水管理・国土保全

  

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阿賀川の歴史

暴れ川 阿賀川

会津の歴史を知る最も古い資料によれば、応永25年(1418年)の阿賀川の流路は現在の宮川(鶴沼川)であったことがわかります。
 その後、約100年後の記録、天文5年(1536年)では、阿賀川の流路は、現在の流路に近いものになっています。このように阿賀川は、この地に肥沃な土と豊富な水をもたらす一方で大出水の度に流路を変え、氾濫し、縦横無尽に暴れて沿川の人間を悩ませてきました。


縦横無尽に流れる阿賀川(左:応永25年 右:天文5年)




山崎新湖

慶長16年(1611年)に、現在の喜多方市山崎地先で起こった大地震により山崩れが発生し、完全に本川を堰き止めてしまい、その時できた湖を「山崎新湖」と呼んでいます。
 その大きさは、東西35町、南北20町余、水没した村12村であったと記録されています。その後水抜きのための水路工事もおこなっていましたが、大洪水が発生したりして50年くらいは湖が存在したと言われています。


山崎新湖だった箇所の現在の姿


山崎新湖推定図



川除け普請

阿賀川は、縦横無尽に暴れて沿川の人間を悩ませてきました。このため、古くからいろいろな治水工事(川除け普請)や制度(福祉政策)がおこなわれてきました。江戸時代には「川干し」という大工事、「山崎湖の水抜き普請」、「島田覚右衛門による大川普請」、「藤森十左衛門の災害復旧工事」など「川除け普請」がおこなわれてきました。しかし、川除け普請は、農民の負担も大きいことから、会津藩の藩主、保科正之は農民救済を目的とし、「社倉米」という制度を設けました。
 そのような中で、蛇篭出しに使用する竹の代わりに葡萄ヅルを用いる工法など、地域の特性にあった工法なども生まれました。中央で技術の成功をみて、会津には「蛇篭出し」に使用する竹が少ないため、地元でとれる葡萄ヅルを用い河川工事費の削減を図ったことが伝えられています。このように地域の特性、川の性格を巧みに活かした技術は、現代の阿賀川でも環境面という評価を加え、地域で調達可能な天然素材を使用した木工沈床等の伝統的工法を採用しています。


- 蛇  籠 -
(出展:「日本の水制」平成7年 山本晃一)




モノと文化を運んだ阿賀川

江戸時代~明治初期までの間、阿賀川では豊富な水を利用して舟運が発達していました。下流の新潟そして大阪までの舟運航路があり、行きの会津からは米や薪炭、麻苧(あおさ)を運び、帰りに塩を中心に綿布、古手細物、太物、海産物等生活必需品を運んできたといわれています。
 会津では鰊の山椒付けやボウタラが有名ですが、内陸部の会津がこのような海産物が有名になっているのは、阿賀川の舟運のおかげかもしれません。また、舟運により江戸や大坂、京都等の文化も運ばれてきたといわれています。


明治の頃の阿賀川舟運













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