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河川局

歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会 -日本文学に見る河川-

歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会
-日本文学に見る河川-
第一回議事録

平 成12年8 月24日(木)
14:00〜16:00

場所:中央省庁合同会議所

2.委員自己紹介
○今橋委員
  美術史、特に江戸時代の18世紀以降の絵画を専門としています。もともとは洋風画と言われている秋田蘭画という画派の研究をしており、そこから派生して、大名文化、大名庭園などの関係も勉強しました。川と文学で思い出したのが、與謝蕪村の「夏河を越すうれしさよ手に草履」という俳句です。
 一番好きな川の絵は、明治の浮世絵師である小林清親の「東京新大橋雨中の図」、東京両国の「百本杭暁景」、そして川瀬巴水の大根河岸の絵です。明治以降の浮世絵版画の中に特にノスタルジックな、何か自分自身の思い出と重なるものを感じます。
 江戸の絵画で一番にお勧めしたいものが、19世紀前半に江戸で松平定信に仕え、19世紀の江戸画壇の中枢となった画家、谷文晁です。紀州熊野の「熊野周航図鑑」という絵があります。もう一つが、木下逸雲という画家の「舟行の耶馬渓図巻」という大分の耶馬渓をかきました図巻があります。あとは、池大雅という画家で、18世紀の方ですが、大変な愛妻家でもあり、1762年ごろにその愛妻・玉瀾のために描いたと言われる「富士十二景」という絵があります。その中の3月と5月の、特に5月の方に、「平原滄溟」という画題を持った一図があります。それは、富士の手前に緩やかに、黄瀬川(?)が流れており、その脇に、一見棚田とも見える初夏の田に農民たちの田植えが描かれています。池大雅はアクの強い絵画が一般的には知られていますが、大変さわやかで、近代絵画を思わせるようなものになっています。
 江戸の絵画の中で、河川の絵画ということで最高傑作は、円山応挙が絶筆として亡くなる1カ月前に描いたとされる、両方の屏風を合わせると10mにも及ぶと言われます「保津川屏風」です。

○尾田委員
  もともと生まれ育ちが奈良です。今の明日香川、佐保川を見ると、ある意味ではショックを感じます。ああいう川がずっと今後続いてしまうと、私どもの子供、あるいは孫は、万葉にしても、そういう世界を自分のものとして理解できなくなってしまう恐れを感じています。
 今回の川と日本文学の懇談会は、日本の芸術の中で川がどういうふうに扱われ、今後いかに残すとか、新しい時代の中で日本民族が今まで持ってきた自分たちの歴史を理解できるようにすることは大きなテーマだと思います。
 能楽に少々興味があります。お能の中で直接川のつくのは「隅田川」と「桜川」と2つあります。「桜川」は茨城の筑波学園都市に流れている桜川に題材をとった作品でどちらも狂女ものです。
 日本人の情念というか、思いの深いところは、川のイメージと重なっていると思います。「隅田川」にしても、大念仏が唱えられるのは川のほとりです。「桜川」もやはり川を題材にとって、親子、母と子の情を歌っています。また、「道成寺」も、日高が、蛇身との関係で、感情の奥深いところに、川の存在を持っています。水が流れている空間、夜見れば本当に怖いというような空間が影響しているのでしょう。
 国際的な水の問題の取り組みということで、2003年に日本で「世界水フォーラム」というのを開くことになっています。水、川との関係というのは、世界にそれぞれ受けとめ方があります。しかし、今なら、まだいろんな川づくりの中で、日本人が持っておる感性を伝えられて、日本人の感性がそのままでわかるような川づくりをできる。ぎりぎりのタイミングだと思います。

○川本委員
  散歩が大好きです。この場所(狸穴)もかの永井荷風の住んでいた偏奇館のすぐ近くです。川を歩くのも大好きで、利根川の土手を真夏に炎天下歩いたこともあります。盛岡では、新幹線の盛岡の駅をおりて商店街のほうに向かって歩いたら北上川が流れていて、なんとそこで子供たちが泳いでいるのを見てびっくりしました。また川で泳げることができたらいいなと思って、この会に参加しております。
 荷風が好きです。荷風も川が大好きだった人で、隅田川のほとりもよく歩いたようです。東京の川の中で大好きなのは、荒川放水路です。荒川について書かれた本は少なく、何か忘れられた川です。それでも永井荷風の「断腸亭日乗」を読むと、昭和の初めに荷風が足しげく荒川放水路に通って、日記に紹介しています。あの茫漠たる風景に惹かれ、スケッチまでしています。岡本かの子の『渾沌未分』という、川で泳ぐのが大好きな少女を主人公にした小説があります。最後、荒川でこの少女が海に向かって泳いでいくところで終わっています。これは非常にいい小説だと思います。
 川をテーマにした作品というのは多くて、多摩川を舞台にした室生犀星の『あにいもうと』、田山花袋の有名な『田舎教師』あります。利根川のほとりの風景が実によく描かれています。その他、諫早湾に流れる本明川の河口を舞台にして描いた、芥川賞を受賞した作家で、野呂邦暢さんの『鳥たちの河口』、これは非常にいい小説です。
 そのほか、映画も大好きなので、映画の中に描かれている川の話になると、これもたくさんあります。

○五味委員
  日本中世史を研究していますが、最初の卒業論文というのは、領主による開発がどういうふうに行われているか、河川の周辺の水を取り入れながら、どんな開発を行っていたのかというものです。エール大学の朝河貫一氏が西洋と日本との比較のために使われた入来文書*1というものがあります。その関係から、川の開発、川周辺の開発というものに、研究の初発の段階から関わっていました。その後、いろいろ研究対象が変わり、中世社会というようなものを探っていくことになりました。
 最近は『梁塵秘抄』という、今様、当時の歌謡曲を探っており、『なごみ』というお茶の雑誌で連載しています。『梁塵秘抄』の中では、「淀河の底の深きに鮎の子の鵜といふ鳥に背中食はれてきりきりめくいとほしや」という、遊女が淀川の船に乗りながら歌っていると思われる歌があります。自分の境涯を鮎の子に託しながら歌っています。貴族的な発想というよりは、民衆的な発想のものが多いように思います。今回、『梁塵秘抄』の風景の中から、どんな日本人が、どんなことを考えていたのかというのを考えれば、多少責が果たせるかと思っております。

○委員長
  私にとっても川は非常に思い出が深いです。最上川の支流の寒河江川という川で、映像という以上の感覚を憶えている。あそこで日本の縄文以来の歴史を、我が体の中に受け継いだとも思えます。
 川というのは、我々日本人にとって、非常に深い記憶の中にある最も原始的な、下部意識にまで入っている要素でしょう。水の経験というのは、風の、空気の経験とか、火の経験と同じぐらいに、人間にとって重要な経験です。川を考えることは、つまり川を通して世界の文化の根本に、普遍の文化の根本にさかのぼることもできます。人間にとって、地水花風、それがどういう意味を持つのか、それからどんなふうな想像力を人間に与えて、想像力の力を培ってきたものかということを考えるところまで行けばいいと思っています。

○千田委員
  専門は歴史地理学で、地理学にアクセントがあります。主として日本、朝鮮半島、中国の古代、あるいは中世の都市途上論をやっています。日本の地域空間というのは、原初的には川というものを骨格としてつくり上げられました。
 私は奈良生まれの奈良育ちです。邪馬台国も、いまや奈良県であることはもう動かないような状況ですが、邪馬台国があったところは大和川の上流である初瀬の川です。さらに、その大和川の一つの支流をのぼっていくと、明日香川ということになりますが、行くたびに明日香が変わってきています。いいように変わっているのか、悪いように変わっているのかは、今度現地へ行かれたら一目瞭然だと思います。その風景というものが、かなり土木工事の影響が入ってきています。 次回、現地をご案内して明日香を直接見ていただきたいと思っております。

 
○高橋委員
  生まれは新潟県の中ほど、長岡市の近くの田舎です。信濃の国、信州というのは、川の向こうに憧れの世界があるという思いがあります。この5月の末に、十日町から入り、信濃川をさかのぼり、小諸に行きました。藤村ゆかりの宿に泊まりました。千曲川のスケッチや千曲川旅情の歌など、いろいろ藤村は書いています。「千曲川いざよふ波の岸近き宿にのぼりつ」。千曲川がすばらしい風景を取り戻すような、そういう参考になるようなお話が伺えたらと思っています。
 今、若い人たちも、意外なところから川に興味を持っていると思います。うちの学生の1人は利根川の水神様のことを調べています。もう1人は、奥沢に蛇祭りがあり、それが水にちなんでのものだというのがわかったので、それを調べています。自分の住んでいる地域と、そこの水との、あるいは川との関わりを持っていこうとしている若い人たちがいるについて思うところがありました。

 
○樋口委員
  風景とか景観の研究が専門です。専門は土木だが、相当自分なりに内面的には苦労しました。風景とか景観という感性的、情緒的な世界と、土木工学という、それらを捨象した論理を組み立てていく世界と、そのずれというのを常に感じてやってきました。
 工学の論理もそれだけで自立するものでなくて、もっと違う感性、トータルなものとして環境、あるいは我々の住んでいる棲息地というようなものをもう一度見直していくという視点というのが大事なのではないかと思います。
 私自身は、育ったところが利根川の近くです。会の川用水路で小さいころで泳いでいました。川本委員が挙げた『田舎教師』の舞台になったところに住んでおり、ほぼ似たような風景が残っています。ただ、利根大堰ができたために、下流の水質はかなり悪化しており、少し寂しい思いをしています。今は、山の中の川のほうに関心があります。
 折口信夫の『水の女』に一番興味があります。水の神と女性、天皇制とも関わって、非常に面白い弁論文です。それを起点にして、日本人と水との関わりというのを考えたことがあります。日本人と水と神との関わりをとらえないことには、水の問題はよくわかりません。
 絵では、横山大観の「生々流転」だ好きです。迫力のある天と地がもう一度一体化するという世界、そういう一つのシステムというのが川ではないかなと感動した覚えがあります。
 谷崎潤一郎の『芦刈り』に描かれていた風景は、川の下流ではなかったかなという感じがします。何かモヤッとしていて、上流の川と違った何か面白い風景だと思います。

○光田委員
  少年のころは俳句をつくっており、少年俳人でした。坪内稔典委員は7歳上でしたが、京都の先輩俳人として輝かしい方であって、仰ぎ見たこ記憶がまだ鮮烈に残っています。
 私が所属していたのは、石田波郷という江東区の砂町に住んでおられた方が出していた『鶴』という雑誌です。俳句雑誌をごらんになった方はわかると思いますが、近世の名残で、名前の上に住所が載ります。そこに「松山」と書かれるのが嫌で、何とかこれを偽ろうと思いました。
 俳句雑誌というのは、住所と名前を偽ることは容易です。送られてくる雑誌に挟み込まれている投句用紙ないし短歌を書いて投函することが必要十分条件であって、どのような名前、どのような住所が書かれていようと関係がありません。全くすばらしい制度です。句をつくっている人間がどこに住んでいることになっていようが、化けようが全く構わないわけです。
 当時、学校で使っていた地図帳の後ろの地名を見て、日本で一番美しい名前の土地に住んでいることにしようと考えました。名前も、自分の好きな名前にしようというので、地名索引をしらみつぶしに見ました。先ほどの芳賀先生のお話でちょっと驚きましたが、私が選んだのは寒い川のほとりという名前の地名であり、冴えわたる川のほとりに住むことにしようしました。私は寒河江在住の少年俳人として、寒河江川と月山を何年にもわたって書きました。
 今日ここには久保田先生と、今日来ていらっしゃらない坪内先生のお二人がいらっしゃいます。久保田先生は日本の和歌を中心に活躍されている方、坪内先生は近代を中心に古典も俳句を中心になさっている方です。私が専門にしているのは、そのお二方をつなぐ連歌と俳諧です。
 これは大勢の人間が集まって意識の流れをつむいでいって、句を続けていくとものです。もし流れる川が源流から河口までそのまま文学になると、連歌・俳諧になります。それが中世に非常に愛されて、近代は全く愛されないというのも、また不思議な現象です。
 ところで、俳諧のほうの代表である芭蕉と蕪村という2人がおります。これが同じ川の水を飲んで育ったということをご存じでしょうか。芭蕉が生まれたのは、伊賀上野の服部川という小さな川の堤防の上の高台の家です。服部川は流れて木津川になり、木津川は流れて淀川になります。一方、淀川が大阪湾に注ぐ毛馬という堤防の、おそらく堤防上の家に生まれたのが蕪村です。同じ水をこの二大俳聖は飲んで育っています。不思議なものです。
 芭蕉という人の辞世は、まだ「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」が最後の句だと言われていますが、その翌日にもう一句、「清滝や波に散り込む青松葉」と詠んでいます。その「清滝や波に散り込む青松葉」は、京都の清滝川に松葉が青いままに散り込んでいくというものです。これは、先ほど尾田委員が挙げた桜川のイメージをとったものです。桜川は桜の花びらが川に散り込む、それを母親がすくい取るというイメージです。それに対して芭蕉は、自分は青い松葉が清滝の川に散り込んでいくと歌いました。川を母なるものと見て、そこに還っていく自分というものを、面影の中で造形したということになります。川は、芭蕉にとって、生家のそばを流れていた服部川のイメージが、最後に母になったのだと思います。
 蕪村のほうは、「花いばら故郷の道に似たるかな」という句がある。また、「うれいつつ丘にのぼれば花いばら」という句もある。「丘にのぼれば」であり、また、いばらが育つというのはあまり人が頻繁に行き来するところではありません。「故郷の道」というのは、もしかすると、堤防の河川敷などかと思います。いばらの花というのは、日本に咲く花で最も白く輝く、発光するカンディラの色です。これは、日本の文学のイメージの中では女のおしろいの色です。ですから、「花いばら故郷の道に似たるかな」という「花いばら」は、きれいにおしろいを塗って、目の前にいた、おそらく自分の母、ないしその面影の人の象徴だろうと思います。だからこそ、「うれいつつ丘にのぼれば花いばら」という、おまえは何かつらいことがあるのかと、花いばらが語りかけてくるというイメージだろうと思います。
 川のそばに生まれたこの2人の俳人が、やはり川を母として一生をイメージしたということは意味のあることではないかと思います。

○宮村委員
  文学、芸術という中で、現代的なものを批判されたので、ちょっとばかりカバーさせていただきます。棟方志功の「奥の細道」というものがあります。晩年の、一番最後の作品集ですが、「奥の細道」の句碑のあるところへ行って版画を彫りました。その中で、芭蕉の「奥の細道」には入っていませんが、信濃川の洪水をなくすためにつくった新潟の大河津分水へ行って、版画を彫っています。大河津分水は建設省も力を入れており、資料館があるが残念なことにその絵は収蔵されていません。
 もう一つは、関東震災の後の隅田川の復興計画について、藤牧義夫の絵巻があります。1年かかってつくって、つくったと同時に行方不明になって亡くなります。その絵は東京都の美術館と館林の美術館にあります。
 先ほど荒川放水路について、何にもなく寂しいという話がありましたが、「キューポラのある町」という映画があります。「いつでも夢を」もそうですが、吉永さゆりが主演です。舞台は開削されてから35年目の荒川放水路です。今、70年目です。ちょうど真ん中で、荒川を見ると、人間がつくった川でも、30年ぐらいはやっぱり人工の川という感じだが、ちょっと置いておくとすごくよくなるんだなということが分かります。同じ舞台を、今「金八先生」の舞台にしているので、3つ映像を並べておくといいかなと思います。
 
 
*1 鹿児島県薩摩郡入来町において、宗家,庶流,家臣家に伝わる中世文書と清色亀鑑等の総称。同文書には,綸旨,軍勢催促状,誓約書,譲状など500点余りが集約され、現在は,東京大学史料編纂所等が所有。
 

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