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信濃川の歴史
信濃川の舟運と今も残る先人が築いた堤防
明治時代まで続いた信濃川の舟運
水量の豊かな信濃川を利用し、藩内の株仲間で組織されたのが長岡船道です。水運の実権を握り、年貢や一般商品の輸送・保管で利益をあげました。
江戸時代の大名である堀直奇は、信濃川を往来する船の荷物を取り扱わせる定法をつくり、その後長岡藩主の牧野氏はさらに番所を設置しました。上り下りの荷物は全部船着場に止めて積替えを行い、新潟へ魚沼地方へと運びました。
水運の特権を握っていた長岡船道は慶応3年(1866年)に廃止されました。その後明治になって川蒸気と呼ばれた汽船が長岡・新潟を活躍しました。白帆に風をはらませた姿は信濃川の風物詩でした。
呉服町河戸の荷揚げの様子
今も残る先人が築いた堤防 左近堤
俗に「左近の土手」と呼ばれるのは江戸時代の名残りをとどめる堤防の一部です。
信濃川の右岸に発達した長岡の城下町は、築堤が不十分で毎年のように洪水に襲われました。寛保3年(1743年)には浸水から人々を救うために用心船を試みましたが、決壊の防止が第一と考え、洪水がもっとも激しく当たる場所に「左近堤」を築きました。
寛延元年(1748年)、2万人を超す労力を投入した大規模工事は、雪消えから半年足らずの9月22日に完成しました。喜びに湧いた人々は新しい提防を踏み固めながら長岡甚句を唄い踊ったといわれています。
近代になって本格的な護岸堤防ができるまで、左近堤は人々の生命と財産を守り続けました。
左近堤(写真左の大きな木の下の提防、現在残っているのはこの附近のみ )
横田切れ
大河津分水建設の契機となった大水害
越後平野は、3年に1回は水害が発生したと言われる洪水の常襲地でした。この中でも、世に広く知られているのが明治29年(1896年)の「横田切れ」です。7月22日の午前7時、濁流は堤防を崩し、西蒲原郡一帯を洗い流して水田1万8000haが泥海と化しました。
このときの惨状を後世に伝えているのが「横田切れくどき」と「横田切れ絵」です。現地を訪れた清浦奎吾内務大臣は、信濃川を見て「中国の揚子江だ」と言って驚嘆したといわれています。
「横田切れ絵」の一部(長岡市下田氏所蔵)
横田破堤の跡
大河津分水路
越後平野発展の礎
大河津分水路は、新潟県のほぼ中央部で信濃川が日本海に最も近づく地点の燕市大川津から長岡市寺泊海岸までの全長約10㎞を繋いだ人工水路です。大正11年の大河津分水路通水後、信濃川の洪水を日本海へ流し、日本有数の穀倉地帯である越後平野を水害から守る重要な役割を担ってきました。
また、大河津分水路より上流側に位置する信濃川(中流部)や千曲川をはじめ、信濃川水系全体の洪水処理能力を向上させるため、最下流に位置する大河津分水路の改修に平成27年度より着手しています。大河津分水路の改修にあたっては、課題となっている洪水処理能力不足や河床洗掘等の対策として河口山地部掘削、低水路拡幅、第二床固の改築などを進めていきます。
大河津分水路
妙見堰
様々な役割を持つ"要所"
妙見の津留番所は江戸時代に江戸往来の宿場、信濃川を往来する船の監視場所が置かれ、交通の要所として重要な役割を果たしました。妙見堰の完成とあわせて番所跡も復元されました。戊辰戦争の時に西軍が信濃川を渡ったのもこの辺りです。
妙見堰は平成2年3月に完成した堰長524m、主ゲートが7門の施設であり、信濃川の河床安定、福島江用水・長岡市上水の取水位の保持、JRの発電放流等による水位流量の変化の調整、国道17号バイパス橋としてなど様々な役割を担っています。
妙見堰
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