Title Nagaoka War Damage Exhibit Hall Captions

  • Niigata
Topic(s):
Villages/Towns
Medium/Media of Use:
App, QR code, etc.
Text Length:
751+ Words
FY Prepared:
2020
Associated Tourism Board:
echigonagaoka kankoshinkoiinkai

長岡戦災資料館


当時の典型的な居間

戦災当時の日本の家は、木造建築でした。また、畳や、窓に貼る障子などの可燃性のものもありました。夜になると、窓に暗幕をかけ、外に明かりが漏れないようにしていました。ラジオは当時の大事な情報源でしたが、すべての家にあるわけではなく、重要なお知らせを聞くために近所の人たちはよく集まっていました。


ハワイ真珠湾攻撃

1941年12月7日(日)、日本軍はアメリカ太平洋艦隊主力戦艦群を攻撃しました。攻撃はハワイ現地時間の午前中に行われ、船は真珠湾のフォード島に駐留していました。

写真は、魚雷がUSSオクラホマに命中した際に水煙を上げている様子です。


アリゾナ記念館

沈没したUSSアリゾナは、1941年12月の真珠湾攻撃で命を落とした1,177人の乗組員のうち1,102人の最後の休憩所として機能します。この記念館は、公金と一般募金により、船の水没した船体の上に建てられました。1958年に計画が始まり、1961年に完成し、翌年に正式オープンしました。


金属回収の強化

金属回収令により、政府は戦争のための軍需品の製造を助けるために、国に金属の寄付を要請しました。国家総動員法に基づく命令は、1941年8月に施行されました。戦争がエスカレートするにつれ、寄付が義務化されました。やかん・鍋・釜・お寺の鐘・銅鑼・仏像・その他の金属類がスクラップとして再利用されました。


山本五十六の死

連合艦隊司令長官の山本五十六は、1943年4月18日朝、パプアニューギニア近郊のブーゲンビル島上空で彼を乗せた輸送機が撃墜され死亡しました。米軍戦闘機からの砲撃を受けていました。


学徒勤労動員の通年動員体制

戦争が激化するにつれ、より多くの成人男性が前線に出動するようになりました。その結果、地方では軍需工場の人手不足が深刻化になりました。この問題を緩和するために、政府は「動員のための緊急募集要項」を発表した。これにより、中学3年生は軍需工場だけでなく、名古屋の飛行機工場でも働くことができるようになりました。合計で約310万人の学生が全国で動員されました。


防空訓練

地元町内会では、月に数回、防空訓練を実施していました。参加者は防空頭巾をかぶり、消火の手順に従う事が求められました。訓練は必須でした。夫が戦闘に従事していた女性は参加する義務はなかったが、参加しなかった場合、非国民ときせられます。


アメリカ軍の長岡空襲作戦計画図

アメリカ軍の航空写真を数枚集成された石版集成図(リトグラフ)です。写真は1945年6月23日、長岡大空襲の1ヶ月程前に撮影されたものです。直径1.2キロに及ぶ円は、爆撃目標の範囲を表しています。明治公園が爆撃中心地となっています。


日本のまちを焼け野原とした空襲

1945年3月からアメリカ軍は日本の都市を砲撃する戦略を開始しました。日本の180都市を人口の多い順にランキングして目標を決め、その都市の住宅地に焼夷弾を投下しました。山間部など地理的に到達が困難な都市や、新潟市のように原爆投下予定地に指定されている都市は対象外でした。

新潟市は、小倉、広島、京都(後に長崎に変更)と並んで原爆の標的都市の一つであったため、焼夷弾による攻撃を免れました。そのため、新潟県で唯一焼夷弾を受けたのが長岡市でありました。


パンプキン爆弾

1945年7月20日午前8時13分(現地時間)、アメリカ軍のB29爆撃機1機が、左近地区(旧上組村左近町)の畑に大きな「かぼちゃ爆弾」(形からその名がついた)1個を投下しました。4人が一瞬にして生命を失い、5人が怪我をしました。この爆弾により、全壊2戸のほか、残り29戸のすべての家が大きな損傷を受けました。

これはあくまでも試験爆撃であり、長岡の津上工場を狙っていたにもかかわらず、雲に覆われて視界が悪くなり、左近の畑に投下されてしまいました。


「M47焼夷爆弾」実物大模型

先頭の爆撃機(パスファインダーとも呼ばれる)が投下した大型ナパーム爆弾を、後続の主力爆撃機に向けて投下したもの。長岡市には合計2、172発投下されました。


「E46(M19)集束焼夷弾」実物大模型

B29は焼夷クラスター爆弾を1発投下しました。各装置には、ナパームで満たされた38個のM69焼夷弾が含まれ、19発ずつ2段に分かれています。


予告付きの爆弾

爆弾の形をしたケースの中にはビラが約1万枚入っていました。この写真は、アメリカ海兵の監視のもと、日本人捕虜が爆弾のケースにリーフレットを詰めている様子です。

「紙爆弾」と呼ばれた空襲予告ビラは、日本国民の戦意を喪失させることを目的に作られました。

1945年7月31日から8月1日の朝まで、アメリカ軍は長岡の上空に同様の空襲予告ビラを投下しました。市民はこれらのビラを読まずに届け出るように指示されていました。実際に予告ビラを読んだ人は少なかったと思います。


佐々木 禎子 の「祈り」

長岡大空襲から5日後の1945年8月6日、広島上空に原爆が投下されました。

この小さな鶴には、被爆して白血病を発症した12歳の少女の祈りが込められています。禎子さんは「朝昼晩、祈り続ければ病気は治る」と信じていました。しかし、病状は悪化の一途をたどり、1955年10月12日に亡くなりました。


戦艦ミズーリ記念館から寄贈された零戦の破片

1945年の沖縄戦でUSSミズーリにカミカゼ攻撃を行った零式艦載機(零戦)のアルミ合金の破片です。戦艦ミズーリの右舷後部には、零戦の特攻を受けた痕跡が今も残っています。

その特攻隊員は亡くなりましたが、キャラハン艦長は彼を適切に埋葬しました。

彼は、「彼が死んだ今、もう敵ではない。彼は命をかけて究極の犠牲を払い、国のために戦ったんだ」と言いました。


2015年8月 長岡ホノルル平和交流記念事業

2012年3月2日、ホノルル市と長岡市が姉妹都市となりました。その後、2015年8月14日~16日、終戦から70年を迎えたハワイの首都で、「長岡・ホノルル平和交流記念事業」が開催されました。

平和・青春シンポジウムがパシフィック・アヴィエイション・ミュージアムで開催されました。また、戦争で命を落とした日米両国の人々に敬意を表して、「白菊」の花火が真珠湾に打ち上げられました。


長岡戦災資料館の成り立ち

長岡大空襲の実話を正確に伝え、戦争を経験したことのない若い世代に伝えていくことを目的としています。

長岡戦災資料館は、2003年7月に開館しました。

開館以来、官民連携で運営され、20名の運営ボランティアが市政と連携しています。「長岡空襲の実相をどうしたらより確かに伝えられるか」という事を一緒に考えてきました。

2008年7月に現在場所に移転しました。新たに自習室が設置され、活動の場や来訪者を受け入れるスペースが増えました。


長岡戰災資料館


當時典型的起居室

在那場戰爭發生的年代,日本的房子大都為木頭搭建,裡面還有各種易燃物,比如榻榻米和障子紙門。到了晚上,人們拉上深色的窗簾以免光線透出屋外。收音機雖是獲取資訊的重要來源,但並不是每一戶人家都有,因此鄰居們常常聚在一起收聽重要廣播。


夏威夷珍珠港襲擊

1941年12月7日星期日,日本軍隊襲擊了美國海軍太平洋艦隊的主力戰艦,這場襲擊發生在夏威夷當地時間的早晨,當時戰艦都停泊在珍珠港中的福特島週邊。

這張圖片展示了魚雷擊中USS(美國軍艦)奧克拉荷馬號時激起的水霧。


USS亞利桑那號紀念館

沉沒的USS(美國軍艦)亞利桑那號成了船上1177名船員中1102人的長眠之所,他們都戰死於1941年12月日本對珍珠港發起的襲擊中。這個紀念館建在當年沉沒的軍艦上方的海面上,資金來源為美國政府和民眾捐款。紀念館於1958年開始籌建,1961年完工,次年對外開放。


大力回收金屬

1941年8月,日本政府依據《國家總動員法》下達《金屬回收令》,要求民眾捐出金屬製品以支援戰爭所需的武器製造。隨著戰爭升級,捐獻變成了強徵,金屬茶壺、廚具餐具,乃至寺廟裡的鐘、鑼、佛像等等,一切金屬製品都被納入了回收金屬之列。


山本五十六之死

1943年4月18日早晨,日本海軍艦隊總指揮官山本五十六身亡,當時他所乘坐的座機正飛越巴布亞紐幾內亞附近的布幹維爾島,遭到美軍戰鬥機攻擊。


學生勞動動員令之全年動員制

隨著戰事吃緊,越來越多成年男性被送上前線,以致於鄉村地區的軍工廠勞動力嚴重短缺。為了緩解這個問題,政府發佈了《緊急學徒勤勞動員方策要綱》,允許國三學生進入軍工廠甚至名古屋的飛機組裝廠工作,期間全國總計動員了約310萬學生。


防空訓練

地方居民委員會每月主持數次防空訓練,參與者被要求佩戴防空頭巾,遵照消防滅火步驟演練。訓練是強制性,丈夫上了戰場的女性可以不參加,但這會讓她們被貼上不愛國的標籤。


美軍的長岡空襲作戰計劃圖

這張石版圖由數張美軍航拍照片拼合而成,照片都拍攝於1945年6月23日,即長岡空襲的前一個月。圓圈所覆蓋區域為目標轟炸區,實際直徑1.2公里,中心點為明治公園。


燃燒彈空襲下的日本城市

1945年3月,美軍開始對日本城市執行燃燒彈轟炸戰術,目標城市依據日本180個城市的人口排名選定,燃燒彈投放的目標區域為城內住宅區。地理上難以觸及(如山區市鎮)和已經列在原子彈轟炸名單上的城市(如新潟)被排除在外。

新潟市與小倉、廣島、京都(後來換成了長崎)同被列為原子彈轟炸目標,因而得以免於燃燒彈轟炸,所以長岡成了整個新潟縣唯一遭到燃燒彈轟炸的城市。


「南瓜炸彈」

1945年7月20日早上8點13分,一架美軍B-29轟炸機在左近地區(舊上組村左近町)投下了一枚「南瓜炸彈」(因形狀而得名),4人當場死亡,5人受傷。此外,炸彈還摧毀了兩棟房屋,並導致另外29棟受損。

這是一次轟炸實驗,轟炸目標原本定在長岡的津上工廠,但由於雲層降低了能見度,導致炸彈最後被投到了左近的田野區域。


M47燃燒彈全尺寸模型

這是轟炸部隊頭機(也稱「探路者」)投下的一枚巨大的固體汽油彈。那一場轟炸中,總計有2172枚這種類型的炸彈被投到長岡市內。


E46(M19)集束燃燒彈全尺寸模型

這些是B-29轟炸機投下的集束燃燒彈,每個裝置裡包含著38枚M69小型燃燒彈,彈內填滿固體汽油,分為兩組,每組19枚。長岡總共被投下了4244枚這類炸彈。


送來警告的炸彈

這個炸彈形狀的箱子裡裝著大約10,000張傳單。照片上是日本戰俘正在美國海軍陸戰隊的監督下把傳單裝進炸彈裡。這類空襲預告空投傳單有個別名,叫「紙炸彈」,設計初衷是為了打擊日本人民的鬥志。

1945年7月31日到8月1日早上,美軍在長岡投下了這些傳單,但傳單上並沒有寫明長岡將遭到轟炸。居民被要求將撿到的傳單直接上交,當局交代不可閱讀,也就很少有人讀到了傳單上的內容。


佐佐木禎子的祈禱

1945年8月6日,就在長岡空襲的5天之後,一枚原子彈在廣島爆炸了。

這枚小小的紙鶴寄託著一個12歲小女孩的祈禱,她因為在爆炸中遭到輻射而罹患白血病。禎子相信,只要堅持每天早、午、晚三次祈禱就會痊癒,令人悲傷的是她的健康情況每況愈下,終究還是在1955年10月12日去世了。


密蘇里戰艦紀念館捐贈的零式戰鬥機碎片

這塊零式艦載戰鬥機上的鋁合金碎片,是1945年沖繩島戰役中一名神風敢死隊員向USS(美國軍艦)密蘇里號發起攻擊後的殘留物,至今在軍艦的後部右舷側面仍能看到這架零式戰鬥機襲擊時留下的痕跡。

飛行員隕命,但密蘇里號的卡拉漢艦長確保他得到了妥善的安葬。艦長說:「既然已經死了,那他就不再是敵人。他為他的國家而戰,以生命為代價做出了最大的犧牲。」


2015年8月 長岡—檀香山和平交流紀念活動

2012年3月2日,檀香山(即火奴魯魯)和長岡市結為姐妹城市。2015年8月14日至16日,長岡—檀香山和平交流紀念活動在夏威夷檀香山舉行,時值戰爭結束70週年。

「和平與青春研討會」同時在太平洋航空博物館裡召開。此外,為紀念在這場戰爭中喪生的所有美、日人士,活動還包括了一場在珍珠港舉辦的「白菊」煙火表演。


長岡戰災資料館的創立

2003年7月,長岡戰災資料館開館,展館旨在準確傳達長岡空襲的真實故事,為後世不曾親歷戰爭的一代又一代年輕人留下相關記錄與資訊。

這個展館從一開始就屬於公私合作營運,除了市政府,還另有20名志工參與。2008年,展館遷址到如今的所在地,新增了一間自習室,也有了更大的空間可以容納參觀者,舉辦各類活動。

长冈战灾资料馆


当时典型的起居室

在那场战争发生的年代,日本的房子还大都为木头搭建,里面有各种易燃物,比如榻榻米和障子纸门。到了晚上,人们拉上深色的窗帘,以免光线透出屋外。收音机虽是获取信息的重要来源,但并不是每一户人家都有,因此乡邻们常常聚在一起收听重要广播。


夏威夷,珍珠港袭击

1941年12月7日,星期日,日本军队袭击了美国海军太平洋舰队的主战列舰。袭击发生在夏威夷当地时间的早晨,当时战舰都停泊在珍珠港中的福特岛边。

这张图片展示了鱼雷击中USS(美国军舰)俄克拉荷马号时激起的水雾。


USS亚利桑那号纪念馆

沉没的USS(美国军舰)亚利桑那号成了船上1177名船员中1102人的长眠之所,他们都战死于1941年12月日本对珍珠港发起的袭击中。这个纪念馆建在当年军舰沉没处的海面上,资金来源于美国政府和公众捐款。纪念馆于1958年开始筹建,1961年完工,次年对外开放。


大力回收金属

1941年8月,日本政府依据《国家总动员法》下达《金属回收令》,要求民众捐出金属制品支援战争所需的武器制造。随着战争升级,捐献变成了强征,金属茶壶、厨具餐具,乃至寺庙里的钟、锣、佛像等等,所有金属制品都被纳入了回收金属之列。


山本五十六之死

1943年4月18日早晨,日本海军舰队总指挥官山本五十六身亡,他所乘坐的座机在飞越巴布亚新几内亚附近的布干维尔岛时,遭到了美军战斗机的攻击。


学生劳动动员令之全年动员制

随着战事吃紧,越来越多的成年男性被送上前线,以致于乡村地区的军工厂劳动力严重短缺。为了缓解这个问题,政府发布了《紧急学徒勤劳动员方策要纲》,允许初三学生进入军工厂甚至名古屋的飞机组装厂工作,期间全国总计动员了约310万学生。


防空训练

地方居民委员会每月主持数次防空训练,参加者被要求佩戴防空头巾,遵照消防灭火程序演练。训练是强制性的,丈夫上了战场的女性可以不参加,但这会让她们被打上不爱国的标签。


美军的长冈空袭作战计划图

这张石版图由数张美军航拍照片拼合而成。照片都拍摄于1945年6月23日,即长冈空袭前一个月。圆圈所覆盖区域为目标轰炸区,实际直径1.2公里,中心点为明治公园。


燃烧弹空袭下的日本城市

1945年3月,美军开始对日本城市执行燃烧弹轰炸战术。目标城市依据日本180个城市的人口排名选定,燃烧弹投放的目标区域为城内居民区。地理位置上难以触及(如山区市镇)和已在原子弹轰炸名单上的(如新潟市)被排除在外。

由于新潟(音“戏”)市与小仓、广岛、京都(后来换成了长崎)同被列为原子弹轰炸目标,得以免于燃烧弹轰炸,所以长冈市成了整个新潟县唯一遭到燃烧弹轰炸的城市。


“南瓜炸弹”

1945年7月20日早上8点13分,一架美军B-29轰炸机在左近地区(旧上组村左近町)投下了一枚“南瓜炸弹”(因形状而得名)。4人当场死亡,5人受伤。此外,炸弹还摧毁了两栋房屋,并导致另外29栋受损。

这只是一次轰炸实验,轰炸目标原本定在长冈的津上工厂,但由于云层降低了能见度,导致炸弹最后被投到了左近的田野区域。


M47燃烧弹全尺寸模型

这是轰炸部队头机(也称“探路者”)投下的一枚巨大的固体汽油弹。在那一场轰炸中,总计2172枚这样的炸弹被投掷在长冈市内。


E46(M19)集束燃烧弹全尺寸模型

这些是B-29轰炸机投下的集束燃烧弹,每个装置里包含38枚M69小型燃烧弹,弹内填满固体汽油,分为两组,每组19枚。长冈总共被投下了4244枚这样的炸弹。


送来警告的炸弹

这个炸弹形状的箱子里装着大约10,000张传单。照片上是日本战俘正在美国海军陆战队的监督下把传单装进炸弹里。这类空袭预告传单有个别名,叫“纸炸弹”,设计初衷是为了打击日本人民的斗志。

1945年7月31日到8月1日早上,美军在长冈撒下这些传单,但传单上并没有写明长冈将遭到轰炸。居民被要求将捡到的传单直接上交当局,不可阅读,因此据说实际上几乎没人细读过传单。


佐佐木祯子的祈祷

1945年8月6日,就在长冈空袭的5天之后,一枚原子弹爆炸于广岛上空。

这枚小小的纸鹤中寄托着一个12岁小女孩的祈祷,她因为在爆炸中遭到辐射而罹患白血病。祯子相信,只要坚持每天早、午、晚三次祈祷就会痊愈,令人悲伤的是,她的健康状况每况愈下,终究还是在1955年10月12日去世了。


密苏里战舰纪念馆捐赠的零式战斗机碎片

这块零式舰载战斗机上的铝合金碎片,是1945年冲绳岛战役中一名神风敢死队员向USS(美国军舰)密苏里号发起袭击后的残留物,至今在军舰的后部右舷侧面仍能看到这架零式战斗机袭击时留下的痕迹。

飞行员陨命,但密苏里号的卡拉汉舰长确保他得到了妥善的安葬。舰长说:“既然已经死了,那他就不再是敌人。他为他的国家而战,以生命为代价做出了最大的牺牲。”


2015年8月 长冈—檀香山和平交流纪念活动

2012年3月2日,檀香山(即火奴鲁鲁)和长冈市结为姐妹城市。2015年8月14日至16日,长冈—檀香山和平交流纪念活动在夏威夷檀香山举行,时值战争结束70周年。

“和平与青春研讨会”同时在太平洋航空博物馆里召开。此外,为纪念在这场战争中丧生的所有美、日人士,活动还包括了一场在珍珠港举办的“白菊”烟火表演。


长冈战灾资料馆的创立

2003年7月,长冈战灾资料馆开馆。展馆旨在准确传达长冈空袭的真实故事,为后世不曾亲历战争的一代又一代年轻人留下相关记录与信息。

这个展馆从一开始即为公私合作运营,除了市政府,还另有20名志愿者参与。2008年,展馆迁址到如今的所在地,新增了一个自习室,也有了更大的空间可以接纳参观者和举办各类活动。

Nagaoka War Damage Exhibit Hall Captions



A Typical Sitting Room of the Time

During the war, Japanese homes were made of wood. They also consisted of other flammable materials, such as tatami floor mats and shoji paper inserts in doors. At night, people drew dark curtains over the windows to make sure light did not seep outside. Radios were an important source of information, but not all homes had them, so neighbors would often gather together to hear important announcements.


The Attack on Pearl Harbor, Hawaii

On Sunday, December 7, 1941, Japanese forces attacked the main battleships of the U.S. Navy’s Pacific Fleet. The attack took place in the morning, local Hawaii time, while the ships were stationed at Ford Island in Pearl Harbor.

The picture shows a plume of water sent up as a torpedo hits the USS Oklahoma.


The USS Arizona Memorial

The sunken USS Arizona serves as the final resting place of 1,102 of the 1,177 crew members who lost their lives during the Japanese attack on Pearl Harbor in December 1941. This memorial was built over the ship’s submerged hull using public funds and general donations. Plans for it originated in 1958, and it was completed in 1961 before officially opening the following year.



Increased Metal Recovery

With the Metal Recovery Order, the government requested donations of metal to the state to help manufacture munitions for the war effort. The order, based on the National Mobilization Law, came into effect in August 1941. As the war escalated, donation became mandatory. Tea kettles, pots and pans, temple bells, gongs, Buddhist statues, and other items were all repurposed as scrap metal.



The Death of Yamamoto Isoroku

On the morning of April 18, 1943, Yamamoto Isoroku, the commander-in-chief of Japan’s naval fleet, was killed when his transport aircraft was shot down over Bougainville Island, near Papua New Guinea. The aircraft had come under fire from U.S. fighter planes.



Full-Time Student Mobilization

As the war intensified, more and more adult men reported to the front lines. As a result, rural areas faced a serious shortage of labor for munitions factories. To alleviate this problem, the government issued an Emergency Recruitment Guideline for Mobilization. This meant third-year junior high school students could work, not only in munitions factories but also in the aircraft assembly factory in Nagoya. In total, around 3.1 million students mobilized throughout the country.



Air-Raid Drills

Local neighborhood associations conducted air-raid training sessions several times a month. Participants were required to put air-raid hoods over their heads and follow fire extinguishment procedures. The training was mandatory. Women whose husbands were engaged in combat were not obligated to attend, but failure to do so could lead to them being branded unpatriotic.



U.S. Military Plans for the Nagaoka Air Raid

This is a lithograph composed using several U.S. Army aerial images. The photos were taken on June 23, 1945, just over a month before the Nagaoka Air Raid. The circle, whose diameter spans 1.2 kilometers, represents the targeted bombing range. Meiji Park is at its epicenter.



Firebombing Japanese Cities

From March 1945, the U.S. Army had begun a strategy of firebombing Japanese cities. Targets were determined by ranking 180 cities in Japan in order of population, and residential areas in these cities were listed to be hit with incendiary bombs. Cities that were either geographically difficult to reach (for example, because they were in the mountains) or those listed as planned atomic bomb targets, like Niigata, were not subject to firebombing.

As Niigata was one of the cities targeted for an atomic bomb along with Kokura, Hiroshima, and Kyoto (later switched out for Nagasaki), it was spared an attack with incendiary bombs. Nagaoka was therefore the only city in Niigata Prefecture to be struck with incendiary bombs.



The Pumpkin Bomb”

On July 20, 1945, at 8:13 a.m. local time, a single U.S. Army B-29 bomber dropped one large “pumpkin bomb” (so named because of its shape) on a field in the Sakon area (formerly the town of Sakon, Kamigumi Village). Four people were killed instantly and five more were injured. Additionally, the bomb destroyed two houses and damaged twenty-nine more.

This was just a test bombing, and although the bomb was intended for the Tsugami Plant in Nagaoka, the cloud cover reduced visibility, causing it to be dropped in the field in Sakon.



M47 Incendiary Bomb Full-Scale Model

A large napalm bomb dropped by the lead bomber (also known as the pathfinder) for the main bombing unit to follow. In total, 2,172 of these were dropped on the city of Nagaoka.



E46 (M19) Focused Incendiary Full-Scale Model

B-29s dropped these incendiary cluster bombs. Each device contained 38 M69 bomblets, filled with napalm and divided into two stacks of 19. A total of 4,244 of these bombs were dropped on Nagaoka.


The Bomb That Comes with a Warning

This bomb-shaped case held about 10,000 information flyers. The photograph shows a Japanese prisoner of war packing flyers into the bomb case under the supervision of U.S. Marines. These air-raid notice leaflets, nicknamed “paper bombs,” were designed to break the Japanese people’s will to fight.

From July 31 until the morning of August 1, 1945, the U.S. military dropped similar notices over Nagaoka. However, the flyers did not name Nagaoka as the target. Citizens were instructed to submit these leaflets to the authorities without reading them, so it is said that few people actually read the notices.



Sadako Sasakis Prayer

On August 6, 1945, five days after the Nagaoka Air Raid, an atomic bomb was detonated over Hiroshima.

This small paper crane contains the prayer of a 12-year-old girl who developed leukemia from the radiation she absorbed during the bombing. Sadako believed that if she kept praying every morning, noon, and night, her sickness would be cured. Sadly, her condition only worsened and she passed away on October 12, 1955.



A Fragment of a Zero Fighter Donated from the Battleship Missouri Memorial

This is a fragment of aluminum alloy from a Type 0 aircraft (Zero Fighter) that made a kamikaze attack on the USS Missouri during the Battle of Okinawa in 1945. On the ship’s rear starboard side, traces remain of the Zero Fighter that made the attack.

Although the pilot died, Captain Callaghan of the Missouri ensured he was given a proper burial. He said, “Now that he’s dead, he is not the enemy anymore. He paid the ultimate sacrifice with his life, fighting for his country.”


The Nagaoka-Honolulu Peace Exchange Commemoration Project, August 2015

On March 2, 2012, Honolulu and Nagaoka became sister cities. Later, from August 14–16, 2015, the Nagaoka-Honolulu Peace Exchange Commemoration Project was held in Honolulu, 70 years after the end of the war.

The Peace/Youth Symposium took place at the Pacific Aviation Museum. Additionally, shiragiku (white chrysanthemum) firework displays were launched at Pearl Harbor in honor of all those from the United States and Japan who lost their lives in the war.



The Origin of the Nagaoka War Damage Exhibit Hall

The Nagaoka War Damage Exhibit Hall opened in July 2003. The hall aims to accurately convey the true story of the Nagaoka Air Raid, and pass this knowledge on to younger generations who have never experienced war.

Since the hall’s inception, it has been managed as a private-public partnership, with 20 management volunteers working alongside the city government. In 2008, the hall moved to its current location. A new study room was added, and there is more space to accommodate visitors and various activities.


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