江戸時代、中津城において分流する大家川の入り口締切工事を行うとともに、延長1kmに及ぶ堤防を設けています。これにより洪水を防ぐと共に、締め切られた流路を外堀として利用しました。また、締切で流量が増える山国川を西側の外堀に見立て、城を堅固に守るため石堤の水はねを設けていました。
1587年黒田孝高が、豊臣秀吉に豊前6郡を与えられ、山国川の河口デルタである中津の地を選び翌年中津城築城を行いました。軍事的にも西に山国川、南から東にかけては山国川の分流大家川が流れ、北は周防灘を控えた要害の地でした。後の1604年、隠居して中津城に入った細川三斎(忠興)によって、中津城の修復と城下町を整備するため、大家川の締切工事が行われましたが、これが山国川の最初の改修工事といわれています。