水管理・国土保全

  

| 河川トップ | 川の歴史 | 主な災害 | 地域と川 | 自然環境 |   


赤川の歴史


 赤川上流にある出羽三山(月山・湯殿山・羽黒山)には六十里街道を通って多くの人々がお参りにやってきました。出羽三山は古くから信仰の山として有名です。江戸時代の俳人松尾芭蕉も「おくの細道」の旅の途中で出羽三山に登り「ありがたや雪をかをらす南谷」という俳句を作っています。
 赤川で記録にある最初の本格的な工事は、最上義光が庄内を領有(1601年~1622年)していた頃、扇状地頂部の熊出付近で赤川を締め切り、鶴岡に向かっている流路を東側に変えて城下一帯を水害から守ったとされるもので、その後、元和8年(1621年)酒井(さかい)忠(ただ)勝(かつ)が庄内を領有してからは、災害復旧、築堤、捷水路(しょうすいろ)掘削、水制設置等治水工事と同時に舟運のための航路改良工事が行われました。
 いっぽう江戸時代に河村瑞賢が、船で日本海を通って江戸や京大阪へ行く航路を開いてからは、最上川や赤川の舟運を利用して都との行き来が盛んに行われました。行きの舟には米や紅花が摘まれ、帰りの舟には山形ではあまりとれない塩や砂糖、もめんなどが積まれてきたのです。この行き来によって酒田の町はとても栄えました。この舟による行き来は同時に京大阪の文化ももたらしました。酒田市黒森で毎年2月15日と17日に行われている黒森歌舞伎もこうして伝えられたものではないかといわれています。


赤川、最上川の水運と明治以前の物資運搬路
出典:「庄内の道」建設省酒田工事事務所(S60.5)・日本地理学会「地理学評論」より長井政太郎氏作成


慶長7年(1602)頃の流路の変遷路図
※出典 東北の河川



主な治水事業
赤川放水路開削
 秋田県に住んでいた榊田清兵衛は赤川の治水工事を行った代表的な人物です。仕事で庄内に来たとき、清兵衛は赤川の治水工事の話を聞きました。それは大雨のたびに洪水が起こるため田んぼを潰して最上川に繋がっていた赤川の川幅を広げるというものでした。農家の人は田んぼを亡くしては困ります。そこで、治水工事の話を聞いた清兵衛は、政府に願い出て、田んぼを潰すかわりに砂丘を掘って新しい川を作る工事を初めてもらったのです、この治水工事により赤川は最上川から独立した川になりました。


放水路の開削による流路の変遷




赤川放水路改修
 昭和17年に概成した赤川放水路の流下能力は1,800m3/s程度で、戦後最大洪水の昭和44年8月洪水(熊出地点実績流量:約2,200m3/s )では破堤災害は免れたものの各地で浸水被害が発生しました。
 このため、戦後最大流量約2,200m3/sを安全に流下させることを目標として、放水路の右岸拡幅工事を昭和60年度から開始し、平成13年度に工事が完了しました。
 庄内砂丘のクロマツ林は、1700年代から防風や飛砂防止を目的に植林され、昭和26年には国の植林事業が本格的に開始されるなど防風林の確立までには苦難の歴史があり、地域の重要な財産となっています。このため、放水路法面もクロマツ植栽により保護し、地域の重要な財産を尊重し受け継いでもらうために地域と連携し、クロマツの植樹を行っています。





大山川引堤事業
 大山川は、鶴岡市西側を北上し赤川放水路に合流する左支川で、赤川本川からの影響を低減し、はん濫を防止するために、昭和26年~昭和37年に本川合流点の下流への付け替えを実施しました。さらに、平成2年~11年には、赤川合流点から2.5km上流において洪水の安全な流下のため、左岸で引堤を実施しました。




内川新水路開削と捷水路の整備
 左支川内川は、洪水時の赤川本川からの影響によるはん濫被害が繰り返されていました。
 そこで、昭和5年から昭和8年にかけて赤川湾曲部を避けるように新水路を約1km掘削し、内川合流点を下流に付け替える工事を行い、昭和12年に完成しました。



内川新水路計画平面図
出典:東北の河川から作成


昭和5年~昭和12年 内川新水路

赤川中流部河道掘削事業
 内川合流点から下流の赤川下流部は、戦後最大である昭和44年8月洪水における実績流量相当に対して流下能力が極端に不足しており、流下能力の確保を図るために平成11年から現在まで河道掘削を実施しています。







ページの先頭に戻る