水管理・国土保全

  

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烏川の歴史


利根川に通じる烏川の舟運は、江戸からの物資を内陸部に運ぶだけでなく、江戸文化をも西上州や信州、そして越後へと伝える役目を果たしていました。時を重ねるごとに、信越方面の諸大名に献上する廻米や物資を積み出す河岸として次第に成長していきました。

上野国内に開設された約40ヵ所の河岸の中で、代表的なのが倉賀野河岸です。ここは中山道の宿場町であるとともに、利根川最上流の河岸でもあることから、江戸を往復する荷船で、終日活気にあふれていました。

舟運により各地に産物が江戸へ、江戸からの日常品が地方へと流れるようになり、その最盛期には、米300俵積みの大船を含めて、150艘余りの船を数えたと言われています。その取り扱い荷物は、主に上りが塩・茶・小間物・ぬか・干鰯・綿・太物類で約2万2千駄。下り荷には、米・大豆・麻・紙・たばこ・板貫類等、約3万駄にも及ぶ船荷が、たくさんの人足とともに往来していきました。

恵まれた地理条件や組合組織による商いの独占などによって繁栄した倉賀野河岸も、時代の流れと自然現象には、抗することができず次第に衰えていきました。

要因としてまず第一に1783(天明3)年浅間山の砂降りで、川は浅くなり、安全な運行をはかるための船道をつくるには、あまりにも膨大な費用を要しました。

第二に、享保年間ごろから、領主米の払い下げが盛んに行われるようになり、各地で米の市場が発達し、河岸への出荷数が次第に減少していきました。
そして第三に、高崎線の開通によって衰退の一途をたどっていきました。


倉賀野河岸跡石碑





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