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河川局

歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会 -日本文学に見る河川-

歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会
-日本文学に見る河川-
第十回議事録

平成17年2月28日(月)


 歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会
-日本文学に見る河川-
第十回議事録


1.開会の挨拶
 
○事務局
   それでは皆様おそろいになられましたので、ただいまから、「第10回歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会」を始めさせていただきます。
 開会に当たりまして、まず、河川局次長よりごあいさつ申し上げます。
 
2.河川局次長挨拶
 
○河川局次長
   局長は、ただいま国会に呼ばれ答えておりますので、かわりまして私のほうからごあいさつをさせていただきます。
 本日は、ご多忙のところご出席を賜りましてありがとうございます。この懇談会は平成12年に設置して以来、今回で10回目を迎えるところでございます。これまで各委員の先生方におかれましては、日本あるいは外国の文学、芸術などを題材とした貴重なお話をいただいてまいったところでございます。私どもといたしましては、川と日本文化とのかかわりはどうであったかを見つめ直して、歴史と風土の観点から望ましい川とは何かを考える、その場合のよりどころとさせていただいているところでございます。
 本日は、東京大学名誉教授の渡邊利雄先生を講師にお招きいたしまして、アメリカ文学と川とのかかわりについてご講演をいただくこととしております。国による文化の違い、あるいは川や清らかな水に対する人類共通の感性などに思いをいたし、我が国の川について改めて考え直すことは非常に重要なことであり、この分野にご造詣の深い渡邊先生のお話に期待を寄せているところでございます。
 私ども河川局では、今後の川づくりに当たりまして歴史・文化の観点を重視し、具体的な施策に展開していきたいと考えているところでございます。そこで、先生方におかれましては、今後、どのような観点からどのような川づくりの施策を講じていくべきかについてご議論をいただきまして、本懇談会の提言としてまとめていただければと希望しているところでございます。
 本日は「歴史・文化のかわづくり」の進め方についてもご提案をさせていただきたいと思っているところでございます。本日は、限られた時間ではございますが、ぜひ忌憚のないご意見、ご議論を賜りますよう、よろしくお願いを申し上げます。
 
3.話題提供
 
○事務局
   本日、ご出席なさっている委員の方々でございますけれども、8名の方々でございます。お手元に配布している資料で出席者名簿をお配りさせていただいておりますので、ご紹介は省略をさせていただきたいと存じます。
 なお、本日、議事次第にありますとおり、「アメリカ文学と川」と題しまして渡邊利雄東京大学名誉教授にご講演を賜ることにしてございます。先生はアメリカ文学につきまして研究、造詣が深い方でいらっしゃいます。主な著書といたしましては、『フランクリンとアメリカ文学』、また『読み直すアメリカ文学』などがございます。また、翻訳につきましてもマーク・トウェインの自伝でございますとか小説でございますとか、多数あるということでございます。本日はどうぞよろしくお願いいたします。
 それから、本日お配りしている資料につきまして、確認をさせていただきます。まず、懇談会の議事次第、それから座席表、出席者名簿がございます。その後ろでございますけれども、渡邊先生に用意していただきましたレジュメで2ページほどのものがございます。それから、A3版でございますが、資料−1といたしまして主に英語で書かれたものでございますけども、英語のものの抜粋がございます。それから資料−2といたしまして、「『歴史・文化のかわづくり』に関する提言のとりまとめについて」という資料、クリップどめのものがございます。その後ろでございますが、「歴史・文化に根ざした郷土の川づくりのための調査手引き書(案)」ということで配布させていただいております。過不足がございましたら、ご連絡をしていただければと思います。
 それではよろしいでしょうか。
 本日でございますけれども、議事次第にのっとりまして進めさせていただきたいと考えてございますが、まず、「外国文学、芸術における川」ということで渡邊先生から1時間ほどご講演をいただきまして、その後、この題につきまして議論をしていただきたいと思います。残った時間におきまして、「歴史・文化のかわづくりについて」ということで、今後の方策につきましてこの懇談会でご提案をいただきたい、ご提言をいただきたいと考えたものがございますので、それの説明をさせていただきたいと思っております。
 それでは、芳賀座長、よろしくお願いいたします。
○芳賀委員長
   きょうはほんとうに非常に高い出席率で、だんだん終わりに近づくと出席率が高くなってきたという感じで、どうもありがとうございます。今ご紹介ありましたように、きょうは渡邊先生にたっぷりと、マーク・トウェインその他を中心として、ミシシッピーですか?
○渡邊臨時委員
   はい。ミシシッピーです。
○芳賀委員長
   中心として、「アメリカ文学と川」ということで、非常に興味の深いお話を伺えることと思います。渡邊先生、どうぞよろしくお願いいたします。
○渡邊臨時委員
   よろしいでしょうか。ただいまご紹介いただきました渡邊でございます。どうぞよろしくお願いいたします。
 私は、ちょうど10年前、東大を定年いたしまして、昨年の3月には日本女子大学を2度目の定年をいたしまして、第一線を退いているので、参考になるお話ができるかどうかちょっと自信がないんですけれど、どうぞよろしくお願いいたします。それから、お手元にお配りしてあります資料ですけれど、ほとんど英文なんです。ただ、これはお話は翻訳でいたしますけれど、翻訳が間違っている可能性がある、そういうことで、終わった後、私の話は大体英語に沿っていたしますので、間違っているじゃないかというようなことがあったら、英語のほうでご理解いただきたいと思っております。
 そういうことで、お手元に要旨というんでしょうかレジュメをお渡ししてございますけれど、お話は大体5つぐらいのトピックを考えております。第1はマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』。あるいは、『ハックルベリー・フィンの冒険』について、多分、20世紀の英語圏の最大の詩人と言っていいと思いますけれど、T.S.エリオットという詩人が非常にすぐれた序文を書いている、そういうことを中心に、レジュメに最後にありますけれど、川というものを神話的なレベルで考えてみたいということが第1でございます。
 第2は、マーク・トウェインという人は、もちろん『ハックルベリー・フィンの冒険』その他で有名ですけれど、ノンフィクションで『ミシシッピー川での生活』と訳して書きましたけれど、"Life on the Mississippi"。二、三種類の翻訳がありまして、「ミシシッピーの人びと」、あるいは文字どおり「ミシシッピ河上の生活」といろいろありますけれど。
ここでは、ここにちょっと書いてありますけれど、1つは、川というものが社交の場というんでしょうか、あるいは情報源であったという、そういう面。それから、これはよく指摘されることですけれど、川とか世界は一冊の書物であると、そういうことが言われますけれど、マーク・トウェイン自身も、もちろん現代の批評の理論など全く知らずに、ミシシッピー川は一冊の書物である。それは読めば読むほど、ロマンスというんでしょうかロマンチックな面が消えて、恐ろしい現実があらわれてくる、そういうことを言っているところがございます。
 それからちょっと戻りますけれど、資料の1頁のところではT.S.エリオットが、ミシシッピー川あるいは川というものは偉大な川だということを言っているんですけれど、日本では川というものを神というふうにとらえることがあるのかどうか。来るときに見てまいりましたら、水神というんでしょうか水の神というのはあるんですけれど、見ましたら、1つは川を守る神様ということで、川そのものではない。それからもう1つは火事を防ぐ、そういう火の用心の神様というのが出ておりまして、川そのものがいわゆるゴッドというようなとらえ方があるかどうか、お聞きしたいと思ってます。
 そしてさらに、日本ですと利根川が坂東太郎、それから筑紫次郎、四国三郎というふうに、これは神様じゃないんですね。そういう取り上げ方がされている。それに対して、多分、山のほうは神社のご神体というようなことがあるんじゃないかと思いますけれど、西欧では川そのものが神というふうになっている、そんなお話をしたいと思っております。
 それから3番目は、やはり20世紀の川というものをお話ししたほうがよろしいんじゃないかということで、有名なウィリアム・フォークナー。彼はやはりミシシッピー州出身ですから、いろいろなところで川が出てくるんですけれど、その中の『野性の棕櫚』。文字どおりの"The Wild Palms"となっておりますけれど、これは実は出版社がつけたタイトルで、作者自身のタイトルとは違っているらしいんです。そして、全く関係のない2つの物語を組み合わせて1つの小説にしている、非常に実験的な小説なんですけれど、その中にやはり川が、ことに洪水の川が描かれている。
 そして、そこで私が受けた感じは、人間はそういう川の洪水にいくら抵抗しても、これはa losing game、負けが決まっているゲームである、そういうとらえ方をしていて、あまり参考にならないんじゃないかという気もいたします。
 さらに彼、フォークナーの中では川というのは、これは要するに時間のメタファーになっていて、絶えず流れているけれどとらえることができない、人間は抵抗することのできない何かというようなとらえ方をしている、そういうことをお話ししたいと思っております。
 それから4番目には、これは文学ではないんですけれど、実は私の頭の隅っこのところに、1993年ですからもう12年前ぐらいになりますけれど、アメリカ、ミシシッピーは大変な洪水になっている。それで資料にございますけれど、『朝日新聞』にも大きく取り上げてありますし、『Newsweek』という週刊雑誌、そこでも数ページにわたって取り上げている。そしてこれを読むと、やはり500年に1度といわれるぐらいの洪水であって、そういう洪水に対して、これはやっぱりお手上げであるというような、これはもちろん記者の見方ですけれど、印象を受ける、そんなもの。これは多分、時間がないと思いますので飛ばすつもりですけれど、ご参考までということでコピーを取ってきてございます。
 そして、この1から4まではほとんど全部、川は恐ろしい存在である、人間の抵抗などはもうどうしようもないんだという感じが非常に強い、そういう面が出ているわけですけれど、その一方では、アメリカには自然ないしはその中心にある川、これは文明に傷ついた、ことに若者がそこへ行ってそして人間として立ち直る、いわゆる癒しの空間、そういう伝統がありまして、その1つの例として、これも有名なヘミングウェイの"Big Two-Hearted River"。これも普通は「大きな二つの心臓の川」と、何だか心臓の川でいいのかどうか妙なタイトルになっていますけれど、これにちょっと触れてみたいと思っております。
 ただ、これは2つの解釈がありまして、1つは第一次大戦で、肉体的でなくて精神的に傷を負った兵士がアメリカへ戻ってくる。そして日常生活にとけ込むことができない、そういう青年がミシガン州の奥地の川へ行ってマス釣りをする。そして最後のあたりは非常にアンビバレントな、あいまいな表現になっていて、一部の批評家は、これである救いはあったんだというふうに解釈していますし、その一方では、川、湿地帯が出てくるんですけれど、何だか不気味な世界として描かれている。そういうことで、やっぱり自然の中でも救われていないんだという解釈をする、この両方がありますけれど、ここでは一応、自然の中で救われるという、そういうものの例として取り上げてございます。
 それから次にノーマン・マクリーン。これは正確にはマクレインという発音のほうが正しいと思いますけれど、映画化された"A River Runs Through It"。ロバート・レッドフォードという、彼は俳優ですけれど、彼が監督をする。そして、若い女の子に非常に人気があるらしいんですけれど、ブラッド・ピットという俳優が主人公をやって、そして日本でも評判になった作品です。たまたまこれは私が翻訳していて、ちょっと言いにくいんですけれど、よく売れていた。ここにちょっと書いてございますけれど、これはフライフィッシングの話なんですけれど、モンタナの山奥の渓谷でフライフィッシングをやっている。夕刻になると自然と人間、すべてが一体になっていく。そして、その中に一筋の川が流れているような印象を受けると。つまり、自然のエッセンスみたいなものと人間が一体化するというような、そして、それによって煩わしい人生から救われる、そんなものですけれど、癒しの空間という面での例として取り上げたいと思っております。
 そして最後、締めくくりがこういうことでよろしいのかどうかということですけれど、現在は、日本だけでなくてアメリカでも自然破壊というようなことが進んでいて、環境保護、あるいは自然保護ということがあって、それを中心にしまして「ネイチャーライティング」と、これは、ただ自然を客観的に描写するんじゃなくて、自然と人間の相関関係とか、あるいは共生、そういうことが言われるんですけれど、そういう傾向の文学作品が非常に多く書かれている、研究されている。そしてそれを読みますと、これはそれだけじゃないんですけれど、これは国土交通省の方々の前ではちょっと言いにくいんですけれど、ダムをつくるとか、あるいは河口堰をつくるとか、そういったことは長い目で見ると、これは自然破壊につながるんじゃないか、自然というのは自然のままにしておくのが一番自然じゃないか、そういう主張をしている傾向の作品なんですね。大体、環境保護運動と連携していると言えば見当がつくと思いますけれど、そういうものが最近では文学作品の中でかなり目立ってきている。
 そんなことで、21世紀にかけてのアメリカ文学というものをお話ししたいと思っているわけです。
 これは全体ですけれど、ただ、今日はミシシッピー川を中心にお話ししたいと思っていますので、ミシシッピー川、もちろんご存じだと思いますけれど、ちょっと蛇足めいたことをつけ加えますと、この川は、アメリカ大陸中央を流れる世界最大の川。その流域は、この数字は僕なんか言われても良くはわからないんですけれど、324万8,000平方キロメートルだと、かなり大きい。これでもよくわからない。アメリカ合衆国全土の約3分の1が流域になっているということなんです。
 それでもいま一つピンとこないのでいろんなものを調べますと、それからマーク・トウェーン自身が100年以上前にそういうことを言っているんですけれど、ソビエトとノルウェー、北欧、これを除いた全ヨーロッパが流域の中に入ってしまう。フランスの6倍、それからイギリスの10倍、日本は出ていないんですけど計算しますと、多分8倍くらいの広さが流域になっている。
 そして、東のほうは5大湖のあたりから南に流れていますし、西のほうはロッキー山脈に大陸分水嶺という、東へ行くか西へ行くかという大山脈がありますけれど、そのあたりは逆に南から北のほうへ上がっていってカナダの国境を東へ行って、それからまた南に下って、これは大体ミズーリ川なんですけれど、ミシシッピー川の本体と合流する。それだけで数千キロになっている、そんな巨大な川なんです。
 そして、これもご存じの方はいらっしゃると思いますけれど、ミシシッピーという言葉の語源、これはアメリカインディアンと言うのはいけないらしくて、現在ではネイティブアメリカンと言いますけれど、アルゴンキン部族の言葉で「ミッシ」というのは大きなという意味らしいんですね。それから「シッピ」というのは川、そういうふうになっております。それから、アメリカ南部のかつての黒人奴隷などはオール'マンリバー、おやじの川と言っている。あるいはマーク・トウェーンなどは、これは普通の表現のようですが、the Father of Waters、水の親玉というような感じで使っている。ともかくアメリカ最大の川ということでございます。
 そして、これは単に物理的に、あるいは地理的に巨大な存在でなくて、南北戦争まで、そして現代では鉄道や、さらに高速道路が普及していますからそうではなくなっていますけれど、あるいは航空路が普及しておりますけれど、かつては文字どおり交通の要路として、白人による開拓の上で計り知れない役割を果たしてきている。
 下流はもちろんですけれど、かなり上流まで数千キロにわたって、かつては――かつてはというのは南北戦争前、ということは19世紀の中ごろまでですけれど――3,000隻ほどの蒸気船が定期的に往来していました。そして、乗客あるいは生活物質、これの輸送に当たっていた。つまりは、文字どおりアメリカの開拓民にとっての死活にかかわる生活の大動脈であったということがあるようです。
 そういうことで、現在ではそういう役割は失われていますし、それから実際、僕は1度か2度しか見ていないんですけれど、ダムができたりいろいろして大して大きな川じゃないんですね。中心のほうに日本の川くらいの幅が流れていて、ただ、河川敷はその数倍の幅があって、そこに堤防があるわけです。そしてどうやら洪水のときには、そこまで少なくとも水が来る。そういうことなので大した川じゃないんですけれど、アメリカ人にとっては非常に大きな意味を持っていて、アメリカのミシシッピー川流域で育った作家ではない、日本ですと『ワインズバーグ・オハイオ』などで有名なシャーウッド・アンダソンなどという作家が、ミシシッピー川というのはアメリカ大陸のハート――これは文字どおり心臓と訳してもいいし、中央でもいいんですけれど――から流れてくる大動脈だと呼んでいます。
 それから、これは1950年ですからもう半世紀ほど前になりますが、ビートジェネレーションという、文明社会を嫌ってアメリカじゅうを放浪して回った、そういう世代がありますけれど、その代表がジャック・ケルアックという作家で、アメリカ全土を車で3度か4度往復していて、その記録が『On The Road』と、日本では「路上」などと訳されています。彼は、たしか出身はマサチューセッツで、そしてニューヨークで育っているんですけれど、ミシシッピー川の土手に立ちますとものすごく感動して、わが愛するミシシッピーよというふうに、非常にロマンチックに呼びかけている。そういうところがあるわけです。
 そういう点で、やっぱり非常に心のふるさとみたいな川である。と同時に、一番最初に申しましたけれど、ミシシッピー川はある一定の期間をおいて繰り返し氾濫をしている。そういうところはマーク・トウェインの"Adventures of Huckleberry Finn"『ハックルベリー・フィンの冒険』、この中にあらわれている、あるいは"Life on the Mississippi"で見事に描かれているわけです。そしてそこで、洪水のときに丸太小屋、あるいは堂々とした2階建ての家、あるいは家財道具全部を積み込んだ平底の船、蒸気船、あるいは長大な筏、そういうものが押し流されてくる。
 そして、この後で言いますけれど、ミシシッピー川というのはアメリカの社会の縮図であって、しかもネガティブな面が川にあった。つまり、一種の治外法権というんでしょうか、無法地帯でもあったらしいのです。一言で言えば、蒸気船の上では賭博が常に行われている、それからもう1つは売春が行われているわけですね。そういったことは、さすがに少年向きの物語には出てこないんですけれど、川が増水するといろんなものが流れてくる。それを見ると、明らかにそういう社会の一番恥部と言っていいような部分が川にあった、そういうことが出てくるわけです。
 そして、これはもちろん19世紀中ごろのマーク・トウェインだけじゃなくて、もう少し古いところで『白鯨』="Moby-Dick"の作者であるハーマン・メルビルという人がいますけれど、彼には"The Confidence Man"、普通は『信用詐欺師』なんて訳されていますけれど、要するに詐欺師ですね、そういう作品がある。ミシシッピー川の蒸気船の上で善良な人々を賭博に誘って金を巻き上げていく、そういうことで人間がいかに愚かであるかということを風刺的に描いているんですけれど、それを見ても明らかにミシシッピー川、その上の蒸気船で――日本でも、そういう変なところは川沿いにできるということはあるんじゃないかと思いますけれど、行われている。そういうものがあるということなんです。
 要するに川というのは、ことにミシシッピー川は恐ろしい危険な存在であると同時に、人間にとって救いの二面性があるということでございます。
 そしてそういう二面性を、結局は、一番最初に言いましたT.S.エリオットは、ほんとうに西欧の教養を身につけた、知識人中の知識人と言っていいような詩人だと思うんですが、そういう人が『ハックルベリー・フィンの冒険』を読んでものすごく感激して、そして世界有数の作品であると、そういう序文を書いているわけです。
 エリオットという詩人、これはもう皆さんご存じかもしれませんけれど、もともとはアメリカに生まれている。そして文化伝統の浅いアメリカ、これに幻滅をしましてイギリスに移って、最後はイギリスの市民になっている。西洋の文化伝統をほんとうの意味で身につけた、知識人と言っていいと思いますけれど、そしてその限りでは、ミシシッピー川あるいは『ハックルベリー・フィンの冒険』などとは全く縁がないような感じがするんですけれど、実は彼はセントルイスの名門に生まれて、少年時代、ミシシッピー川のほとりで過ごしているわけです。家は、今、名門と言いましたけれど、教養のある家庭だったのです。エリオット家というのは、多分、植民地でも一番最初にアメリカにやってきた、そういう古い、由緒のある家柄で、おじいさんの代かなにかにセントルイスへ移って、そこでワシントン大学という、私立で非常にレベルの高い大学を創設しているんですけれど、そういう名門に生まれている。
 『ハックルベリー・フィンの冒険』、これは子供向けのものでいろいろ出ていますので、お読みだと思いますけれど、要するに学校教育はつまらない、大自然の中で伸び伸びと暮らすほうが少年にとって文字どおり自然である、そういうことを言っている小説。そして、彼は学校など行っていませんから、これは一人称で書かれているんですけれど、学校文法などを無視したひどい英語でしゃべっているわけですね。つまり、過去形はdidを使わずdoneを使って、「I done it」というような言い方をするわけです。そういうことなものですから、エリオット家のご両親というのは、子供に読ませるには望ましくないということで読ませなかったらしいんですね。これは、余計なことですけれど、アメリカの大統領などで少年時代に読んで一番感銘した本は何かといえば、90%以上が『ハックルベリー・フィンの冒険』であると答えるわけですね。そういう小説をエリオットは禁止されていたということがあるんです。
 一方で女性のほうは、これは当然おわかりだと思いますけれど、少女時代に最も感銘を受けたのが『若草物語』。オルコットの"Little women"。この2つが、アメリカの少年少女が必ず読む小説。
 ところが、エリオットは読まされなかった。それが60代になって読んで、今言ったように感激して、すばらしい序文を書いているんです。
 それと同じころ。序文を書いたのが1950年なんですが、その7年前ですか、実は資料に"Four Quartets"、『4つの四重奏曲』、あるいは『4つの四重奏』――1944年と書いていますけど1年間違っていまして、1943年が正しいんです。直していただきたいと思います。そういう7年くらいの差で出ていますから、どうもエリオットの代表作の1つである"Four Quartets"=『4つの四重奏曲』、これは『ハックルベリー・フィンの冒険』を読み、少年時代のミシシッピー川の生活を思い出して、そして書いたと思われるわけです。
 『4つの四重奏曲』ですから4つの部分から成り立っているんですけれど、第3部に"The Dry Salvages"。発音は、サルヴェイジズと後ろのほうにアクセントを置くというふうにエリオット自身が、資料にありますように注をつけている。もともとはドライとは乾いたではなくて、フランス語のトロワというんでしょうか3つのということらしいんです。サルヴェイジズも、ソヴァージュというのは野蛮人という意味でいいんでしょうか。
○芳賀委員長
   そうですね。
○渡邊臨時委員
   3人の野蛮人ということで、危険な岩という意味だったらしいんです。それが、アメリカ人はフランス語をよく知らないものですから、発音だけでドライと。サルヴェイジも、サルベージ船なんていうときには前にアクセントを置くんですけれど、ここの土地の名前ではサルヴェイジズと後ろにアクセントを置くとなっております。
 その出だしのところ、これは英語で読みませんけれど、翻訳しますと、これはミシシッピー川にまず間違いないと思いますけれど、言っていますのは、神々について多くのことは知っていないが、この川は強力な褐色の神であると思う。不機嫌で飼いならすことはできない。なだめすかすこともできない。手に負えない存在。そして、ある程度までじっと我慢している。人間の商業活動には役に立つ――これは先ほど言ったように開拓などの生活の大動脈だということだと思いますが――役に立つことは立つが、信頼できない。裏切ることもある。そして、橋を架けようとすると厄介な存在だ。そして、橋を架けるという難問を解決すると、人間によってこの褐色の神は忘れられてしまう。しかし、川はいつまでも執念深くみずからの季節と――これは雨期になると洪水を起こすということだと思いますが――怒りを持つ破壊的な存在。人間たちが忘れたく思うものを思い起こさせる存在、つまり、洪水とかそういうことだと思いますけど。機械の崇拝者たちによって尊敬されることも、なだめられることもない。ただ待ちかまえ、じっと人間を見つめ、そしてまた待ちかまえる、そういうものが川だと言っているわけです。
 そういうことでこれを見ますと、橋を架けて、やれやれと思って、そして川のことを忘れると洪水で仕返しをする、非常に恐ろしい存在というふうにとらえているわけです。
 そういうことで、川というのは、もちろん一方では洪水の後、肥沃な土地を残していくということで文明の生みの親である、そういう面はエリオットももちろん認めていますけれど、機械文明によって自然を征服したり、あるいは手なずけたりして、大丈夫だと過信した人間どもに常に警告を発する、破滅をもたらす、報復をする、そういう強力な褐色な神、こういう形であらわれてくるわけです。これが第1なんです。
 そして次、『ミシシッピー川での生活』ということですけれど、これも細かいことを言いますと、マーク・トウェインにとっては非常に重要な川であった。彼は少年時代を過ごした、川での体験が非常な意味をもっていて、『ハックルベリー・フィンの冒険』『トム・ソーヤの冒険』などの少年の古典を残したわけですけれど、それ以上に、金もうけのために水先案内、パイロットをやっている。ただし、ここにありますけれど、南北戦争が起こったために、徒弟の時代を入れて4年しかなかったんですけれど、その短い期間に、これは次の下線を引いてあるところを飛び飛びに訳していきますけれど、この4年間の短い厳しい訓練期間中に、小説や伝記や歴史にあらわれるすべての異なった人間のタイプに出会った、そういうことを言っている。
 つまり、先ほどもちょっと言いましたけれど、ミシシッピー川の蒸気船というのはアメリカの社会の縮図であったわけです。そして、そこで働いている間にありとあらゆるタイプの人間に接する機会を持ったということ。そして、現在ではほとんどそういうことはなくなっていると思いますけれど、やはり19世紀では、パイロットをやることによって人間社会を知ることができたということになります。
 ちょっと急いだものですから飛ばしていまして、2ページのところでT.S.エリオットの『ハックルベリー・フィンの冒険』の序文の一部に線を引いています。これは一言でいいますと、エリオットが川をなぜ神のようなものだと言うかということですけれど、それは、始まりも終わりもない存在である。水源の地点では、川は川でない。資料の地図を見たらわかりますけれど、右のほうにはオハイオ川、左のほうにはミズーリ川、そのほかも100に近い川が合流して最終的にはミシシッピー川になるわけですけれど、その川のどこが一番最初の源であるか、これは言えない。さらに、ここが水源であると言っても、その時点ではまだ川ではない、そういう存在である。
 それからもう1つは、ニューオーリンズの先のほうでデルタ地帯をつくってメキシコ湾に流れ込むわけですけれど、どこまでが川で、どこから先が海であるか、よくわからない存在になっている。そして常に動いている。それはちょうど、時間がどこから始まっているかわからない、そして時間の終点がどこであるかわからない、しかし、途中は常に動いている。そういうことで、時間とか神というものだとエリオットなどは言っているわけです。
 こういうことで、これは河川局のどなたかに伺いたいんですけれど、川と海との境というのは明確にあるんでしょうか。私は新潟の佐渡出身なのですが、信濃川の河口に佐渡汽船というのがあるんです。船着き場は明らかに川だと思うんです。それからずっと下っていく。そして海岸線らしきものがあるんですけれど、そこから突堤というんでしょうか、ずっと両方に突き出していて、その最先端に灯台みたいなものがあるわけですね。そしてそこを越えたときに船長さんが、これから河口を出て外海に出ますという。そうすると、そこまで川なのかと思いますけれど、多分、上から見ると僕は、もうそこは海じゃないかと思うんですよね。あるいは、東京でも隅田川ですね。ずっと下っていくとお台場とか、あるいは天王洲というんですか、あのあたりは細くて川みたいですけれど、ある意味では海みたいな感じでもある。これは何かちゃんとした区別があるんでしょうか。
○河川局次長
   管理している上で、河川区域の境というのは決めております。
○渡邊臨時委員
   あるんですか。ただ、文学的に言いますと、詩人はどこまでが川で、どこからが海であるかわからない。これはよくあるんですね。言葉とは常にそうで、我々はほっぺたとあごというのはちゃんとわかっているんですけれど、どこまでがほおでどこからがあごであるか、わからないんですよね。
○芳賀委員長
   それはそうですね。頭と顔の境目というのは、この辺ですか?
○渡邊臨時委員
   髪の毛なんかがあるところはわかるんですけど、ほおとあご。こういうことは、英語なんかを教えていて、学生はものすごく単語の厳格な意味の違いを言うものですから、言葉というのは境目はわからない。ほおとあごの違い、どこが境かというと、ここら辺だと言いますけれど。そういうことがあって、川というのも、一体どこまで川なのか。ことに信濃川の河口というのはどこなんですか。
○芳賀委員長
   この河川局は川だけであって、海は関係ないんですか?
○河川局次長
   いいえ。海は別個に海岸という観点から、河川局が管理している海岸と、港湾、漁港の中、それから後ろが農業地のところだと農林水産省が持っている海岸というのがありますが、長さとしては河川局が管理している海岸が一番長いという状況です。
○渡邊臨時委員
   川の両わきには海岸がありますね。それから先に出ている突堤の中は、一見中からいくと川みたいですけれど、これはもう川じゃないんですね。
○事務局
   ダブっている所もあります。
○渡邊臨時委員
   ダブっていると言えばそれが一番いいですけどね。
○芳賀委員長
   ほんとですか?
○河川局次長
   河川は河川の観点から、どこまで管理しなきゃいけないのか考えられているものですから、そこを河川の区域として決めています。合わせて海岸であるところもあります。
○渡邊臨時委員
   そうなんですか。いや、よくわかりますけど、エリオットは、多分、どこまでが川でどこから海であるかわからない、それがまさに神であると言っているんだと思いますけれど。
 そういうことがございます。それで、大分時間を取りましたけれど、マーク・トウェインのほうへ戻ります。
 資料3のあたりを見てもらえば結構なんですが、例えばW章の"The Boys' Ambition"。「少年の夢」というのがいいと思いますけれど、パイロットになるというのが最大の夢だったんですね。それは1つには給料がものすごく高くて、当時、1月1,800ドルの給料だったらしいです。
○芳賀委員長
   すごいですね。
○渡邊臨時委員
   それは僕はわかりませんけれど、貨幣価値はもちろん違いますが、黒人奴隷、これには一応給料を払っているんですね、それの1年間の給料が、大人の一番働く奴隷で10ドルだったらしいんです。白人でしたら給料はもっと高いと思いますけど、1,800ドルというのは……。
○芳賀委員長
   年給で?
○渡邊臨時委員
   1,800ドル? いや、月給です。
○芳賀委員長
   月給ですか。
○渡邊臨時委員
   そうです。それくらいのものである。ただし、大変な責任があったんですね。乗客の生命を扱う、それから積み荷がある、そういうことで船長もパイロットには何も言えない。そして、一番高いところに立って指示するわけですけど、それがマーク・トウェインみたいな脚光を浴びることが好きな男の子にとっては、ものすごく魅力的であったということがあるんです。
 そういうことでなったわけですけれど、その一方で、今言いました少年の夢というところがありまして、その2番目のところですね。出だしを見ますと"The great Mississippi, the majestic, the magnificent Mississippi"。これは全部mを並べて、アリタレイションというんでしょうか、頭韻をそろえているんですけれど、このmajesticという形容詞がものすごく多い。
 それで、ちょっと飛ばしながら訳します。
 偉大なミシシッピー、堂々たる、雄大なミシシッピー川は燦然と輝く日の光に輝きながら、1マイルもある広々とした川幅を持って悠然と流れていく。向こう岸には深い森が見える。中略して、やがて、はるか遠くの川の曲がり角の上に黒っぽい煙がかすかに見えてくる。その瞬間、人一倍すぐれた視力を持った、声のよく通ることで有名な荷馬車引きの黒人が、ここにありますが、"s-t-e-a-m-boat acomin'!"。日本語でいえば「見―えーてーきたぞー、蒸気船がー」というふうに叫ぶ。その声であたりの光景が一変する。町の酔っぱらいが動き出す。店員が目を開く。そして、家という家、店という店から人々が飛び出してくる。あっという間に死んだ町が生き返り、動き出す。
 こういうことで、先ほど言いましたけれど、当時の開拓地にあってはミシシッピーの船着き場が、唯一の新しい情報が流れ込んでくるところであった。そして、蒸気船が着いた30分ぐらい、町は火事場騒ぎみたいになる。そして、船がまた上流へ行ってしまうと死んだようになってしまう。そういう世界であったということが1つなんです。
○芳賀委員長
   これ、何日に1回ぐらい。
○渡邊臨時委員
   それは多分、1日に1回だと思います。
○芳賀委員長
   1日に1回。
○渡邊臨時委員
   いや。もっと少ないでしょうか。
○芳賀委員長
   もっと少ないね。それじゃなきゃ、これほど騒がない。
○渡邊臨時委員
   だから、少なくとも1日に1回あると思うんです。それは、幾つかの会社がありますから、次から次へと来るんだと思いますけれど、大変なことだったらしいんですよね。
 そういうことで、そこにはもちろんいかがわしい連中も降りてきたり、女性でまたいかがわしい人がワッと来たりして、それを子供たちは眺めていろんな教育を受けていく、そういうことだっただろうと思うんです。
 そういう面があると同時に、次の裏側にあります9章あたりが一番僕はすばらしいと思うんです。
 "Now when I had mastered the language of this water and had come to know every trifling feature that bordered the great river as familiarly as I knew the letters of the alphabet, I had made a valuable acquisition"というふうに、非常にわかりやすい英語で書いてあると思いますけれど、念のために訳しておきますと、「今や、私はこの川の水面の言葉をマスターし、この大きな川に関する細かな特徴の1つ1つを、まるでアルファベットの文字を覚えるように知ることになった。そして、1つの貴重なものを得た。しかし同時に、あるものを失ってしまった。生涯取り返すことのできないあるものを失った。つまり、この雄大なマジェスティックな川から優美さと、美しさと、詩的なものが1つ残らず消え去ってしまった。私はいまだに、蒸気船生活が私にとって新しい体験であったころ目にした日没を覚えている」と、非常にすばらしい夕日の描写があるんです。どうもミシシッピーの西の夕焼けというのはいろんな人が書いていますけれど、ちょうどマニラの夕焼けみたいに……。
○芳賀委員長
   マニラ湾のですか?
○渡邊臨時委員
   ええ。あのあたりと同じように、みんな描くんですね。
○芳賀委員長
   見たことないですね。
○渡邊臨時委員
   それが売り物で、現在も蒸気船が上下していますけれど、夕暮れに行くらしいんですが、それを描いてみせるわけです。
○芳賀委員長
   でも、何でevery trifling featureがわかったら魅力がなくなたんですか。
○渡邊臨時委員
   つまり、例えば川の面にえくぼみたいな美しい渦がある。乗客たちはすごくきれいだと言うんですけど、そこには流木が沈んでいる。
○芳賀委員長
   ああ、そういうことですね。
○渡邊臨時委員
   夕焼けは、これはあしたは嵐が起こる前兆だと。
○芳賀委員長
   ああ、そういうことですか。
○渡邊臨時委員
   そういうことで、美しさでなくて、あしたどうしたらいいか、そういうことになるということらしいんです。
○芳賀委員長
   そうですか。実際的になったんですね。
○渡邊臨時委員
   だから、そういう点でロマンスが消えて、実際的な知恵とか情報だけになってしまったということのようなんです。
○芳賀委員長
   でも、そういうことがわかっても、なお美しいと言うんじゃないかな。
○渡邊臨時委員
   まあ、そうです。マーク・トウェインは実は非常に神経質なところがあって、これが生涯、一種の負い目というんですか、オブセッションになっているんです。その背景には、ここでは書いていませんけれど、自分の落ち度だけではないんですが、自分の落ち度だと思われるような事故が起ったりして。
○芳賀委員長
   パイロットとして?
○渡邊臨時委員
   そうです。そこで弟を失っているという事件もあるわけです。
○芳賀委員長
   ああ、そうですか。
○渡邊臨時委員
   これは客観的に見ると彼の落ち度ではないと思うんです。ところが、本人は一種の自罰反応というんでしょうか、何か悪いことがあったら、あんたが悪かったんじゃなくて、こちらが悪かったんだというふうに責任をしょい込むと、そういうことがあるものですから、ものすごく神経質なんですね。そして最後、彼は晩年、虚無思想にとりつかれるんですけれど、その源は、どうもパイロット時代の体験、それがオブセッションとして残っているんじゃないかと。
 しかも、昼間だったらまだいいんですけれど、夜、真っ暗やみでも、あるちょっとした明かりでここには流木がある、ここには中州がある、そういうことを全部頭に入れて船長に命令を下していたらしいんです。しかもその中州が、これは河川局の方は当然わかると思いますけど、ああいう大きい川は毎日のように中州の位置が変わる、それから流木の位置が変わる。それを、お互いにパイロットは情報を交換して頭の中に入れる。そして、真っ暗やみの中でどうしてそれがわかるかと思うんですけれど、それを避けて航行する、それを要求されていたと。だから、1,800ドルは安くないということらしいんですけれどね。
○芳賀委員長
   なるほど。
○渡邊臨時委員
   そういうことで、結局、最後のところで、そうだ、ロマンスと川の美しさが川から完全になくなってしまったというのです。そういうことで、逆に言えば、これは川だけでなくて、マーク・トウェインにとっては社会というものの恐ろしさを、川の体験を通して身につけたということだろうと思うんです。
 そういうことで、一番最初に申しましたけれど、マーク・トウェイン、それからT.S.エリオット、その2人が描き出すミシシッピー川というのはどう見ても非常に恐ろしい危険な川であった、そういうイメージが強いわけです。当時、この時代ですから護岸工事をやるとか流木を取り除くとか、そんなことは全くしない時代の話なんですけれど、そういうことになっております。
 もう時間があまりありませんので、フォークナーの『野性の棕櫚』に移ります。この小説というのは文体そのものが1ページ1つの文章になっていたり、奇妙な小説で、ある場面を抜き出すということはできない小説なんです。ただし、洪水が出ていることは間違いないんですが。ここでちょっと取り上げていますのはほとんど参考にならないものなんですけれど、どう言ったらいいんでしょう……。川というもの、これを背景にして2人の囚人が妊娠した、川の中に取り残された女性を救い出す、それだけの物語と言ってもいいようなものなんですけれど、その川の描写が何とも魅力的になっているということがございます。
 はしょって結論だけ言いますと、ミシシッピー川、セントルイスあたりの下流と言っていいか、あるいは中流ぐらいなんですけれど、そのあたりではもう激流となって押し寄せてくる、そういうことじゃないんですね。ここの『Newsweek』のTrouble Watersもそうですけれど、一種の巨大な水たまり、あるいは湖水みたいになっているらしいんです。そして、水は、繰り返しあらわれる。motionless、動きを伴わない、それでいながら流れている、常に動いている。そして、時々刻々にですね、水かさが増してきて、それこそ10メートルぐらいの高さに上がってくる。その水が流れているようで流れていない、そんなものになってくる。それをフォークナーは「the wild bosom」と。bosomというのは胸なんですね。「the wild bosom of the Father of Waters」。水の王者の野性的な胸に人間が抱かれていると。
 あるいは、液体であるということを強調して、それが巨大で、そして見たところは動きがないわけですから穏やかである。荒涼として、そして次々と時間とともに高くなってくる固まりのようなものとして描かれている。これは何となくわかるんですね。大きな水たまりがあって、それは流れているようで流れていない。そして時間とともに上がってくる。そして荒涼としている。そういう水に対して、人間は征服することは不可能であると。完全に人間の運命を決定して、complete finalityなんて書いていますけれども、決定的な結末をもたらす宿命、doomだとか……。
○芳賀委員長
   何行あたりですか。
○渡邊臨時委員
   いや。これはまとめてあるんです。実はそういう点では、形容詞を並べたほうが感じが伝わってくるんですが、そういうことでdoomということも随分、これはフォークナーが好きな言葉なんですけれど、要するに宿命とか運命とか時間、動かないようで常に動いている。そして表情を持たない、expressionless。洪水の水の表面を見たらexpressionless、表情が全くないというのも何となくわかるような気がする。それからstagnant、よどんでいるという言葉もよく使う。そしてquiet、静かであり、calm、穏やかである、そういうもの、これがフォークナーの洪水の描写になっているわけです。
 それに対して、堤防に残された人間というのは、これも何度も書かれるんですけれど、アリのような、antsのような存在で、そして無力である。ただむなしい怒りに狂っている。対岸の堤防は、これは川があって堤防まで水が押し寄せてきて、乗り越えて外側にも水は広がっているわけです。そうしますと、対岸の堤防は1本の髪の毛にしか見えない、そういうことを言う。その髪の毛の上をアリのような人間が土嚢を持って、すべりながらおりていったり。そういう描写を繰り返し、繰り返しするものですから、私なんかはミシシッピーの洪水というのは見たことありませんけれど、音がしない、不気味に水が迫ってくる。
○芳賀委員長
   ひたひたひたって。
○渡邊臨時委員
   そうでしょうね。そして、明らかに決定的な破滅をもたらす、液体でありながら、ある固さというより固まりというんでしょうか、そういうものを持ったとらえどころのない存在、そういう形でとらえているようです。
 そしてフォークナーの人々が非常に宿命的になっているというのは、新聞を見て、字の読める囚人の1人が見だしを読んでいくわけです。そして、あすまで堤防はもちそうだと新聞記事にあると、そうすると、もう1人が、それは今夜決壊するということだというふうに言う。それぐらいに悟っているといえば悟っているわけですけれど。公式の報道では、堤防はあしたまでもちますと言うのですが、読者は、ほんとうのところは今夜決壊するということだというふうに読みかえている、そんなことを書いているわけです。
 フォークナーというのはもともと、この時代、人間の時間とか川などへの抵抗には限界があるということを常に言っているわけですけれど、そういう川として描かれているということでございます。そうしますと、せっかく洪水に対して何とか抑えようという努力をしている方々には、それはむなしいんだということを文学者が盛んに言っているというのは、何だか私居心地が悪いですけれど。
○芳賀委員長
   いやいや。いいんじゃないですか。
○渡邊臨時委員
   文学者は、多分そういうとらえ方をしている、これは現実なんですね。そして、普通の人にもそういうものが、なるほどそうかなと思われるところがあるんじゃないかという気もいたします。そういうことで、ただ、私がそう思っているということじゃございませんので、誤解しないでいただきたいと思います。
 あと5分ぐらいであれですが、後はヘミングウェイとマクリーンのものですけれど、これは時間がないのでまとめてきたもの、1ページぐらいを読み上げて終わりにしたいと思います。しかも資料なしなんですが。
 アメリカ文学では、普通、自然とか川というのはエマーソンとか、あるいはソローというような人の伝統がありまして、神聖な、sacredな世界とみなされているわけです。こちらのほうが多分メーンストリートだと思うんです、アメリカの場合ですと。つまり、自然というのは……。現実じゃないんですね、これは理念としての自然というのは神聖で汚れのない、そしてそこで人間が生まれ変わる、そういう世界だというふうに言われている。それに対して、マーク・トウェインあたりがリアリストとして、実際にそこで生活してみると、エマーソンが言うような、そんなきれい事でないということがわかってくる。ただし、繰り返し何度も言いますけれど、底流としてはアメリカの自然、ことに水のある川、これは救いの場という、そういう伝統がずっとある。
 ヘミングウェイの、これは"In Our Time"『われらの時代』。1925年ですけれど、その中で一人の青年が一次大戦に参加する。帰ってくるが、社会にとけ込めない。そういう青年がミシガン州の奥の森の中の川でマス釣りをして、やはり精神のバランスを取り戻す取り戻そうとする物語、こう言っておけば間違いないんですけれど、最初に言ったようにあいまいなところがあって、ほんとうに救われたのか、なお救われていないのか議論が分かれるわけですけれど、川でのマス釣りというのが大きな意味を持ちます。
 それからもう1つが『マクリーンの川』です。ここでも、人生の物語は書物より川に似ているというふうに、川というものと書物というものと、そこから何かを読み取っていくというような面があります。マクリーンという人はイギリスの詩の専門家ですから、川、これを書物として読み取っていく、そういうメタファーを非常によく使うんですけれど、その彼が最後の場面で語り手、マクリーン――大学の先生ですけれど、老人になっています。
 夏の間、モンタナ州のカナダとの国境に近いところの、ほとんど北極圏と言っていいところで、日暮れが迫ってもなお日が残っている。ただ涼しくなっていく。そこでただ1人フライフィッシングをやっている。これは翻訳のエッセンスを読み上げますけれど、そういったとき、おわかりかと思いますが、夕暮れ、白夜で日は明るい。ただ空気は冷え込んでくる。そして自然の中で自分はたった1人。そして川でフライフィッシングをやっている。そういったとき、極北の北極圏のような薄明かりの中で、宇宙に存在する森羅万象が次第に色を失って、ある1つの存在に変わっていく。そして最後にすべての存在、自分を含めたすべての存在が溶解し、融合して、1つの究極の存在になり、そしてその中に一筋の川がそれを貫いて流れいるのを意識する。その川は世界の大洪水によって出現し、時間の基盤から岩を越え、流れていく。岩の幾つかは今なお――これも実際は何であるかよくわからないんですが――いまだに時間を超えた永遠の雨だれの跡をとどめている。そして今の私は、そういった水の世界にとりつかれているんだと、非常に印象的な文章で終わっているわけですともかく、川の神秘的な面が強調されています。
 映画の『A River Runs Through It』ではこういう主観的なものは、ものすごくきれいなモンタナの――本当にモンタナ州かどうかわかりませんけれど、渓谷でロケしているんですけれど、そういう主観的なものを観衆に感じさせることは難しいということで、これはロバート・レッドフォードが非常にきれいな英語で、ナレーションとして重ねているんです。この最後の場面というのは研究者がよく引用する部分ですけれど、それを英語でかぶせていって終わっている。見た人は、自分がどうなっているかわかりませんけれど、川の流れ、その中に1人いる老人、それと自分を重ねて何か救われたという、そういう印象を……。
○芳賀委員長
   日本ではその映画は何という題ですか。
○渡邊臨時委員
   『リバー・ランズ・スルー・イット』なんです。カタカナです。これは集英社というところですけど、映画の前に本を出しちゃったものですから、ほんとうは『A River Runs Through It』という形で売りたかったらしいんですけれど、もうしょうがなくて『マクリーンの川』として出しちゃったんです。今の映画というのはほとんどカタカナになっていておもしろくないんですけれど。しかも、『リバー・ランズ・スルー・イット』で、冠詞が落ちているんです。最初は「ア」、リバー・ランズ・スルー・イットなんですけれど。
○芳賀委員長
   ほんとうは?
○渡邊臨時委員
   ほんとはそうなんですけど、映画は『リバー・ランズ・スルー・イット』、そういうふうになっている。
○芳賀委員長
   どう違いますか、「A」がついていると。
○渡邊臨時委員
   僕なんかの感じとすると「The」のほうがいいような気もするんですけどね。
○芳賀委員長
   そうですね。
○渡邊臨時委員
   ところが、1本のというふうに言っているんですね。
 それから、最終的には、もう申さなくてもいいかもしれませんけれど、現在ではネイチャーライティングというものがありまして、これも非常にいろんな人が書いていますけど、基本的には、これは資料がないんですけれど、ノンフィクションであります。そして、非常に幅があるものです。ダム建設その他の意義を認めて、そして川がおとなしくなった、そう言う人もいますけれど、私が読んだ限りでは――これはもちろん私が読んだだけですけれど、やはりダム建設とか、ああいったことは、長い目で見れば自然破壊につながるんじゃないかというような立場で書いている。それがやっぱり文学者、あるいは文学愛好者には読まれている、そういう現実があるわけです。
 ただし、じゃあ、そういう氾濫を起こす、川の現実はどうするかということは書いていないんですけれど、そういう人たちのタイムスパンは長く、グランドキャニオンか何かを持ってきて、数億年の単位で物を考えているんです。グランドキャニオンが数億年かけてああいうものをつくったとか、あるいはミシシッピー川の肥沃な土地は、大体30年ぐらいに1度大洪水を起こすんでしょうか、それを数万年かけて、そしてアメリカの中央の平野ができてきたんだとか、そういう、何と言うんでしょうか、大きなタイムスパンで自然をとらえようとしている、そういうところがある。
 あまり参考にならないかと思いますけど、以上で、非常に急ぎましたし、用意してきたものの半分も言っていないんですけれど、きょうの報告にかえさせていただきます。どうも失礼いたしました。
○芳賀委員長
   ありがとうございました。終わりのほうの、ミシシッピーの1993年ですか。
○渡邊臨時委員
   はい。そうです。
○芳賀委員長
   これの洪水の話は、これはもう。
○渡邊臨時委員
   お読みいただければと思います。それから、実際見ますと、日本の『朝日新聞』では100年に1度となっていますけれど、どうも『Newsweek』では500年に1度と。
○芳賀委員長
   そのぐらいの規模だと。
○渡邊臨時委員
   規模であらわれているし、それから堤防も30フィート、約10メートル、これは500年に1度を想定してつくっている。しかし、どうも水が超えそうだということで1フィート高くした。それでも危ないということで、さらにまた1フィート足したと、そんなことも書いています。
○芳賀委員長
   本来、何フィートでしたっけ?
○渡邊臨時委員
   30フィート。30フィートというのは10メートル足らずですよね。
○芳賀委員長
   そうですね。
○渡邊臨時委員
   それくらいの高さで、しかも、最初はクレストということがありますから、波頭を立てて押し寄せてくるわけです。それがある程度オーバーしてしまうと、もう巨大な水たまりになって、そして1週間、2週間かけて少しずつ水面が上がってくると、そういうことだろうと思うんですね。これも新聞記者ですから、どうすべきであるとか、いいとか悪いとか、そういうことは言わずに事実を述べているんです。
 ちょっと気になったのは、デモイン川とミシシッピー川の真ん中あたり、このあたりが一番ひどい被害を受けるらしいんです。これは洪水のたびに被害を受けるらしいんですけれど。
○芳賀委員長
   デモインって、ミズーリの間ですか。
○渡邊臨時委員
   いえいえ。
○芳賀委員長
   ミシシッピー。
○渡邊臨時委員
   イリノイ州というのがありまして、セントルイス、そのちょっと上のほうでデモインと……。
○芳賀委員長
   ああ。ミシシッピーの間ね。
○渡邊臨時委員
   そういう間が一番被害を受けやすいらしいんですけれど、そこが何といっても一番肥沃な土地であって、農民たちは水が引けばすぐそこで農業を始める。そして30年後にまたひどい目に遭う、そういうことの繰り返しをしているということを言っていますけれど、これはやむを得ないんでしょうね。高台のほうは水害には安全であるけれど、土地はやせている。そういう点で、洪水というものがあるプラスを残していっているということもちょっと言っているようです。ただ、日本の洪水でこれだけの大きさで、しかも1カ月、2カ月にわたって水が引かない、引かないというより、排水ができないわけですね。そして、フォークナーが描いている1927年の洪水も、何となくこの規模だったんじゃないかと、文章の感じから言えると思うんです。
○芳賀委員長
   はい。どうもありがとうございました
 

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