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河川局

歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会 -日本文学に見る河川-

歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会
-日本文学に見る河川-
第三回議事録

平成13年10月26日(金)
14:00〜17:00
場所:中央省庁合同庁舎3号11階特別会議室

4.話題提供(2)
 
○委員長
   今度は高橋さんにお願いします。高橋さんはちょっと古いお話になるわけですね。よろしくお願いします。
 
○高橋委員
   もう20年ほど前に仲間で見てきた祭りです。それについて仲間内でつくった本「和歌山県 古座の河内祭り」(白帝社.昭和57年刊)で、取材費も本を出すお金もみんな自分のお金で出したものですから、極めて粗末な本ですけれども、もうなくなってしまいました。次第では「こったさま」とルビを振ったのですけれども、後でよくよく聞いてみたら、現地の人たちは「こうったま」という言い方をしていたものですから、私の資料には「こうったま」とルビをつけておきました。
 我々があちこち見て回った川の祭りでは、いい祭りだったんです。祭りですから、説明よりは、どんなふうに行われるのか、まず見ていただいた方がいいと思いまして、NHKが放映していた「ふるさとの伝承」という連続番組の中の一つであります「熊野 海の民・山の民−和歌山・古座川の1年」という40分物の中に、祭りの部分が10分ぐらい、そして川の風景、空から撮った写真が3〜4分あるものですから、まずそれを見ていただいてからお話ししようかと思います。
    (ビデオ)
 こんな祭りですけれども、今では6月26日から準備が始まって、7月26日に大体終わる。中心は23日、24日、25日ですけれども、戦前まではどうも7月13日、14日、15日あたりが中心だったようです。
 2枚目以下に私が撮ってきた写真を張りつけてみましたけれども、およその場所と物です。今の映像には、夜の御舟の動き、夜ごもりの様子が全然出てきませんでしたけれども、ライトなどをこうこうとつけて撮影することは今でも多分禁じられていると思います。我々は特別に撮らせてもらったんですが、静かに真っ暗な闇の中を回っていくんです。多分それが神が御舟におりてくるという状態なのではないかと思います。
 古座川は、古くは祓川と言われたのだそうです。それは、1枚目の地図の下の方で言うと、高瀬より少し左の方、つまり上流にさかのぼっていったところに、祓ノ宮というのがありまして、瀬織津姫が祀られているそうです。ここは京都の聖護院門跡が大峰入りをするときに御祓をしていったところなので、そんな言い方をするらしいです。そういうことを見ても、川の名前は、今でこそ「古座川」と言っていますけれども、少し歴史があったにしても、その前はどんな名前であったのか、よくわからないところです。
 そこに「河内様」という花崗岩、鬼御影があって、一枚岩がある。それを木あるいは笹が覆っている、そういう場所なわけです。東の方に宮山があるというので、僕のような素人が見ると、昔は陸続きだったのが何かで切れてしまったのではないかと思うような感じです。
 それは別にして、私の考えていた空間の構造から言うと、先ほど画面に出てきましたけれども、九龍島と宮山と河内様を結ぶ、この線が多分神様を敬拝する聖なる空間だったのではないかと思っています。「クロシマ」は今でこそ「九龍島」という書き方をしておりますけれども、これは紀伊徳川家が改めたものだそうで、「黒島」だそうです。黒島と言うと南から北まで随分名前のある島ですけれども、海の仕事をする人たちが特に信仰していた島、大切にしていた島に、そういう名前がよくつけられます。ここの九龍島では、弁天様、龍王、蛭子さんを祀っているということですけれども、先ほどの画面にもありましたように、漁師の人たちは、殊の外、そこを信仰しておりまして、舟の調子直しなどのときに、よくお参りをすると言っています。調子直しというのは、魚がとれる、とれないという、験直しとか、そういうことと同じことだと思います。
 祭りを取り仕切っている古座神社は、八幡神社がもとであったみたいです。今では住吉神社と河内神社とあわせて、3社が合祀されています。墨之江大神にしろ、応神天皇にしろ、みんな海に関係した神様ですが、河内神社の素戔嗚尊、あるいはこれは豊国主尊だという話もあるのですけれども、これがもともと宇津木にあった、さっきの岩で、その神様であるわけです。それが素戔鳴尊であったり牛頭天王であったりというところを見てもわかりますように、時代ごとに祭神は意味づけられていっているみたいですけれども、結局のところは水の神という感じに受け取れます。
 それから、境内社に豊漁に関係した神様が祀られています。
 大事な場所は潮汲みの場所です。そこに列挙しておきましたように、いろいろなとき、特に古座の人たちはそこで禊ぎをする。その水を受けてくるという感じです。
 もう一つ、石ですが、「オニノメ」という角のとがった小石を拾ってくる。これも数がそのときによって決まっているようです。
 今ごらんいただいたように、古座の人たちは、あのように、にぎにぎしく舟を並べて、「河内様」に行く。それから周辺の農家や山林を持っている人たちもそれぞれやってくる。そして、河原に座をしつらえて、お祭りを一緒にする。そういう感じになっています。つまり、ビデオでも言っていましたが、海の民と山の民が一つの神様をめぐって一緒の祭りをするという形になっています。もとはそれが別々になされていたようですが。
 この祭りを見まして、いろいろ考えさせられたことがあるのですが、一つは夜ごもりです。7月24日、御舟が上っていって、夜中の10時ぐらいまででしたか、1艘が1時間以上かけて、ゆっくりと、あの小さい島をめぐるんです。見ているこっちがあきれ返ってしまうぐらいです。3回回るのだそうですが、3度目に回るときには舟が重くなったという感じだと、だれもが言うんです。つまり、神様を迎えに行って、そこに神様がおりてきたという感じをしているのではないかと思います。
 我々はみんな古代の文学をやっていた人間だったものですから、だれもが言ったのは、万葉集にある額田王、「熟田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」、ああいう感じを思い起こさせてくれる風景だったんです。夜ごもりのときの逸話なども本に入れておきましたけれども、牛鬼が出てきたという話もあったりするし、わけのわからない、ものすごい大音響がしたという話も語り伝えられています。これが祭りのときの重要な部分なのだろうと思います。
 それから、上りのときははっきりしていませんでしたけれども、下りのときに六蛇の瀬を渡る御舟がありました。上りのときも、かつては若い衆が結婚相手を見初める場ともなったという話です。これはどうも俗的な話のようですが、結構古い意識が続いてきている感じがします。そのことはまた後で見てみたいと思います。
 まず、「河内様」という神様についてですが、先ほども言いましたように、いろいろな説明がされてきています。ガッタラボシ、つまり河童だと言う人もあるのですけれども、古座川という川に祀られている水の神様なのだろうと思います。だからがゆえに、海の人たちにも山の人たちにも信仰されているところがあるのだろうと思います。それを形の上であらわしているのが、潮汲みの水、あるいは「オニノメ」と言われるものです。
 それから、ビデオの最後の方に大晦日から正月の場面があるのですけれども、古座の人たちは、大晦日の晩、歩いて河内様まで行って、あの河原で去年もらってきた石を返して、今度は新しい年の石を拾ってくるのだそうです。その形や色は家によって違うそうです。そんな形で、神を祀る一つの形あるものを水と石で象徴しているところです。
 前にも申しましたように、この祭りは今でこそ7月23日、24日、25日あたりが中心になっていますけれども、その前は7月の13日、14日、15日あたり、さらにその前は、「丑祭り」という言い方をされていた旧暦の6月の初丑の日だということです。今で言えば土用の丑の日あたりを考えてよろしいのでしょうか。そうしてみると、我々は鰻を食べて夏に向かっての元気づけをしていくということがありますが、多分それと通ずるような、季節の変わり目に、海の人たちは豊漁を授かる力を得たい、農家の人たちは稲が穂腹みをするときですから大事なときだと思うんですが、そういうところから神様を祀っていくという形でなされたものではないかと思いました。
 恋の話ですが、九龍島には鯛がいて、河内様には蛇がいて、河内様の蛇が九龍島の鯛と恋仲になったということです。ところが、双方が会うことができなくなったので、それを祭りのときに会わせてやるのだという話も伝わっています。
 そんな祭りの素材、質みたいなものを引き合わせてみましたところ、ちょうど当時の私は沖縄や奄美に盛んに行くようになっていた時期でして、奄美大島で大和村という小さな祭りに夢中になっていたんですが、あそこは集落の浜の向こうにポコッと立った岩山があるんです。そういうものを奄美一体では立神と言います。それに向かって神様を迎える、あるいは送る行為をしているんです。向こうで見ていくと、海の彼方の神の世界から、神様は立神を目指してやってくる。それから、すぐには陸に上がらないで、集落の背後にある神山におりる。その神山から、水脈、川の流れ伝いに集落におりてきて、祀られる。そして帰るときは、川伝いに海に出て、立神のところから海の向こうへ帰っていく。大体そんな信仰を持っているわけですけれども、大和村の場合はそれがはっきりと祭りの中に出てきていたんです。
 そんなことがありまして、いろいろ考えてみたんですが、立神と言われるものをずっと調べ回って地図に落としてみましたら、一番外れの与那国島から、日本海側に来ると、私の知ったところでは、島根県の大田市にあります。太平洋側では三重県の阿児町まで、全部で40前後のものが確かめられました。その幾つかのものは祭りとかかわって非常に重要なものを占めているということがわかった。要するに、大体が海辺に出ている、ポコッとした岩山です。中には、ごく小さい、ちょっとした岩みたいなものもありますけれども、それも立神と言っています。阿児町の場合は、立神があって、これは今でも「ひっぽろ神事」というのが、大晦日から正月の三カ日ぐらい、ずっとあります。そんなふうにありました。
 そんなことを考えてみましたら、祭りというものは、海の向こうから神が多分宮山を目指してやってくる。それが河内様という場所において周辺の人々の信仰心の中に入っていき、そしてそれぞれの力となっていく、そういう構造がわかったんです。
 その前に、もう一つ、九龍島がその立神に相当するのだろうということを考えてみたのですけれども、さて古典の中ではどうなんだろうと考えたときに、御存じのように天地初発のときの神話ですが、「古事記」で言えば、天之御中主、高御産巣日、神産巣日と三柱があって、もう一つ、わけのわからない神様が出てくるんですが、その後、天之常立神というものが出現したことになっています。それで五柱なので、「別天津神」というふうに一区切りされて、今度は別口として国之常立神があらわれたというふうになっています。ところが、「日本書紀」の場合は、国之常立神が神の名前として初めてあらわれてくるものとして位置づけられています。要するに、これは立つ神だと思うのです。「立」に意味があると思うのですけれども、「古事記」と「日本書紀」、あるいは「日本書記」の1書、いろいろありまして、その伝えでちょっと違ってきていますが、国家レベルでつくられた神話の中にも古い日本人の神聖空間観がこんなふうにあらわれてきているのではないか。それが、時代のいろいろな信仰形態の影響を受けて変質・変容しながらではあるけれども、根本的なものを探ってみると、神を迎え、その祝福を受けるという中にある一つの基本構造なのではないかと思ったわけです。
 以上でございます。
 
○委員長
   ありがとうございました。初めて拝見しましたし、大変興味深いお話を伺いました。


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