水管理・国土保全

  

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阿賀野川の歴史

阿賀野川特有の歴史、先人の知恵の活用
藩政時代の阿賀野川
今から約280年前(江戸時代中期)の阿賀野川は、河口部より西に折れて信濃川と合流して日本海に注いでいましたが、新発田藩の水田開発を目的とした放水路の開削により、現在の阿賀野川の河口が形成されました。
 開削当時は洪水防御と水田排水が目的でしたが、翌年の融雪洪水で堰が破壊され、放水路が阿賀野川の本流になってしまいました。
 結果として阿賀野川下流域は水田地帯として栄えることとなり、鉄道や道路交通が発達していなかった江戸~明治時代には、新潟港から会津方面への物資の輸送路として舟運が大きな役割を果たしてきました。また、長さ23mの大揚川船(おおあがわぶね)と呼ばれる帆船が阿賀野川を往来して活躍しました。


藩政時代の阿賀野川


大揚川船 (木村清氏所蔵)


明治以降の阿賀野川改修
明治16年~18年(1883年~1885年)に小規模の補強工事等が実施されましたが、阿賀野川のその後も幾度となく洪水に見舞われました。
 特に大正2年の木津切れの大洪水は、亀田郷一帯(新潟市付近の低平地)を水の底に沈める被害となりました。その木津切れが本格的な改修の契機となり、第一期改修(大正4年(1915年)~昭和8年(1933年))、戦後の第二期改修(昭和22年(1947年)~現在)と河道の整正・築堤・護岸など本格的な工事に着手し、現在に至っています。
 新潟平野は阿賀野川等の河川が氾濫してできた堆積平野であり、現在の美田は、かつて多くの人々が水害とたたかい築き上げてきたものです。


木津切れの被害等の様子(現新潟市江南区横越)


第一期改修時の満願寺地内の工事風景


伝統工法の〝粗朶沈床工〟(そだちんしょうこう)
阿賀野川では、明治初期オランダ人技師より伝えられた粗朶(里山の雑木から伐採した木の枝)を利用した伝統工法が今でも受け継がれています。
 地域で調達可能な素材を活かした伝統工法は様々な水生生物や魚類などの生息空間をつくり出しています。


粗朶沈床工 (組立状況)


粗朶沈床工 (据付状況)



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