水管理・国土保全

  

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雄物川の歴史

雄物川の歴史、先人の知恵の活用

 雄物川は、古くから上流の穀倉地帯と土崎港、さらには船川港を結ぶ重要な舟運のルートでした。慶長7年(1602年)秋田に転封された佐竹義宣は、雄物川の水運を最大限利用するため藩内の諸河川を整備しました。膨大な量の米、大豆等の穀物を雄勝・平鹿・仙北・河辺・秋田郡から運ぶためには、雄物川とその支流を利用した舟運が最も適していたのです。
 その後は、土崎の河口港を起点として、大船は角間川までのぼり、さらに小舟は鵜巣から湯沢、皆瀬川では戸波まで入っていました。河港の中で最も繁栄したのが、大船の終航地である角間川であり、明治30年頃からは秋田県内における屈指の裕福な町、商人地主の町として有名となったほか、大曲河港も本流と丸子川の合流点に立地し、支流玉川を川下に持つだけに、北浦地方を商圏として繁栄を見せました。しかし、盛大を極めた雄物川の水運も明治39年9月14日の奥羽線の開通によって物資は鉄道に吸収され、没落の一途をたどり次第に衰退していきました。今でも、川岸には昔をしのばせる船着場の跡や浜倉の跡が残ります。



雄物川における河港・船着場の分布

 雄物川は、全川にわたって蛇行が著しく、洪水のたびに氾濫を繰り返し、甚大な被害を受けていたことから、江戸時代から洪水防御や舟運の便を図るための河道の付け替えが随所で行われました。
 江戸時代の著名な河川改修として、上流部では横手市雄物川町沼館(ぬまだて)付近において元和(げんな)元年(1615)秋田藩主佐竹義宣(さたけよしのぶ)が梅津憲忠(うめづのりただ)に命じて河道の付け替え等の河川改修を行った記録が残っています。
 下流部では、万治(まんじ)2年(1659)に秋田藩家老梅津半衛門利忠(うめづはんべえとしただ)(三代目)が藩の許可を得て、現秋田市仁井田(にいだ)付近を大きく蛇行して流れていた雄物川の河道を、15年の歳月をかけて付け替えました。玉川合流点下流の大仙市神岡町(かみおかちょう)付近では、安永(あんえい)5年(1776)、安永6年(1777)、天明(てんめい)元年(1781)と大洪水に見舞われたことから、天明2年(1782)6月から8月にかけての約2ヶ月で延べ3万6千人余人を動員して、新川を掘った記録が残っています。





雄物川放水路事業

 雄物川放水路事業は資産の集積する秋田市の洪水防御と河口港の港湾利用の高度化を図るため、大正6年から当初は工期10ヶ年の計画で着工されました。第1次世界大戦後の物価高騰や国家財政の悪化等があったものの、着工から22年を経て昭和13年4月、現在の河口から日本海へ通水し、放水路が完成しました。伏せて旧川との分流点に新屋水門を設置しました。
 雄物川放水路の整備によって秋田市周辺の浸水被害が大幅に減少し、秋田市を中心に人口が増加、市街地が発展していきました。また、旧雄物川河口部に位置する秋田港を中心として臨海工業地帯の発展等、地域社会・経済発展に大きく貢献しました。


雄物川放水路完成当時(昭和23年)


雄物川放水路完成後(平成18年)



大曲捷水路事業

 旧大曲地区は、雄物川が大きく蛇行する雄物川と玉川の合流点上流に位置し、古くから浸水被害を繰り返してきました。昭和22年の大洪水では市街地全域が浸水する等、甚大な被害を受けました。このため、洪水による浸水被害への根本的対策として、蛇行部分を直線化する捷水路工事に昭和28年より着工し、昭和44年に完成しました。
 大曲捷水路完成により浸水被害が減少し、改修前に比べ市街地が約4倍に広がる等、大仙市の発展に大きく貢献しました。


大曲捷水路改修工事中(昭和36年)


大曲捷水路完成後(平成22年)



強首輪中堤

 大仙市強首地区は、雄物川中流部に位置しています。
 「強首」とは、「河川の渦巻く地」という意味が由来とされ、古来から洪水の常襲地域として耕地や作物の被害、家屋の流失等、甚大な被害を受けてきました。特に、昭和22年7月洪水では集落内の浸水深が2m以上に達したところもあり、486戸のほぼ全戸が浸水する等、戦後最大の被害になりました。
 この地区を洪水から守るためには、長大な区間にわたって新たな堤防が必要であり、整備には長い年月を要することから、地域住民の協力のもと、「強首輪中堤事業」に平成5年より着手し、平成14年10月に完成しました。



強首輪中堤(完成後)





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