会議記録

【白石委員】 松本先生、高西先生の、貴重な夢のあるお話に感謝する。欲深いので、それぞれの先生に1つずつお伺いをしたい。まず、高西先生。ロボットが人間の苦痛を取り除いたり、また、楽しみとかいろいろなチャンスを与える可能性があることを、本当に分かりやすくお話しいただいたと思う。
 癒し系のロボット、猫型、アイボなどを見ていて感じる。松本先生は、プライバシーを先ほど提案されたが、私は、ルールということについて少しお話を伺いたいと思う。
 よく、長期療養している子供たちにバーチャルな体験をさせることにより、外出できないストレスから解放して、いろいろな体験をベッド上でさせるというようなことも行われていると思う。アニマロイド、癒し系のロボット型のペットみたいなものが、ある種、孤独な高齢者を慰めたりとか、ひとり暮らしの人に少し人間的なふれあいを与えたりする、非常に大きな可能性を持っていると思う。例えば女性型のヒューマンロボットを置くことにより、遅く帰れば、「あんた、どこで飲んでいるの」と文句を言われるよりも、「お帰りなさい」と玄関で言ってもらえた方が誰でも快適なわけで、何を生身の人間に期待して、何をロボットに期待していくのか。易き方向に流れていくとすると、何もかもロボットで済んでしまうのでないか。人間が何をし、ロボットに何を期待していくのか、どういうロボットはつくってはいけないのかというようなルールがあると考える。
 これについて、今後の方向性、国際的な考え方はどうなのかということを、少しお話しいただきたいと思うのが1点。
 また、松本先生にお伺いしたいが、私は教員になってまだ1カ月半ですが、学生と話をしていて、ジェネレーションギャップをすごく感じてしまう。皆さんそれぞれ思いはありながらも、それをきちんと人に伝えるような気持ちがない。それは豊かな世の中になって、自分は何をせずとも与えられるというような環境もあるし、世の中に対して自分が何か言っても変わらないんだという閉塞的な思いもある。また、シャイで伝えることを嫌うということもあるし、未熟で学習経験がないため、どのように伝えればいいかというスキルがないということもあると思う。
 特に、私がおばさんになってきたからかもしれないが、今の若い人たちは、いいものを持っていながら、豊かな世の中で心を伝える努力をしていかない人たちが増えている。こういう人たちが、松本先生が述べたように、発想の転換をし、既成の概念を崩していくような人たちに変わっていくためには、何をどうしていけばいいのか、どのような働きかけをすればいいのかということについて、お考えを承りたいと思う。

【松本】 確かにその傾向はあると思う。私は、ロボットだけについて言うと、必ず見分けのつかない完全な人型ロボットは出現すると確信している。それは癒し系もあるし、いろいろある。さきほど言われた、飲んで帰ってはり倒されるよりは、優しく迎えてくれる方がいいに決まっているが、そこの中におのずから、これはロボットであるという認識が本人にあれば、問題はないと思う。ただし、第三者から見て分からないと、非常に誤解を招くということがある。それから、外出できない人が、外部の状況について、ロボットを外出させることで把握できるということも可能だと思う。
 それからもう一つ、子供たちもそうだが、自己閉鎖型になってきている。我々のときは、することがないから、逆にくんずほぐれつ、ハチの巣を襲ったり、泳いだり、コミュニケーションがあったわけである。おぼれたり、いろいろあるから、お互いが助け合わないとどうにもならなかった。それが次第に疎遠になっているのは事実だが、それは、地球上で言えばごく一部分の出来事だと思う。そのときに大人は、自分で言い出したら自分で責任をとるという教育方法、すり込みをする必要がある。人に頼るのではなく、自分でやり出したら自分で責任を取れと。助けるのは自分だけだという、一種の気力にも通じる部分を無意識のうちに大人が態度で示しておけば、子供はそれを、文字どおり親の背中を見て学ぶ。
 私がなぜ人の前で酒を飲まないかというと、子供のときに、赤い顔をして酔っぱらっている大人に嫌悪感を感じたからである。子供の前で酒が飲めない。見られるのが嫌なのである。それと同じで、子供のときのすり込みというのは意外に強力である。生涯を支配してしまう。やはり小さいときに、存分にそのような活動、それから、自分の意思表現の場というものを体験してもらうことが大事だと思う。すべて機械任せではなく、自分で考え、自分の手でかき、自分の態度で表明して、自分が動いて何かをするということを基本的に小さいときに会得しておけば、途中からコンピューターマニアの権化になろうとかまわない。私は漫画マニアの権化になってしまったが、基本的には、いざとなれば泳ぐこともできる。それで実際に助かったことがある。私は子供のときに関門海峡で泳いでいたために、南太平洋で潮流に流されたとき、そのときのノウハウで潮流を乗り切って、無事生還した。今、漁師の親玉になっている同級生に聞いた。「そのときのノウハウでおれは生き延びた」と言ったら、「おまえ、覚えていたか」と。小学生のときに会得したことが自分を助けるわけである。
 小さいときの体験におそらく左右されると思う。途中からマニアックになって、オタクと化してもいい。オタクは専門家の始まり、プロフェッショナルの始まりだと考える。オタクという言葉は、悪い言葉で使われる。オタクとか、マニアとか。しかし、マニア、オタクは専門家の第一歩である。生涯オタクで終わるか、専門家になるかという、そこの微妙な分かれ目は、どこかで本人が自覚するはずである。
 子供たちに言いたいのは、体験したり、見たり、やったりしたことを楽しむだけなら、それは大人の言葉でいう道楽である。私たちは物を買う。ただ買っただけなら道楽だと。これで元を取らねばならんという使命感が生まれてくるのである。どうしても貧乏な世代なので、遊んだだけでは気が済まないのである。これで元を取れば言い訳が立つのである、自分の心の中で。そのようなすり込みが入っている。だから、ただでは転ばん。やはり子供たちにも、それは必然的に生まれてくると思う。自分が考えて、自分で行動すれば、ここのデータやモニターで見るものとは違う自分の未来が開ける。何か別のことが可能になる。それは、子供たちの目の前に広がる教材であったり、遊具であったりと、その中でおそらく左右されるだろう。個人差があり、強くそれに反応する子とそうでない子が出てくる。これはやむを得ないと考える。
 我々の世代も同じである。本で読んだことしかやらないのと、支離滅裂的に発展させるのと、いろいろある。後にそれぞれの教育に従って、その進む進路が確定していく。そのように考えているから、我々が木や林や虫やヘビを見て、ヘビにカエルを吐かせて喜んでいたのと同じで、今ではこのようなものが目の前にある。それは同じ環境だと思う。それをどう扱うかは個人差の問題で、そのときに、大人の緩やかなアドバイスが出てくると考える。
 我々はヘビに立ち向かうとき、ヤマカカシとマムシには気をつけろと言われた。我々は、スズメバチを襲うときは(襲うのである、襲われるのではなくて)、フォバリングしている警戒バチに気をつけろということを、まず教えられていた。それから、友人たちの成り行きを見て、3匹に刺されたけど、あいつは死なない。そうすると、おれも刺されてもあの程度かということで、怖くないのである。精神的ショックを受けない。先生ではなく先輩たちが後輩へ。子供たちが、上の子が下の子に順番に、申し送りでそういうものを伝えていく構造ができ上がるのが、とても大事だと考えている。


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