水管理・国土保全

  

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天塩川の歴史

原始河川天塩川のあけぼの

 天塩川筋に人々が足を踏み入れたのは古くても15,000年前と推定され、近世(江戸時代)になると、天塩川の交易権のある「天塩場所」が天明6年(1786)に河口の天塩に置かれ、これがこの地における倭人の往来の始まりとなっています。
 天塩川についての調査は、寛政9年(1797)松前藩士高橋壮四郎以下3名による調査が天塩川下流から音威子府まで行われたのが最初であり、その後、安政4年(1857)に松浦武四郎が天塩川、名寄川の地理的調査などを実施しています。
 後に、松浦武四郎が出会った音威子府村の川筋に住んでいたアイヌの長老の話から、北海道という名が誕生しました。


松浦武四郎像(天塩町鏡沼公園)
天塩川の開拓
 明治2年開拓使が設置されて以来、天塩川流域にも開拓の鍬が徐々に入れられてきましたが、明治31年9月北海道は未曾有の大水害に見舞われ、これを契機として、全道的に治水対策の必要性が叫ばれ、明治39年~41年には河川調査が実施され、数多くの洪水を経験しながら大正8年天塩川治水計画が立案されました。
 この計画に基づき、下流では天塩、幌延地区の河道の切替、築堤、上流部では中川、智恵文、名寄、士別地区の河道の切替、築堤、護岸などの工事が進められました。




天塩川新水路物語
新水路事業のはじまり
 天塩川の新水路は、第一期工事として智恵文、名寄、風連などの緊急で応急的な治水計画を樹立し、河川の切替を実施したのが最初になります。
 智恵文第一新水路が昭和9年に着工されて4年の歳月を経て昭和12年に通水したのを始め、昭和21年に第二期拓殖計画が終わるまでに風連に至る間に6新水路が通水しました。
 当時は人力で掘削した土を馬やトロッコで運搬していました。


エキスカ掘削機関車運搬状況


捷水路工事着工前後

洪水とのたたかい
 当時の天塩川流域は、ジャガイモを主産とする畑作地帯でしたが、いったん洪水にあうと、流域の中・下流部は水が引くのに数日を要するため作物が腐敗し、全く売り物にならないことから、洪水被害を軽減することは農民の切なる願いでした。
 このようなことから、天塩川の蛇行箇所を切り替えて洪水の流れを良くする治水工事が急務であり、昭和15年に「北海道旭川土木現業所誉平治水事業所」が設置され、天塩川切替工事に着手しましたが、第2次世界大戦によって順調に進まず、中川第1、中川第2新水路が昭和22年に着工され4年の歳月を経て昭和25年に完成しました。


事業の完成
 昭和20年代後半から30年代には、天塩川下流部のサロベツ、曙、上幌延、東ウブシ、円山等7箇所の新水路が完成し、上流部の士別地区も日向、九十九等4新水路が完成しました。
 昭和40年代に入ってから天塩川歌内等の4新水路および中流部美深地区の紋穂内新水路工事の完成により新水路事業は完了しました。
 これにより、洪水の水位低下をもたらし、毎年起きていた氾濫がなくなるなど、新水路の治水効果はきわめて大きいものでした。


捷水路位置図(下流)


捷水路位置図(上流)


※天塩川の名前は、アイヌ語の「テッシ・オ・ペッ(梁・多い・川)」が語源であり、岩が梁のような形で川を横断していたという地形に由来しています。





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