近代になって陸上交通網が整備されるまで、渡良瀬川の舟運は、大切な物資の輸送手段でした。
江戸時代においては、年貢米の輸送などを目的として河川改修工事と合わせて舟運網の整備が進められ、江戸時代中期には、整備された河岸は、16箇所にのぼり流域各地から、米や薪炭・木材、葛生方面から石炭、桐生・足利の織物などを江戸方面へ運搬していました。
明治に入ると、佐野越名河岸と両国との間に蒸気船「通運丸」が就航し、旅客輸送が本格化し、鉄道が整備されるまでの間、両毛地区(桐生・足利・佐野・栃木)から東京へ向かう客の足として活躍しました。
また、当時、足尾鉱毒の被害を訴えた田中正造も東京に向かうために利用したという話も残っています。