水管理・国土保全

  

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九頭竜川の歴史

みのり豊かな九頭竜川

九頭竜川流域は、本州日本海側のほぼ中央にあり、福井県嶺北地方に位置しています。流域の主流である九頭竜川は幹川流路延長116kmを有し、北陸地方屈指の大河川であるとともに、この地域を代表する「母なる川」として古くから人々の生活と密接な関わりを持ち親しまれてきました。

九頭竜川がもたらす、みのり豊かな自然環境の中で生活していた古代人の足跡は、出土した縄文・弥生時代の土器や石器あるいはそして古墳など様々な遺跡として、今に伝えられています。珍しいものとしては、昭和57年に勝山市北谷町杉山の手取層群で、約1億2千年前の恐竜化石が発見されたことが挙げられます。この地は大和や京の都に近く、北陸の玄関口であったため、都の影響を受けつつも、風土に調和した文化を育み、人を育て、歴史を刻んできました。



恐竜の足跡の化石(勝山市)


曹洞宗大本山永平寺(永平寺町)



川にまつわる文化

また、九頭竜川は交通路としても利用され、山間部の物資が下流部、さらには河口の三国湊に集積されて東北や蝦夷(北海道)、あるいは大阪などにも運ばれました。一方、東北や蝦夷、大阪などから物資が三国湊に集まり、川を上って方々の越前の里へと運ばれました。こうして、流域の町や村は川を軸に深い結びつきを持つようになり、遠くの地域とも関わりを持ち文化の交流もなされるようになっていきました。

そして、流域からは娘時代を武生で過ごした紫式部などを輩出する一方、近松門左衛門や松尾芭蕉など多くの文人・歌人がこの地を訪れ、この地方の文化を全国に広めていったのです。
このように、流域内には九頭竜川、日野川、足羽川の三大河川をはじめとする各河川と人々との関わりを示す歴史、文化などが、様々な形態で川にまつわる文化遺産として残されています。


紫式部の像(武生市)


近松門左衛門の碑(鯖江市)



継体天皇の治水伝説

継体天皇が越前の国に住み男大迹王と呼ばれていた頃は、現在の福井平野が大きな湖沼であって、そこへ九頭竜川、日野川、足羽川が注いでいました。
大昔は、それらの河川の川底が深く、人が住む土地は高かったが、いつの間にか上流から運ばれてきた土砂によって川底が上がり、洪水のたびに水害に見舞われていました。そこで、男大迹王は朝命によって三国において河口を切り開き、大湖沼の水を日本海へ流出させ、その跡地を一大田園と化すとともに、澪筋を定めて舟運や灌漑の便を図ったと伝えられています。

福井市内を見下ろせる足羽山頂には、継体天皇の徳を偲んで足羽神社が造営されており、三頭身の石像が明治16年(1883)に建立され、福井平野発展の守り神として、今も人々に崇められています。


足羽山頂に建てられている継体天皇石像(福井市)


足羽神社境内の継体天皇に関する碑



三国港突堤の建設

明治維新以後、政府は国土保全上から最も重要である河川に対して直轄施行するにあたり、統一した考えに基づいた治水施策を確立するため、当時治水では最高の技術水準にあったオランダから、河川や港湾関係の技術者を招きました。明治5年(1872)に長工師ファン・ドールンと二等工師リンドウを、翌年には一等工師エッセル、三等工師チッセン、四等工師デ・レーケを雇い入れ、このうち、九頭竜川および三国港の改修に関わったオランダ人は、エッセルとデ・レーケです。

エッセルは九頭竜川筋の安沢地先や足羽川筋の福井市内などに、河岸や堤脚の決壊を防ぐために護岸や水制としての沈床工を設計し、工事の指導を行いました。また、九頭竜川の河口に土砂が堆積し、船の航行が困難になったため、三国港に突堤を設ける設計を行いましたが、帰国するまぎわに工事が着手され、直接工事を指導できなくなりました。そこで、デ・レーケが引き継ぎ指導を行うため、たびたび三国を訪れました。

工事は明治11年(1878)5月に着工し、同13年(1880)12月には防波堤の上部を除きほぼ完了し、開港式が挙行された。


エッセル(左)とデ・レーケ(右)(淀川資料館)


三国港突堤




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