水管理・国土保全

  

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渡良瀬川の歴史

①渡良瀬川の歴史
近代になって陸上交通網が整備されるまで、渡良瀬川の舟運は、大切な物資の輸送手段でした。
 江戸時代においては、年貢米の輸送などを目的として河川改修工事と合わせて舟運網の整備が進められ、江戸時代中期には、整備された河岸は、16箇所にのぼり流域各地から、米や薪炭・木材、葛生方面から石炭、桐生・足利の織物などを江戸方面へ運搬していました。
 明治に入ると、佐野越名河岸と両国との間に蒸気船「通運丸」が就航し、旅客輸送が本格化し、鉄道が整備されるまでの間、両毛地区(桐生・足利・佐野・栃木)から東京へ向かう客の足として活躍しました。
 また、当時、足尾鉱毒の被害を訴えた田中正造も東京に向かうために利用したという話も残っています。




通運丸(明治時代の錦絵)



②織物の町 桐生・足利 を支えた渡良瀬川の水
桐生は、江戸時代「西の西陣」・「東の桐生」と並び称される織物の町として有名なところです。また、足利の織物は、鎌倉時代にかかれた随筆「徒然草」にも出てくるほどの古くからある地場産業です。
 織物は、渡良瀬川の豊富な水を利用し染めた糸や布を洗い、織物を仕上げるというのが大きな特徴であり、渡良瀬川は、近年まで地域の基幹産業を支えてきました。
 なお、近年では、化学染料の発達及び機械化により、観光用としての『友禅流し』を残すのみとなりました。



友禅流しの様子







③ 岩井分水路の建設
渡良瀬川は、栃木県足利市の岩井山付近では、山を回り込む形で流れています。
 この地区は、古くから洪水の被害を受けてきたため、岩井山を削って川の流れを変えようとする計画が持ち上がりました。しかし、1947(昭和22)年のカスリーン台風による岩井地区の堤防決壊によって、その計画は見直され、洪水時には、川の水を二手に分けて流せるように、岩井地区の北側に、分水路を作ることになったのです。
 1967(昭和42)年、この岩井分水路は完成しました。


昭和36年の渡良瀬川の状況


岩井分水路完成後の渡良瀬川





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