歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会 -日本文学に見る河川-
|
歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会 -日本文学に見る河川- 第五回議事録
|
平成14年6月7日(金)
日時:14:00〜17:00 場所:中央合同庁舎3号館4階特別会議室 |
3.懇談(1) |
|
○委員長 | |
どうも大変ありがとうございました。非常に内容の充実したお話でございました。赤坂さん御自身で歩いて、戸沢村を中心として最上川流域に残されていた昔からの伝承、信仰、それをめぐるワタリ、タイシたちの暮らしということが浮かび上がってきました。どうぞ、御質問、御意見をお出しください。 |
|
○委員 | |
戸沢村のところは、最上川の関係でいくと、少し厳しい場所ですね。今いろんな産業のお話をされましたが、その中で鉱山、鉱物とのかかわりは先生の話の中に組み入れられるものがあるんでしょうか。例えば、最上川の水をとるのが非常に不便なところなものですから、どうしても沢水を持ってくるか、別のところから水を持ってきて、田んぼをつくったり何かするんですが、そのときに、比較的新しい地質なものですから、竹の先を細くして掘るとどんどん掘れていくんです。そういう技術をマンボとこの地域では呼んでいる。そのマンボの技術は鉱山技術から出てきたというふうに鉱山誌の方には書いてあるんです。川で生きるには大変難しい場所だけに、そのことと渡し、物を運ぶということが。最上川というと、米とか紅花とかそういうものに行ってしまうんですが、戸沢村の付近というのは何かそういうことがないのかなと。その鉱山技術をやっていた人たちの中に、たしか、「ひわたし」という姓の人が随分いる。これは桶という字に渡すなんですね。何かその辺の関係があるかなと思って。これは用水路なんかの懸樋の樋という字、渡すことを懸樋というんですが、そんなことをふと思いついて質問して申しわけないんですが、もし何かお考えいただければ。 |
|
○赤坂委員 | |
先ほどの小外川の加藤さんは立川町から来ているんです。立川町の立谷沢川沿いのある村から来ているんです。それはちょっと確認してなかったんですけれども、実はその立谷沢川という川の最も上流に、砂金掘り、カネ掘りをしていた村があります。上瀬場、瀬場村というんですけれども、最上流の瀬場のあたりではかつて砂金掘りをしていまして、その先祖は新潟の方から移ってきたとあったと思います。そして徳川家康の許可状を持ち伝えているという伝承も、もう少し正確には読んでいただければいいんですけれども、出てきます。そのカネ掘りの技術もいろいろ僕はお聞きしたんですが、小外川に関してはないと思います。小外川の背後の山、そのさらにもっと奥の方の山には鉱山があるんですけれども、多分それとの直接的な関係はないと思います。 ただ、この村の始まりがいつなのかということも含めて、多分こういう瀬場の砂金掘りの村とか、川沿いの川の民の村とか、いわば井上鋭夫さんが「山の民・川の民」というふうに呼んだ人たちが、中世の末期あたり、かなりこの最上川沿いの河川流域にもいろいろ動いてきて、少しずつ定着して、さまざまな歴史をつくっていったんじゃないかということぐらいは想像できるかなと思っております。 |
|
○委員 | |
実はその付近は1966年に大きな水が出まして、あの辺一帯は非常にひどかったんです。その調査をしているときに、例えば戸沢村古口なんかは、今は最上川の舟下りなんかやっていますが、そういうところの柱に、何年というのをやっているんですが、かなり古い400〜500年という傷が入れてあるんです。恐らく日本で柱の傷を入れて洪水をあらわしているのは、そこが一番古いかなというふうに感じました。今言われたような立谷沢川の砂金とりは、運ぶときに雪解け水を使ったという話が出ております。そうすると、少し遠いところの鉱山の方も何かあるのかなと。ただ、対岸の鳥海山の方には余りないですね。 |
|
○委員 | |
さっき赤坂さんが、井上鋭夫さんの「山の民・川の民」を引用なさったときに、その中に、中世、近世の修験者に同行して一緒に金山掘り、鉱山掘りをやった男たちがいて、やがて修験道がすたれるとその人たちが川端におりてきて川の民になったんだというけれども、山から川におりた後は、もう山はいないわけですか。 |
|
○赤坂委員 | |
いや、そんなことはないです。大体山の民と川の民というのは一緒です。山仕事、狩猟をやったり山菜、キノコ、木の実をとる名人は、大体川漁の名人でもあるということです。 |
|
○委員 | |
そういうときは川と山が本当にくっついているわけですね。すぐ山なんですね。 |
|
○赤坂委員 | |
僕が5、6年前にずっと歩いたんですけれども、川の民の姿というものはほとんどないんです。川と人間というのは本当に切れてしまっているんです。でも、かろうじて聞き書きの消えていく薄闇の中で、川の民が出てくるんですよ。例えば、サケの大助という有名な伝承があるんです。大きなサケが上ってくるときには、みんなでドンチャン騒ぎしてその声を聞かないようにする。「サケの大助、今上る」という声を聞かないようにするという伝承があります。「サケの大助、今上る」と叫びながらサケが上ってくるらしいんですよ。その伝承というのが非常にダイナミックなんです。山で牛をワシにさらわれたので、ある男が毛皮をまとってワシをつかまえてやろうと思って待っていると、来て持ち上げられてずっと連れて行かれるとその先が佐渡であったりとか、玄界灘であったりとか、海のかなたなんです。そこからサケの大助の背中に乗って、やっと村に戻ってくるという伝承があるんです。今の話はいいかげんですけれども、山と川と海をつなぐ非常にダイナミックな話で、恐らくサケが上流で産卵して、産まれて、海に行って、また帰ってきます。それをサケの大助伝承がたどっているんだと思うんです。そういう伝承を伝えていた人たちの姿がかろうじて見えるんですけれども、どうも川の民なんですよ。今は川の民なんて全く姿がわからなくなっていますから、伝承としてしか研究されていません。 |
|
○委員 | |
何でサケの大助が上ってくるときに、その声を聞かないようにするんですか。 |
|
○赤坂委員 | |
それは、産卵するサケを全部とってしまったら資源の保護にならないわけです。だから、ある時期はヤナをあけて、そこを上って行くサケを全部通す。そういうサケ漁の知恵とかわざが伝承に託されているという側面があります。 |
|
○委員 | |
サケの大助という名は伝承ではしょっちゅう出てくるんですね。文学の方ですとギョチョウヘイケといいますか、大変滑稽な動物の世界を人間のあれに映した室町時代の物語りで、サケの大助がたしか出てくると思うんですけど、そういう呼び名なんかも、遠くそういう伝承と無関係ではないのかもしれませんね。 それから、今渡しのことを伺ってふと思いましたのは、中世の説話文学の伝承で、ゲンピン僧都が渡し守になったという話があります。奈良時代の高僧で、ゲンピンは非常に朝廷から重じられるんですけど、名利を嫌って、朝廷から僧都か何か叙せられそうになるのを嫌って逃げて、それで渡し守になったという話があります。何かもともと宗教にかかわっている人たちが、そういう渡しなんかになっていくんですかね。それから、センジュショウなんかにも、やはり世捨て人が名利を嫌って、寺院から行く方をくらまして船頭になるというような話がありますね。ですから、実際のこういう民俗をある程度反映しているのかなと思いながら伺っていました。 |
|
○委員 | |
世捨て人になって船頭というか渡し守になるというのは、その因果関係は何かあるんでしょうか。 |
|
○委員 | |
僧侶というのは彼岸から彼岸に渡すということで、渡し守というのは非常に罪のない仕事というのか、むしろ人を救う仕事だというような説明をしておりますね。 |
|
○委員 | |
河川法改正が平成9年になされたわけですが、その折、「河川環境」という言葉を考えたときに、人と川とのつながり、かかわりみたいなものをずっとイメージしておったんですけれども、まさに渡し守といいますか、そこがある意味で一つ原点かなという思いでずっと聞かせていただきました。 先般、白神山地のマタギの方とお話をしていましたら、マタギというのはズドーンの方の猟師と見られていますが、川の魚釣りの漁師の面と両方持っているそうです。山の民・川の民というのはどういう定義で使うのか私はよくわかりませんが、確かにズドーンと撃つ方も余り確率がありませんから、川の方の漁と一緒でないと生活が成り立たないんだというふうに話をされておりまして、もともとズドーンの方のベースには川の民といいますか、そちらに生活の基盤を置いて、こちらの方はある意味では上がりみたいなところがあるという感じで私は受けとめています。 |
|
○赤坂委員 | |
僕は山の民・川の民、今出てきている話でも、かなり系統がいろいろあると思うんです。秋田のマタギとか狩人たちは、あの地方に既に定住している人たちで、その人たちが、秋田の阿仁マタギなんかはそうなんですが、旅マタギでどんどん移動して、その移動した村々で技術を教えて定着したりとか広がっていますけれども、今のこの話に出てきたタイシ系の人たちは、南の方から北に上がって行っているという感じです。全然感触が違うんですよ。 |
|
○委員 | |
この渡し、タイシの人たちは最上川の舟運には携わらないんですか。米を運んだり魚を運んだり。 |
|
○赤坂委員 | |
かつてはかかわっていたと思います。渡ししか結局残らなかったんです。だから、最上川舟運は、近代になって鉄道、道路網、交通網ができると一気に没落していきます。近代の中では、アタゴを運ぶという形が最後まで、戦後間もなくまで残ったんです。それが終わってしまう。そうすると舟運がなくなってしまうし、川漁と言っても川魚は余り需要がなくなってくるし、見えになくなっていったんだと思います。 |
|
○委員 | |
そういう渡しが始まったのはいつごろなんですか。ずっと昔は、多分最上川ぐらいの川だと長い間渡れなかったわけですね。始まったのはいつごろなんですか。というのは、謡曲では三井寺なんかでも渡しが出てきますね。近世に入ると、落語にしても浪曲にしても、よく渡しのところの情景が出ていますが、古いところはどの辺ぐらいまでさかのぼるんですか。 |
|
○委員 | |
それはもう古代からです。「古事記」応神天皇の巻のウヂノワキイラツコの話に船頭が出てきますから、古代と言ってもいいですね。 |
|
○委員 | |
最上川の渡しも、本当に舟をこぐだけですか。鉄条が渡してあって、それに金輪を引っかけてグーッと行くとか。 | |
○赤坂委員 | |
いろんなスタイルがあるんです。上流の方まで一たん行って、そこからくさび形におりてくる。流れが強過ぎれば、ワイヤーを渡してそれに引っかけて行くとか、いろんな形があったみたいです。事故があるたび安全に安全にということで、最後がワイヤー形式だったんだと思います。 |
|
○委員 | |
船乗り、船頭、魚をとる漁師、昔から非常に文学に好まれますね。農民というのはなかなか文学に出てこない。おもしろくない。漁師というのは格好がいいんです。自由度が高い。昔は漁師というのは、漁夫の何とかの詩がありましたね。屈原ね。それから、禅画の墨絵の中にも、カンコウトクチョウズですか、寒い川で、木の葉のような舟を浮かべて漁師が魚を釣っている。それは有名なバリンかなんかの絵になっている。それから、陶淵明の「桃花源記」の中で、桃源郷を発見するのは漁師だしね。要するに行動が自由で、行動範囲が広くて。農民というのは、一つの村に生まれたら、もう一生その村から出ることはない。一生に1回ぐらい、どこか隣町に行ったことがあるというようなことで。それから、薬草とりは山の中に入って行って自由に自分のプランで動く。そういう人が桃源郷を発見する。農民とか、教師とか、お役人には絶対桃源郷は発見できない。それは陶淵明がはっきり書いているんです。非常におもしろいと思うんです。 |
|
○委員 | |
日本文学で王朝から中世ぐらいですと、やはり農民の方が多いと思うんです。農耕の年中行事が多いと思うんです。もっとも漁夫、ショウシャというのは対句的に、これは中国文学の影響だと思うんですが、中世ぐらいになると両方がよく出てきます。 |
○委員 |
タイシという呼び名が、もし太子信仰との関係でということであるならば、きょう先生からお話があったのは山形、新潟のお話でしたが、日本海側をさらにさかのぼって、秋田、青森でもその呼び名というのは発見できる可能性はあるのでしょうか。 |
○赤坂委員 |
どうでしょうね。あるとしたら秋田の雄物川沿いあたりの舟運にかかわって、あそこあたりが限界だと思います。 |
○委員 |
僕が子供のころ、今でもあるかもしれないけれども、おだいしさまという太子堂があちこちありました。いつだか、ちゃんとお祭りもあって。何の太子か全然知らないけど、おだいしさんと言って。山形市内の三日町を東の方に上って行って突き当たりのところ。今もまだお社がありますよ。 |
○赤坂委員 |
それは職人の方だと思うんです。大工とか職人が太子信仰を持つ。 |
○委員 |
川の民は、この辺は羽黒山に近いわけだから修験道とつながる。つながらない。 |
○赤坂委員 |
どうでしょうね。つながると思いますけれども。 |
○委員 |
羽黒山を開いたのは聖徳太子ではないけど、別な太子でしたね。こうやると、いろいろ日本史でわからないことがいっぱいあるんですね。 |
○委員長 |
まだいろいろ御質問が次々に出てきそうですが、時間の都合もありますので、今度は事務局の方で研究いたしました、「全国一級水系の和歌と祭り」という報告を伺うことにいたします。 |
|