|
|
私も、馬場とフリッツ・フォン・エリックというのは大変懐かしく思った。
プロレス好きの人で心配する人がいるかもしれない。ジャイアント馬場は、つまり木材は、何とか鉄の爪を剥がそうとしていたわけである。だから、あの組み合わせは剥がれやすいのではないかという心配があり得ると思う。僕が幼いころに、フリッツ・フォン・エリックが馬場の額をつかんで、倒れた馬場をそのままあの握力で持ち上げたことを覚えていて、何という握力だと感動したことがある。最近ビデオを見ていると、馬場さんは下の方からエリックの手をつかんで、つまり何とか剥がそうとしているのだが、実は剥がそうとしているのではなくて、離れないように馬場さん自身が固定していたのではないかということを発見して馬場とエリックなら大丈夫だということを思った。つまらんことでした。すみません。
私は、別に何の話をしようということもないが、歴史の勉強をしていて、現代の生活の歴史の一こまのようなことをしゃべらせてください。
学生時代に、もう20年ほど前だが、初めて南ヨーロッパへ行ったのが私の最初の海外体験だった。僕は、オープンテラスというのか、路上に椅子とテーブルを出して、そこでコーヒーをいただく暮らしに憧れがあった。初めて行ってみて仰天した。それは何かというと、ヨーロッパは、南ヨーロッパは特に多いのだが、犬のうんこがそこらじゅうに落ちていること。乾きやすいせいか、犬の糞がすぐからからになる。その上を人が堂々と踏んで行くから、糞は粉々になる。風が吹く。文字通りふん塵が舞っているようなものである。そこの下でコーヒーをいただいているわけである。あれを見たときに、よくこんなところでコーヒーが飲めるなと思った。犬の糞に限らない。前を車が通ったり、バスの通行路の目の前で椅子とテーブルを出してコーヒーをいただいている。それも太陽を浴びながらという楽しみを優先したのだと思うが、僕はあれを見たときに、これは日本の保健所は多分認めないだろうなと思った。万が一、食中毒が出たときにだれが責任を持つんだとか。道路行政もそうだと思う。万が一、バイクが飛び込んできたときにだれが責任を持つんだと。そういうことがあるから、逆に考えると、南ヨーロッパに限らないで北ヨーロッパでもそうだが、どうしてこれが認められるのだろうという疑問を20年ほど前に持ったことがある。
疑問を持ち出してから、自分のもっと幼いころ、これはもう40年近く前になるころを振り返るのだが、犬のうんこなら、昔は日本でもそこらじゅうに落ちていたなという気がする。どうしてこのごろ路上に犬の糞が落ちていないのだろうというと、もちろん私たちが散歩をするときに、袋を抱えて新聞紙を持って犬のうんこをつまみながら、これはいつの間にか私たちがそういうふうにしなさいと、だれによってかはわからないが、飼いならされてきたわけである。
犬を飼っているのではなしに人間が飼いならされている感じなのである。どうやらヨーロッパの人はまだ飼いならされていないみたいで、この犬の糞に対する私たちの扱いの違いというのは何に由来するのだろうか。これはいずれ調べてみたいと思っている。
最近パリから帰ってきた知人に言われた。このごろパリでも、犬の散歩のときに新聞紙を持ってうんこを拾っているやつがいると。日本的な暮らしがどうやらパリに飛び火したらしいということを知らされて、今のパリを調べると、私たちはなぜうんこを新聞で拾うようになったかということの歴史が、30年後か40年後にパリで反復されている。その事例を観察すればいい。
しかし、こんな名目でフランス滞在費を2年欲しいと言っても、多分文部省はうんと言わないだろうから、そんなことはしないが。
この話は犬の糞だけではない。ベニスも、犬の糞とか猫の糞の多い町なのだが、あれだけ美しい町なのにそこらじゅう糞だらけというのは理解できない。何かものすごくきれいな人だけど、お風呂には入らないという印象が、日本暮らしの長い私にはどうしても投影されてしまう。
糞のみならず、手すりで考えることがあった。あれだけ運河が多い町で、手すりがほとんどない。酔っぱらいがあの辺を通ったときに運河に落ちて一命をなくしたとしても、責任問題は多分浮上しないだろう。そんなことは酔っぱらいの自業自得だということで処理されるのだと思うのだが、子どもなどのもしものことに対して、行政とかはどんな対応をするのだろうと思う。それはなぜかというと、日本の水辺沿いとか、少しでも危険がありそうなところは、必ずと言っていいほど手すりを、しかもかなり頑丈な、自殺防止とかもあるのだろうが、本当によじ登って乗り越えない限り落ちようのないような手すりをあちこちに設けている。比べると無粋な感じがどうしてもしてしまう。しかし、私たちはひょっとしたら、例えば運河と路上の一体感という、その空間をエンジョイすることよりも、もしも落ちたときにどうなるんだという安全の方を優先するような社会に生きている、また生かされているような気がする。
安藤忠雄さんという建築家に伺ったことがある。京都の三条の高瀬川沿いにタイムズビルというのがあって、高瀬川のすぐ真横にプラットホームがつくられているのだが、手すりがない。これは京都市とすごくもめたということをおっしゃっておられた。高瀬川というと、深さが2センチか3センチしかないのだが、万が一、落ちたときどうするんだというふうに京都市側が言ってきたが、安藤さんはこんなところに落ちても命は大丈夫だろうという。結局、安藤さんの意向が通って、あそこには手すりをつけていないのだが、これは普通の工務店のやる工事でもちゃんと通ったかどうかはわからない。安藤忠雄という名前がバックになって市の確認申請も、本当はこんなことで確認申請がちょっと抵抗を弱めるのは役所仕事としてはよくないことのように思わないでもないが、それでようやく通ったという側面があったように聞いた。本人が、ひょっとしたら自分のご威光を自慢していらっしゃるようなことはないとは思うが。
これも考えてみると、川沿い、運河沿い、やや危ないところにあんなに手すりがばんばん張りめぐらされるようになったのは、そう古いことではないような気がする。ここ30年、20年、高度成長以降の現象ではないだろうか。僕の記憶では、僕はそのころは子どもだからわからないが、多分酔っぱらいが何かに落ちて死んだときは、それは酔っぱらいの自業自得で済まされた時代があったと思う。いつの間にか、すごく酔っぱらいの安全にも配慮するような、そういう現代社会ができてきたように思う。これはどういうことなのか、私にはわからないが、何か私たちの社会がとうとうと安全を重視する方向に流れてきているように思う。
僕は京都から新幹線でこちらに来るが、新幹線の車中で「最近盗難が多発しております」というアナウンスをよく聞く。「最近盗難が多発している」とここ何十年言っているだろう。もし本当に最近盗難が多発しているなら、盗難の発生件数は等比級数的に膨らんでいるはずである。本当に最近いつも膨らんでいるのだろうか。僕はあれを聞くたびに、うるさいな、放っといてくれというふうに思う。一応乗車して座っていても、「駆け込み乗車は慎んでください」のようなアドバイスもある。もう乗車しているやつに駆け込み乗車はやるなと。新幹線ではそれはないが、普通のJRの在来線だと、「白線の後ろに下がれ」だの、「列車が2分ほど遅れて到着します」だの、2分が命だという人もいると思うが、とにかく、これはヨーロッパと比べなくてもいいが、どこの国に行っても、こんなに停車場及び車内でやかましいところはないように思う。これをやかましいと言ってしまってはいけないのかもしれない。そうやってしょっちゅうアドバイスしてくれるおかげで何か助かっている部分もあるのかもしれない。本当は、助かっている部分があるというか、万が一、何かの事故があったときに、当局の方は「いや、ちゃんとアナウンスはしてあります」という、例えば川で何か事故があったときに、「いや、手すりをつけるような配慮はしてありますから、当方に責任はありません」という、一種のそういう道具に使うために町が改造されているという面があるように思う。
東京の方の事情はわからないが、四条河原町の四条通りを歩いていると、四条繁栄会からのスピーチ、これもよくある。「最近お肌が荒れてますねと寄ってくるキャッチセールスが多発していますが」とかというふうに。これも毎日のように流しているのだが、それもひょっとしたら、キャッチセールスにつかまって余計な金を払わされた人から四条繁栄会に文句があって、四条繁栄会は一応警告しておかないといけないと思うのだろう。私の脳裏に残っているアナウンスは「お肌が」云々という警告だけなのだが、いろいろな警告を頻繁に流している。これは、町でそういう音が流れていることと、手すりと、散歩の際に犬の糞を必ず処理するようにしつけられていることの、一見てんでばらばらな日常生活の振る舞いの中に、何かとうとうと、いつからかはわからないが、安全第一主義の管理思想が次第に貫徹していっているような、そんな趨勢がうかがえるような気がする。
日本は今、北欧よりも高い世界一の平均寿命を誇っている。ひょっとしたら、こういう配慮のおかげで世界一になっているのかもしれない。こういう配慮が貫徹したのは、とにかく世界統計の中で寿命で世界一にならないといけないという、至上命令のようなものが霞が関からとうとうと各出張所まで行き渡ったおかげで、町がこんなふうに変わってきたのかもしれない。
それは私にはよくわからないが、ごく最近、路上に椅子とテーブルを出す店が認められているケースを見かけるようになってきた。ひょっとしたら、もう寿命の世界一は達成した。ここはある程度譲ってもいいという判断が行政の中にあったのだろうか。それは私は部外者だから全然わからないが。
あと、これは比べるのも変なのだが、私の飼っている犬は路上で今うんこをしない。必ずと言っていいほど、木陰に隠れてこそこそやる。ヨーロッパの犬は堂々と路上でやっている。犬まで飼いならされたのだろうか。これは、私の家の犬だけではなしに、犬を飼っているいろいろな人に聞くと、「うちだって、やっぱり、木陰に隠れてやってる」と。まさか、犬まで。これは建設省と関係があるかどうかわからないが、舗装道路がどんどん日本中に普及したときに、19世紀から舗装されているヨーロッパの人にはなかなか考えにくい発想なのだろうが、舗装はありがたいものである、犬の糞なんかで汚してもらったら困るというものもどこか背景にあったのかなとか思ったりするが、それはわからない。
今日はわからないことだらけの話をしたのだが、とにかく私たちの暮らしには、何かよくわからないというか、私なりの邪推はあるのだが、何かのメカニズムが働いていることは間違いないような気がする。いずれそれについて、ここ40〜50年の歴史をいろいろな文書とかでさかのぼって調べられればいいなと思っている。本当にそんなことをやるかどうかはわからないが。
我彼の暮らしの違いということ、どちらがいいと言えるのか。安全を保障してくれてありがとうございますと当局に言うべきなのか、おかげでうるさくて味わいのない暮らしを押しつけられていますと言うべきなのか、それはわからない。とにかくこういう違う状況に置かれている面があるという感想を述べた。拙いプレゼンテーションだが、終わらせてください。 |
 |