
 弟に、へ理屈の図式や数式、いろいろなものを理論的に実証せよと送る。すると必ず、あながちうそとは言えないと要注意点を書いてくる。あながちうそとは言えないという返事さえあれば、何をしようと破綻は来さない。若いときから、弟がまだ大学にいるころから、必ずそうしては、2人して怪奇な発明をしてパテントをとったりして喜んでいたわけである。
 弟と2人で話をしているうちに、一つのことに気がついた。世界中、脳細胞の数に変わりはないから、侮ってはならない。考えるのはだれでも考える。考えることは同じだが、考えたことを2次元平面の紙の上に図式にできるのか、文章化できるのか、数式化できるのか、というところで人間の能力には大差がつく。そしてマインド・アイ、つまり、心というものに浮かんだ、心の目で考えたこと、思ったことを心の目で2次元平面の紙の上に図式できるのか。それを書いて第三者を説得できるのか。それは漫画の場合も同じである。頭の中で考えることだけならできるが、それを書く力量がなければ、書くことは不可能である。小説も同じである。技術的なもの、いかなる大発明も、最初は紙の上の、頭の中の、心の中の想いを、2次元平面の上に表現した瞬間に初めて、第三者に指し示すことのできる現実味を帯びてくるわけである。
 この方面において、日本は『源氏物語』や鳥羽僧正の『鳥獣戯画』を持ち出すまでもなく、アルタミラの壁画もそうだが、人間にはすべて心の中の想いを、2次元平面の物体の上、紙の上に書き写す能力があった。これが物をつくり上げていく最大の基本をなした。そこに問題があると考える。トラは絵を書かない。チンパンジーも絵は書けない。人間だけである。ゆえに、想いを2次元平面の世界にまず展開して設計をし、構築をし、それをもとに巨大な構造物まで発展させていく能力、あるいは物語としていく能力、これが一番大事な部分だと考える。そのような能力は、5歳ぐらいまでのすり込みの中に、願望としてすべてすり込まれてしまうと考える。
 それがそれぞれ専門化していく過程で、最も得意な部分において、大人になって威力を発揮すると考えているため、私は子供たちの、特に物心がつき始めた子供たちの最初に触れるものがいかに大事かということを肝に銘じている。子供を侮ってはならない。この子の未来には時間という強力な味方がいるわけである。我々にはもう無くなった。もう地平線が迫っている。子供たちを見るとうらやましい。彼らには、宝のような時間というものが味方をしている。
 私が書いている漫画の中で、実は絶世の美女にしているが、あれは時間そのものが少年をいざなって未来へ導いているという、そのような概念があるわけである。私もそう考えていた。十五、六のときには、「自分はまだ15だ、未来がある」と固く信じて、0点を取ってもそう思っていた。若さとは恐ろしいものだと考えるし、その若さを侮ったら大人の世界は痛烈なしっぺ返しを受ける。私は、「今の若者は」とは決して言わない。それぞれの各世代各様に、想い、情熱や目的意識はあると考える。見かけだけでは判断できない部分がある。そして大部分の若者。営々として文字どおり、ごみのごとく歯を食いしばり努力しているのが最大公約数的な若者の真実の姿で、目立つ一部分、それは例外的な存在だと考える。ゆえに、歯を食いしばり物言わず黙々と努力している若者たちを勇気づけることは、この国の伝統である2次元平面の上に心を描き出すことのできる能力となり、これが、いずれ最大の輸出物としてこの国を支えていく、とても大事な宝物だと考える。
 脳細胞が巨大な資源としてこの国に存在し、それは一朝一夕には外国に追い抜かれることはないと考える。それは伝統的に長い遺伝子のすり込みの中により構築されたものであるから、少し見ただけでもそれは分かる。その資質というのはとても大事なもので、そのような意味で若者たちを励ますことがとても重要ではないかと考える。
 ODAで、外国にダムやブルドーザーを供給していることは知っている。しかし、その国の子供が何をしているか。学校と称するところで、石板に字を書いたり、ひどいところでは地面に絵や字を書いている。これではものにならない。
 東南アジアの青年から言われた。漫画を志す青年か私のところへ来て、親にやめろと言われると。なぜだと聞くと、金がかかると。金がかかると聞いて、私は驚いた。我々には、紙や鉛筆や消しゴムごときは、終戦直後のいくら困窮していたときでも、紙をよく引き破り、ぐちゃぐちゃにして放り出す漫画家や小説家の絵のように、さほど高価なものではなく、どこにでもある珍しくないものであった。
 ところが、これが使命を制する大事なことだと気がついた。その若者に、なぜだと聞くと、全部輸入品だと。それを聞いた瞬間に、それなら私もだめだったと考えた。ODAで、外国の若者、特に子供たちには、黙って恩を着せてはいけないと考える。黙ってわからない形で文房具をどんどん供給し、いずれ自立のときに、その最初の落書きから始まるのである。文字どおり2次元平面の紙の上に書き起こしていく心の想いが、いずれその国の未来、その少年たち少女たちの未来を左右する大変な基礎を築くものになると考える。お金の問題ではない。紙や鉛筆を供給することが最も重要なのである。結果、ブルドーザーが壊れても直す人が、橋が落ちたら架け直す能力のある人が出てくる。ものごとの初めは落書きからすべて始まる。遠い昔の原始人類の、我々の遠いルーツの洞窟内の壁画やそのようなものを見ても、すべて心で感じたことを図形化しているわけである。この能力が日本人に存在したため、我々は人間という名の生物として、地球から出ていこうとする瞬間が今訪れているのである。
 何度も述べるが、心で考えたことを2次元平面の世界に具体的に図式できる能力がすべての基本だと考えている。完成したものを、あれがいいこれが悪いとか、デザインがいい悪いということは自由である。しかし、それは能力とは違う部分である。いかに独創的なものをつくるのか、そこの部分にすべて集約されると固く固く信じている。
 では、あなたの絵は何だと問われると、時々うつむかざるを得ない。私は、大酒飲みを描くことが好きで、大酒飲みだと思われている。酒は人後に落ちない。18杯ほどマオタイで乾杯しても、もう飲むのが嫌で椅子ごと倒れて死んだふりをしている人もいる中、私と相手だけは倒れずにいる。通訳まで逃亡してしまい、筆談になった。それはウォッカでもウィスキーでも同じである。我々の仕事は自由業であり、日常は監視人がいない。明日も墓もない代わりに、監視人がいないので自由である。自由だから、酒を飲みながら仕事をしても、だれも文句を言わない。
 私の友人で、完全なアル中になった人がいる。彼の青年期の心優しさが我々の胸にしみついているので、彼は彼でいいと考えている。しかし私は、仕事中は絶対に酒は飲まない。飲むときは友人たちとまとめて盛大に飲む。底抜けに飲む。そのような体質でびくともしない。自由業とはそのようなもので、いろいろ千差万別の立場があり、自分の職業だけは改めるわけにはいかない。学んでこつこつと会得していかなくてはいけない部分もあるということは百も承知している。私はこのような世界でしか生きられなかった人間である。
 名だたる天才たちの中で、自分ができることはこれしかない。できるなどとは夢にも考えていない。できるかもしれないという、万に一つの可能性に夢をかけたわけである。しかし、この夢をかけるという作業、思考形態が人類そのものなのである。若いときには特にみんなそうだと考える。年を重ねても、「まだ待て、私にできることが必ずあるはずだ」と歯を食いしばるのが人間の特質だと考える。そのときは、1に気力、2に気力、3に気力、4に気力だと。気力を維持するためにはまず食べること。食べることが体力を維持し、その体力が気力を維持する。ライオンはふろに入るのか、ワニは歯を磨くのか、ライオンはふろに入らずとも百獣の王であるのかとか言いながら、今でもそれは変わらない。臭いと言われたら、臭いがどうした、生ける印であると言う。だから、娘にも随分疎まれる。「お父さんは臭い」と言うから、「生ける印、死んだらにおいがなくなるぞ」と涼しい顔をしている。
 表面上のことが異常に強調される世の中になったため、アトピーも逆に増えた。ふけも防護皮膜であると涼しい顔しているわけである。しかし、それは一面、真理だと考える。なぜ人間の皮膚から脂が出るのか。脂が防御皮膜をつくっているからである。毎日毎日ふろに入って流すと、防御皮膜を失い、ひ弱になる。入浴は、ほどほどで十分である。
 かかりつけの先生は、入浴は1週間に一度、洗髪は3日に一度は多く1週間に一度で十分、そのようにしないとハゲると言う。カルテの最後には、「さらなる適度の飲酒を勧める」と書いてくれる。「適度の」というところが大事なのである。飲酒を勧めるおもしろい先生で、人に気力を与えてくれる。
 もう一度原点に戻ると、人は心の中で想った夢や、目的意識や、デザインを2次元表面の紙の上に書き写せるから、物がつくれる。その能力がなければ、人にも説明できず、結局は考えるだけで終わってしまう。人間は心ですべて書くわけである。その能力を与えられたことが非常に大切だと考える。だから、5本指に、自然に感謝するわけである。そして、その自然が与えてくれたこの地球を、大げさに言うと太陽系全体までを守るため、その生命体を守る役割を人間がやれと、そのための能力を宇宙は与えたと考え、わけの分からないことをしたら申し開きが立たないと考える。ゆえに、悲観的に考えずに、楽しく人類の未来をつくるべきだと考えている。
 最初、国土交通省ということで、交通機関の話をしようと考えたが、端的にそこの部分に行くだけでも疑問を感じることがたくさんある。なぜ人間が歩道橋などで2本足で苦労し、しかも、体の不自由な人までが上下しながらも、エンジン付きのものが平面を走るのか。エンジンつきのものこそ、上下左右どこでも潜って走り、人間様が悠々と平面を歩くことが、真の国土の最高の利用であると考えている。
 それから、狭い狭いと言うのならば、なぜ重層的に利用しないのか。地表、表面だけにこだわるからそのようなことになる。重層的に、大深度地下まで利用して生活圏や交通機関のエリアにしてもいい。ただし、溶岩が出てくる場所、災害が起こる場所、地下を開発することでそこの自然環境を根底から破壊する場所は避けなければならない。それはそれぞれの専門家の役割だと考える。とにかく人間は2本足で歩く動物で、体力には限界があり、エンジン付きのものが上がろうと下がろうと、一番楽な移動手段を2足歩行でできることが基本である。歩道橋を見ても、地下道を見ても、なぜそこの概念が変えられないのか、不思議な気がする。何百年経ても変わらないのでは仕方がない。
 私は、歩道橋反対人間である。歩道橋を100個つくるのなら、人間が平面で歩ける1個の立体交差をつくれと考える。何百年後にはすべてがそうなるだろう。短絡的に目前のものを安上がりにつくるという考えは、間違いだと固く信じている。長い国家何百年の大計のもとに、そのようなものをデザイン化し、設計図を引いた上で、この国土を有効に利用していくことが一番良いと考える。
 私の名前「零士」とは、無限大の終わりなき侍という意味である。話を続けると、5時間ぐらい話すことになる。これ以上続けると、大変なことを口滑らせて、とんでもないことになるので、この辺で終わりにしたい。どうもたわごとめいていて、申しわけない。私は2次元平面上に営々と絵を書き続けていく。生涯死ぬまでやめない。それは私の夢であり、信念である。


ページ 1 2 3 4 5 6 7