| 歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会 -日本文学に見る河川- | ||||||
歴史・風土に根ざした郷土の川 -最上川・渡し舟の民俗-
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| 最上川−渡し舟の民俗 | ||||||
| 赤坂 憲雄 | ||||||
| ・最上川沿いの村々の聞き書きのなかで | ||||||
| ・最後の渡し場 ― 大蔵村、稲沢の渡し | ||||||
| 船頭さんの聞き書きから | ||||||
| 「舟越で、一代、喰(か)せてもらったな」 | ||||||
| 船頭/舟越(ふなこし)・舟渡(ふなど)・タイスと呼ばれた | ||||||
| 渡し賃を取る、対岸の部落から年に一、二俵の米をもらう、 | ||||||
| 古くからの慣行として、秋廻り・正月廻り | ||||||
| ・橋のない時代―戸沢村金打坊にて | ||||||
| 最上川と鮭川に囲まれた、川との関わりが深い、戸数十七戸の部落 | ||||||
| 舟渡の聞き書きから | ||||||
| 河岸のタイシ小屋、渡し舟をこぐ人をタイシと呼んだ、昔から、部落全体の回り番、 | ||||||
| ・タイシと呼ばれた船頭―最上川中流域の村々 | ||||||
| 専門の船頭を雇う場合/部落の全戸が回り番で船頭役をつとめる場合 | ||||||
| タイシ役は世襲ではない、田畑の少ない、貧しい家が専業として選ぶ、 | ||||||
| 差別の影がない、なぜ、渡し場の船頭がタイシと呼ばれてきたのか | ||||||
| ・ワタリ・タイシと呼ばれた人々 | ||||||
| 近世から明治期にかけて、新潟の荒川・三面川の流域地方、 | ||||||
| ワタリ/舟をあやつり、交易や物資の輸送にしたがった | ||||||
| タイシ/太子信仰を奉じ、近世には 箕作り・塩木流し・筏流しなどを業とした | ||||||
| →農地を持たず、河川や海のほとりの舟着き場や湊などに住み着いた川の民、 | ||||||
| 農民たちから卑賤視され差別をこうむった | ||||||
| ・集団離村の果てに消えた部落―戸沢村小外川にて | ||||||
| ・川の民のかすかな記憶をもとめて | ||||||
| 『新庄古老覚書』に見える伝承、川舟の遭難救助のための「助け屋敷」 | ||||||
| 仙人堂を中心とする各所図絵 | ||||||
| 仙人堂と隣接する小外川、外川の人々が仙人堂を守ってきた | ||||||
| 「羽州外川山虫除仙人大権現」「仙人様のお姿」の掛け軸、 | ||||||
| 仙人堂/近世には、修験道の霊場であった | ||||||
| 小外川の河岸に、「太鼓堂」が見える | ||||||
| ・「助け屋敷」の伝承、修験との深い関わり、太子信仰の影 | ||||||
| 小外川の川の民の村としての歴史が浮かびあがる | ||||||
| かつて、最上川の中流域の村々にも、タイシと呼ばれた人々がいた…… | ||||||