水管理・国土保全

  

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櫛田川の歴史

櫛田川の歴史
櫛田川は、奈良時代初期に採掘された丹生水銀や木材の水運・舟運などさまざまな利用が古来より行われ、両郡橋付近には松阪商人の発祥の地である射和商人の古い町並みが残り、櫛田川の清流と調和した独特の雰囲気をかもしだしています。櫛田川の歴史をしのばせるものとしては、祓川沿川の国指定史跡である斎宮跡、神山神宮の遷宮、射和と相可の間にあった「相可の渡し場」跡などがあります。

櫛田川の名の由来は、皇女「倭姫命」が第11代垂仁天皇の命を受け、皇祖神「天照大神」の鎮座地を求めて諸国を巡行されていたとき、命が「竹田の国」と呼んでいた地で頭に飾していた櫛を落とされたので、その地に櫛田神社を定め、櫛田という地名もそこから起こったとされます。また、曲がっていることをクシ、クネと呼ぶことから名付けられたとも言われています。


相可の渡し



櫛田川の歴史
櫛田川は、多雨地帯を流れる河川であり古来より幾多の大洪水に見舞われ、下流部沖積平野における河道は一定していませんでした。現在、見られる河道は平安時代以降に形成されたと言われており、河道変遷の一説として、永保2年(1082年)の地震や大洪水により、現在の櫛田可動堰付近より下流にあった水田や村落が押し流されて現在の櫛田川の河道が形成され、それまで本川であった祓川が派川となったと伝えられています。その後も櫛田川下流部は幾多の水害を受けたにも関わらず、この下流部平野一帯は美田が多いため沿岸住民の定着心は強く、住居の地上げ、輪中堤等により洪水防御を行ってきました。また、江戸時代初期にはこの地を納めていた藤堂藩によって治水、用水、新田開発などの政策が行われましたが、小規模であったためその効果は上がりませんでした。本格的な治水事業は、昭和7年に三重県によって着手されました。櫛田川の水は、古くから農業用水として利用され水田の開拓に寄与してきました。特に、江戸時代後期に完成した立梅用水は、当時の荒地を潤し、新田の開発が行われました。


櫛田川の河道の変遷



人柱伝説
櫛田川魚見上流(通称中山)付近は湾曲が甚だしく、水勢をまともに受けることで、決壊が多発したため人柱を設置すると堤防決壊を防げるという伝説を基に、藤八翁は1822年、人柱として生き埋めにされた。
それから水害も無くなり、藤八翁を郷土魚見の守護神として崇めた。

1933年の櫛田川大改修において、中山堤防から人骨と鉦が発掘され、人柱は事実として実証される。
生き埋めの準備として、棺桶に食料と鉦、撞木を用意した。3日後に鉦の音が停止したと伝えられている。

人柱の言い出しは藤八翁自身であり、くじ引きを行ったところ、本人が人柱くじを引き当てたと伝えられている。



人柱伝説イメージ図





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