水管理・国土保全

  

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留萌川の歴史

交易のはじまり
 留萌川の歴史は松前藩が江戸時代(慶長年間)よりアイヌの人々との交易の場「知行地」を置いたことに始まり、明治時代以降、産業の中心として留萌港が発展を遂げるなか、留萌港に注いでいた留萌川は陸上交通の未整備であった内陸部への物資の輸送路として利用され、留萌の発展に大いに寄与してきました。

 留萌川の名前は、この川が大きく蛇行し水の流れが緩やかだったため、潮が上流奥深くまで遡っていたという昔の姿をアイヌ語で表した「ルルモッペ」(潮が静かに入る川)に由来します。


天塩州(上)留萌 距箱館110里16町/目賀田帯刀


開拓期の役割
 留萌川は明治43年に鉄道が開通するまでの間は重要な交通、輸送手段でした。明治29年には農業団体の入植が始まり、同30年代には炭鉱が開坑され、留萌港に入る蒸気船の燃料として供給されましたが、本格的に炭鉱経営が始まると、留萌港への石炭輸送は占用の馬車引き軌道に変わっていきました。


大和田炭鉱石炭積出し



留萌の発展
 その後、鉄道開通による物資輸送が盛んとなり、留萌港の機能拡充のため、下流市街部を大蛇行して流れていた留萌川は、現在の新水路に切り替えられました。
 留萌川の切替えにより、港周辺の市街地整備は進み、流域住民の生活や文化に与えた影響はもとより、留萌市が北海道北西部の中核都市としての位置づけを確立させ、周辺圏域の歴史、産業、経済等に大きく影響を与えました。


大正初期の留萌川河口部


現在の留萌川河口部

現在の留萌
 留萌市は小樽と稚内を結ぶ観光ルート「日本海オロロンライン」の中心部に位置し、西には日本海、南北には暑寒別天売焼尻国定公園が連なる風光明媚なまちで、河口近くには、かつてニシンの群れが夕陽を浴びて黄金色に輝きながら押し寄せたという黄金岬があり、ます。留萌川流域では、中上流部では食味の良い低タンパク米の割合が高い稲作などが営まれており、下流部では全国一の生産高であるカズノコをはじめとする水産加工などが盛んです。また、河口には留萌港が位置し、道北エリアの需要を支える石油製品等の流通、備蓄基地が併設されています。


黄金岬付近での夕陽


河口部の油槽所




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