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山国川の歴史
山国川の歴史
山国川の歴史と先人の知恵
江戸時代、中津城において分流する大家川の入り口締切工事を行うとともに、延長1kmに及ぶ堤防を設けています。これにより洪水を防ぐと共に、締め切られた流路を外堀として利用しました。また、締切で流量が増える山国川を西側の外堀に見立て、城を堅固に守るため石堤の水はねを設けていました。
1587年黒田孝高が、豊臣秀吉に豊前6郡を与えられ、山国川の河口デルタである中津の地を選び翌年中津城築城を行いました。軍事的にも西に山国川、南から東にかけては山国川の分流大家川が流れ、北は周防灘を控えた要害の地でした。後の1604年、隠居して中津城に入った細川三斎(忠興)によって、中津城の修復と城下町を整備するため、大家川の締切工事が行われましたが、これが山国川の最初の改修工事といわれています。
中津城
中津城の城下町
歴史的構造物
山国川を代表する人口の風物は、すぐれた石橋です。とくに本耶馬渓町に架かる耶馬渓橋(別名オランダ橋)は日本唯一の八連アーチ石造橋であり、橋長116m、大正時代に架設されたものです。観光道路として架設されたものであり、上流の荒瀬堰、青の洞門とあいまって、独特の美しさを持っており、県指定文化財に指定されています。また、近辺には、同様な石橋として羅漢寺橋、馬渓橋が架設されています。
耶馬溪橋(オランダ橋)
馬溪橋
青の洞門
菊池寛の小説「恩讐の彼方に」の舞台としても有名な青の洞門は江戸時代、禅海和尚がノミと槌だけで30年の歳月をかけて堀抜いたものです。その後、幾度かの拡幅工事が行われ現在の形となっています。名勝耶馬渓において重要な観光地であり、年間約170万人の観光客が訪れています。
青の洞門
禅海和尚像
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