水管理・国土保全

  

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肝属川の歴史

肝属川特有の歴史、先人の知恵の活用

肝属川支川姶良川上流には、神武天皇の父君「鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)」と母君「玉依姫尊(たまよりひめのみこと)」の御陵墓である吾平山稜があることから、大隅半島には多くの神話が残っており、その中にはガラッパ(河童)にまつわる神話も残されています。


吾平山稜




肝属川特有の歴史、先人の知恵の活用

弥生時代には、肝属川下流一帯は中国大陸より伝わった米づくりが盛んに行われたことにより、多くの人が集まり、大きな集落を形成しており、南九州を代表するもっとも開けた地域の一つでありました。

飛鳥時代には、大和朝廷が農業の技術が進んで米づくりが盛んな所を「屯倉(みやけ)」と呼ばれる直轄領として、直接治めるようになり、肝属川中流部にも「肝付屯倉(きもつきみやけ)」が置かれた。九州でも数少ない屯倉の一つで、当時、肝属川流域は注目の米どころでありました。


発掘中の王子遺跡




肝属川特有の歴史、先人の知恵の活用

平安時代から、米どころとして知られた肝属平野をめぐって、豪族たちの領地争いの舞台となりました。外敵に備えるため、肝属川の近くにはたくさんの城が築かれ、いざ合戦という時には、敵の侵入を防ぐため、川をせき止めて水をため、天然の「堀」として利用していました。また、当時、荷物を大量に運ぶには、道より川の方が便利であったため、米などの食料をはじめ、いろいろな情報も船を使って各地の城へと運ばれていました。



高山川や本城川に守られた「高山城」




肝属川特有の歴史、先人の知恵の活用

13世紀から16世紀にかけての約300年間、肝属川河口の港は、海外に開かれた港としてにぎわいました。肝属川の河口から約14km上流の鹿屋市川西地区に船着場を表す「船塚」という地名があること、また、鹿屋市田崎地区では大量の中国古銭が出土していることから、昔、そこまで船が上がってきていたことを物語っています。

江戸時代に入ると、外国との貿易は禁止されるが、当時の薩摩藩が幕府に黙って中国大陸や琉球との貿易を奨励し、また、国内での交易にも力を入れ、河口は、鹿児島最大の貿易港として九州を代表する商人たちの活躍の場となっていました。


出土した古銭




肝属川特有の歴史、先人の知恵の活用

明治以降、鉄道や道路の発達により船による交通は次第に姿を消した。その中で明治37年に完成した大園橋は、大隅地方では数少ないめがね橋で、その姿は堅牢で優美であり、当時の石像技術としては抜群でありました。

現在では、肝属川は農業用水や発電などによる利水や釣りや散歩などの憩いの場として利用され、また、生物たちの重要な生活の場となっています。


大園橋




肝属川における治水事業

肝属川の本格的な治水事業は、大正3年の桜島(さくらじま)火山の大噴火でもたらされた大量の火山灰が大きな被害を招いた大正6年6月洪水を契機として、大正7年から同11年まで県営事業でした。県営事業では肝属川本川は鹿屋市から大姶良川合流点までの区間、支川串良川は林田堰から本川合流点までの区間について掘削や築堤が実施されました。それまで肝属川では、利水のための小規模な工事しか実施されていませんでした。

その後、昭和4年7月洪水を契機として、昭和12年に肝属川改修計画を策定し、国直轄の河川改修事業として、築堤・掘削や蛇行河川の直線化を行う捷水路工事に着手しました。昭和13年に大規模な洪水等が発生し、計画の改訂等を行い、昭和28年に一連の捷水路工事が完了しました。

昭和30年代から40年代にかけては、主に下流部の水門工事や高山川の築堤工事などを実施しています。

昭和51年6月洪水では、鹿屋市街部のいたる所で河岸が崩壊し家屋が流出するなどの被害が発生し鹿屋市街地の抜本的な治水対策を迫る水害となりました。

このため、人口・資産が集中し、河道が狭小となっている肝属川本川の鹿屋市街地区間をバイパスするために鹿屋分水路工事を実施し、平成12年3月に一連の分水路工事は完成しています。


肝属川捷水路概要図


鹿屋分水路位置図




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