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河川局

歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会 -日本文学に見る河川-

歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会
-日本文学に見る河川-
第一回議事録

平 成12年8 月24日(木)
14:00〜16:00

場所:中央省庁合同会議所

3.話題提供
○久保田委員
  私は出身は東京ですが郊外なので、隅田川の界隈というのは一種の異国のような感覚です。川本さんの『荷風と東京』を拝見すると、永井荷風は山の手の人間ですが、山の手の人間として下町を愛し、下町に親しんでいたことが分かります。
 私の専門は中世の和歌になります。和歌は従来から現代まで短歌として伝統があり、いろいろな時代の歌に関心を持っています。歌屋と自称しています。中学生のころから近世文学の一部といっても芝居なんかに親しんでいます。特に隅田川の文学を考え始める、きっかけとなったのは、一首の歌と長唄の一曲でした。
 その一首の歌とは、鎌倉時代も終わりぐらいに選ばれた勅撰集、『新後撰和歌集』に載っている法印清誉というあまり有名でない歌人の「都鳥幾代かここに隅田川ゆききの人に名のみ問はれて」という歌です。長唄のほうは、江戸も末にこの清誉の歌をそっくり最初のところに取り込んでいる『都鳥』という曲です。
 20年ぐらい前ドイツにいて、「罪無くして配所の月を見る」とはこんなものかじゃないかと思いましたが、自分の専門から解き放され、昔読んだ荷風とか鏡花を読み返してみると、無性に隅田川が見たくなりました。
 日本に帰り、日本文学風土学会で、ドイツで読み返した荷風の『すみだ川』について話をした。久保田教授から近代文学の話を聞くとは思わなかったとを言われました。その後も機会があるとそんな話をし、『新日本古典文学大系』などに短い文章を書きました。ここで最初に引用したのは、例の『江戸名所図会』です。これは隅田川界隈の文学伝統を考える際には必見の文献と言えます。
 東京大学在職中は中世文学担当で、教室ではこんな道楽はできませんでした。先輩の教授に三好行雄教授という近代文学の大家がおられ、その下で近代のことなんて怖くて話せません。三好先生が退官され、自分自身も定年、退官することになり、最後の年は少し勝手なことをしてもいいのではないかと思い、文学史の1つの試みと称し、隅田川を軸に近代から近世、中世、中古とさかのぼる形で、好き勝手なことを1年やりました。
 近代で取り上げた作家は永井荷風、広津柳浪、それから正岡子規、泉鏡花、谷崎潤一郎、芥川龍之介などです。近世は、ほとんど浄瑠璃、歌舞伎に限定しました。中世になると、京都から文化人が東国に下り紀行文を残しています。例えば『北国紀行』とか『廻国雑記』、そんなものを取り上げました。だんだん時間がなくなり、自分の専門の和歌については話す時間がなくなり、駆け足でやりました。そのときのメモに基づく小文が「「隅田川の和歌」表現史序説」。物々しい名前がついていますが、簡単な年表だけのものです。
 ただこんな年表もつくってみると、本当に京都の人にとっては遠いはるかかなた、鳥が鳴く東に流れている大川である隅田川、それが歌枕としてだんだんと定着していくまでの過程というのが透けて見えてきたような気がします。歌枕という概念が確立してくるのが中世だと思います。この場合の中世というのは鎌倉時代ですが、そこまでをたどって、それで結局、時間切れになってしまいました。
 歌枕としての隅田川が、人間がその周辺で実際に生活する現実の川として認識されてきた段階で、それをどう歌うか、歌枕として歌っていた隅田川と現実の隅田川を歌う場合とは違うはずだろうと細かく考えるのが本来の専門ですが、とてもそこまでいっていません。
 ただ、本を見ているだけではわからないことがあり、そのころから努めて歩くようにしました。荷風の『すみだ川』の長吉は東京の人間なので、人に道を聞くのはどうも嫌いだとあります。私も長吉と同じで、人に道を聞くのはおっくうです。ですから、ただやみくもに随分いろいろ探し歩いたようなことがあります。
 浜町に清正公という小さなお寺があります。詳しい地図でないと出ていません。浜町公園の一角にぽつんとあり、これが泉鏡花の小説の『鴛鴦帳』で重要な場面になります。また、私たちの世代は遊廓を全然知りません。有名な洲崎の遊廓というのがよくわかりません。鏡花の『芍薬の歌』という作品の重要な場面で、どうしても押さえておきたく、行ってみたら、遊廓の面影はなく遊歩道になっていました。
 現在の白百合女子大学に移ってから、演習という形式で2年ほど隅田川の文学を修士課程の大学院生に自由に報告させました。中には島崎藤村とか堀辰雄なんかについて報告した学生もいましたが、この頃の学生は、推理小説をよく読んでおり、江戸川乱歩、それから横溝正史、宮部みゆきなんていう、そういう作家の隅田川が出てくる作品をよく取り上げます。
 そんなことをやっているうちに、岩波書店から新版の荷風全集が出るということで、月報に短い文章を書きました。ちょうど『日和下駄』をおさめている間の月報でしたが、そこで『日和下駄』や『深川の唄』、『すみだ川』なんかに引っかけて短い文章を書きました。そしたら、その編集者から隅田川の文学ということでまとめてみないかということを言われ、2年ぐらいかけてできたのが、参考資料にある岩波新書の『隅田川の文学』です。
 参考となる文学作品としては、東京日日新聞社編の『大東京繁盛記下町編』です。これは大変楽しい本です。執筆者が豪華メンバーで、芥川龍之介、泉鏡花、北原白秋、吉井勇、久保田万太郎、田山花袋、岸田劉生の7名の作家文人が、関東大震災直後の東京の復興ぶりを実際に現地を見て歩いて書いたルポルタージュです。連載されたのは昭和2年で、出ましたのは昭和3年です。芥川のほとんど終わり近い文章になります。この芥川の『本所両国』、それから鏡花の『深川セン景』というのは、私は大好きなものであります。この単行本は挿絵入りであり、それが楽しいと思います。最近平凡社から復刻版が出たようです。山の手編と下町編と両方です。
 鹿児島徳治の『隅田川の今昔』という本が72年に出ています。都立葛飾高校の先生をやっておられた方で、地図入りでして、俳句や和歌の引用が非常に多い、そういう点で隅田川の文学を考えたときに便利な本だと思います。それから鈴木雅臣さんの『江戸の川・東京の川』、隅田川流域の歴史と社会なんかについて詳しく書いていらっしゃいます。
 かのう書房というところから出されている『隅田川の歴史』。89年に出されたもので、11人の方の文章をおさめています。宮村委員が『隅田川の移り変わり』という文書をお書きの本で、文学関係では、半藤一利さんの『オール娘に花が散る』、加太こうじさんの『歌、演劇、講壇、落語などの隅田川』がなかなかおもしろい。
 鶴見誠の『隅田川随想』。明治37年の生まれなので、相当な年だが、今でも元気で、かなり斬新というか、思い切ったことも書いています。平安時代の隅田川の渡しは今の春日部市の花積のオモヤセの渡しであるということを強く言っています。隅田川のあの辺に梅若寺があるのはおかしいということを書いています。『江戸名所図会』の記述もところどころ間違っているということを言っています。
 高見順が編さんした『文学に見る日本の川』というのがあります。サブタイトルが「隅田川」です。これは昭和35年に出ており、21人の人の文章を集めたものです。先ほどの『大東京繁盛記』のうちの吉井勇や北原白秋の文章もおさめられていますが、有名な芥川龍之介の『大川の水』も入っています。それから編者自身としては、これは『東京新誌』といいますが、『柳橋新誌』のもじり、そのうちの一部が入っています。姉妹編として、まだ見ていませんが、瀧井孝作編の『文学に見る日本の川、多摩川』というのもあるようです。
 中尾達郎という人の『江戸隅田川界隈』という本が96年に三弥井書店から出ています。大正11年生まれで、慶應で折口さんに習ったと記されています。民族学の立場からも書いているそうですが、特に近世文学における隅田川に非常に詳しい本です。
 私の小さな本では分量が非常に限られていますので、取り上げたいと思いながら、見送ったジャンルがたくさんあります。近代文学では、近代短歌での隅田川、近世和歌、特に江戸派などの隅田川の歌等々触れるスペースがありませんでした。江戸派の歌人にとっての隅田川は単なる歌枕ではなくて、現に自分が生活している一部の隅田川になると思います。
 京都の歌人である香川景樹がそのころ江戸にやってきて、現実の隅田川を見ています。その香川景樹の歌う隅田川と村田晴海、橘千蔭らが歌う隅田川とどう違うかはおもしろい問題だと思いますが、そのことは触れられていません。近代、現代の作品も大事なものを随分外しています。例えば小山内薫の『大川端』。佐藤春夫の『美しき町』は、中洲に理想郷をつくろうという物語です。それは夢物語で終わる話ですが、こんなのも隅田川の文学として加えたいと思います。
 近世も演劇だけに限っています。演劇は、近世の音曲類も必然的にいろいろかかわりがあるので、もっと考えなくてはいけませんでしたが、この本ではほとんど取り上げていません。ごく一部だけにしか取り上げていないので、今回を機会に、「隅田川の音楽 略年表稿」というのをつくって、本日の資料に入れていただいたのですが、これもまだ一部です。
 小唄端唄俗曲に隅田川もたくさん出てきますが、これらは年代が確定できないため、年表形式に入れようがありません。例えば荷風の『すみだ川』の初めのところに明らかに影響を及ぼしていると思う『夕暮』という小唄端唄がありますが、年表に入れらないので入れていません。
 音楽ですと、当然近代の音楽、例えば武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲の『花』、(明治33年)も入れるべきで、歌謡曲のたぐいはたくさんあります。加太こうじの『明治一代男』、歌謡曲の『隅田川』、昭和12年だそうですけれども、こんなものまで入れて、隅田川の音楽をもう少し体系的に見たいと考えています。この年表の中で、隅田川界隈の雰囲気をよく伝え、よく表現している曲を一、二挙げますと、清元の『梅の春』。これは荷風の作品にもよく出てきます。それから常磐津の『乗合船』、この辺がいかにも隅田川の音曲だという感じがします。
 『梅の春』は情景描写で、隅田川界隈の地名の大事なスポットがきちっと押さえられて、歌い込まれています。『乗合船』は、風俗舞踊の浄瑠璃で、隅田川界隈に生きた市井の人の生活感情がよく出ています。
 安田武、多田道太郎両氏に『「いき」の構造』を読む』という本がありますが、この中で安田さんがこの常盤津『乗合船』について論じています。大変おもしろい文章ですが、下品だといっておられます。常磐津の文句をあまり上品ではないのですが、それは亡くなった名人の松尾太夫の語った『乗合船』は節回しといい、語り口といい、野卑で下品である。下品でいて、それで実に粋なんだ。だから粋というのはそういう要素を持っているんだ、と安田さんが説いています。
 隅田川は江戸文学では、自殺、心中の名所として扱われています。そういう心中の曲としては、清元の『お半』、同じく清元の『お染』等があります。本来は上方の芝居で、その上方を江戸の隅田川に移しています。文化現象としてもおもしろいと思います。
 荷風の『すみだ川』に重要な曲として、清元の『十六夜清心』がある。これも芝居の上では鎌倉の稲瀬川というふうに称していますが、明らかに隅田川であり、一種の装置としておもしろい。
 隅田川縁はよく人殺しや殺伐な事件も起こりました。有名なのは、明治20年の6月に起った花井お梅の事件です。酔月楼女将のお梅が浜町河岸で箱屋の峰吉というのを殺す。このことを語った新内があり、年表に入れようとしたが落しました。心中事件があった翌年に新内の「酔月情話」というのが作曲され、現在、これは流行曲であると、平岡正明の『新内的』という本に書いてありました。
 清元『夕立碑』、これも三囲あたりで実際にありました殺人事件を戯劇化したものです。これは黙阿弥であり、いわゆる散切り物の芝居の切りに使う清元です。この芝居は私は見たことはありませんが、風俗史的にはおもしろい。
 こんなことを考えると、当然、隅田川の演劇、戯曲なんかの年表もつくる必要があります。当然、昔から現在まで物語、小説、その他随筆、さらには地誌なんかを全部網羅して、隅田川文学年表というものをつくってみたいなという気がしますが、これはいつまでたってもできないと思います。また、切りがないなという気もします。
 これも昔読んでもう忘れていましたが、ついこの間、大佛次郎の『赤穂浪士』を2晩かかって読んだ時に、当然、吉良上野介の屋敷が出てくるあたりが書かれている。これも隅田川の文学に入れてもいいかという気がします。とても生涯読み切れない気もしますが、池波正太郎とかたくさん読む必要があるわけです。
 隅田川と申しますと、だれでも「粋」な情緒というものを連想すると思います。その「粋」について論じたのは、言うまでもなく九鬼周造です。九鬼周造の残した詩歌を見ていると、この人は大変エピキュリアンであることがわかります。『「いき」の構造』ばかり初め読んでいたので、あまり知りませんでした。相当遊んでいる感じはしていましたが、歌を読むと本当に驚きます。児島喜久雄とともに小唄勝太郎や市丸なんかを座敷に上げて、随分酒杯を重ねています。
 例えば、「大川の水面に粋ななげしまだ移りてくるる柳橋かな」、「大川に枕のごとき物浮けば瓶のほつれを歌う市丸」、こんな歌を残しています。九鬼周造の大変ユニークな哲学は、結局、この隅田川の情緒というものをさらに取り込んで構成されたものではないでしょうか。
 このようなわけで日本文学の、あるいは日本芸術の根本的な美意識というものを考えたときに、隅田川だけではなく、川、それから水というものが大事な意味を持っているのではないかというふうに考えています。
 私の本を読んだ同業者の関西の方で、島津忠夫は自分は淀川の文学を書きたくなったと言っていました。これはやはり大事ことだと思います。淀川水系というか、賀茂川、宇治川、大井川、桂川等を含めて、淀川水系の文学というものについて、これはぜひ光田さんあたりを中心にしてやっていただけるとありがたいと思っています。
 

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