水管理・国土保全

  

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高瀬川の歴史

高瀬川と小川原湖の成り立ち

高瀬川の河川名の由来は、小川原湖の水が海に注ぐ浅い水路という意味の「タカセ」であると言われています。
 小川原湖とは、高瀬川河口から約6㎞に位置する湖で、その湖の成り立ちは、約3千年前頃と言われており、入江が海面低下と海岸の砂丘・砂州の発達により形成された海跡湖です。このため、三内丸山遺跡以前の縄文遺跡の中では、湖周辺には多くの貝塚が存在していることからみて、本湖が太古より人々の暮らしを支える存在であったことが窺えます。
 小川原湖の名称の由来は、アイヌ語で言われる「廻り回る」という意味の「オカラ」「オカリ」「オカルル」から「オカラ」となり、その後「小川原」「小河原」の文字が当てられ小川原湖と呼ばれたと言われています。※広辞苑では[回す=廻す]・・広く行き渡る[回る=廻る]・・働く、自由になる、行き渡る、利息がうまれる、利益になるなどの意味があります。


現在の小川原湖


約5千年前の小川原湖



高瀬川の改修
高瀬川放水路の開削
高瀬川水系の治水事業は、昭和7年に青森県が高瀬川(七戸川)、坪川及び赤川の改修を実施したことに始まります。
 高瀬川の河口は、偏東風や高潮の影響により閉塞しやすいため、改修着手以前から地域住民による浚渫が毎年のように行われてきました。しかし、戦後、高瀬川右岸の天ヶ森に米軍の射爆撃場が設置され規制区域になったことから、住民による維持作業が不可能となりました。昭和33年9月の台風による洪水では、河口閉塞の影響と相まって、小川原湖の湖水位がT.P.+2.79mまで上昇し、甚大な被害が発生しました。
 この洪水を契機に青森県による治水計画の改定が行われ、放水路を開削して分流する計画が立てられました。この放水路の開削工事は、青森県によって昭和37年に着工し、昭和52年度に完成しました。


高瀬川放水路


米軍規制区域




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