水管理・国土保全

  

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霞ヶ浦、北浦、鰐川、常陸利根川、横利根川の歴史

霞ヶ浦のおいたち

 約600年前には、銚子方面から海が内陸部に深く入り込む大きな入江の一部だった霞ヶ浦。それが現在のような淡水湖の姿になったのは、江戸時代中期のことです。川の運ぶ土砂などによって海との間がせき止められ徐々に現在の姿に近づき、さらに江戸時代に「利根川の東遷事業(※)」が行われた結果、霞ヶ浦の南東部に運ばれる土砂の量が増え、17世紀中頃には海水との連絡が悪くなり淡水化した湖となり、それから「霞ヶ浦」という名も定着したと言われています。
※「利根川の東遷事業」
  それまで東京湾に注いでいた利根川の流れが銚子で太平洋に注ぐいまの流れに変えられた事業。




霞ヶ浦流域の変遷




特有の歴史、先人の知恵の活用
・湖名の由来
霞ヶ浦は8世紀半ばに書かれた「常陸国風土記」には流海、また「万葉集」には浪逆の海という名で出ています。流海は高浜の海、佐賀の海、信太の海、浪逆の海、香取の海、榎浦、安是の湖の総称でした。平安時代は鹿島灘の外の海に対して、内の海とよばれていました。これらの名が示すように、入江であったことから内の海と呼ばれていました。鎌倉時代は 内の海のうち高浜の海、佐賀の海、信太の海、行方の海を合わせて「霞の浦」ともよんでいました。これが霞ヶ浦の名の起こりと言われています。


帆引き船(昭和30年代頃)



・歴史的治水事業(利根川の東遷から居切堀の完成へ)
江戸時代の初め東京湾に注いでいた利根川を現在の銚子を河口とする川筋に瀬替えしました。これが俗に言う利根川の東遷です。これにより利根川の下流から霞ヶ浦一帯は洪水の常襲地域となりました。特に天明3年の浅間山大噴火による土砂の流入によって利根川の河床が上昇してからは少しの出水で水害を受けるようになりました。これに対処するために北浦から鹿島灘への放水路が計画され、明治の初めに居切堀として竣工しました。今はその一部が堀割川へと姿を変えています。



本新島干拓(茨城県稲敷市)


本新島締め切り完了(茨城県稲敷市)

・水運(江戸時代~現在)
霞ヶ浦・北浦一帯は古来より水上交通が盛んでしたが、江戸の発展と共に東北地方からの物資輸送が盛んになり、その舟運ルートとして利用されるようになりました。
 明治になると蒸気船が就航し、水上交通はますます盛んになっていきました。ところが、明治29年の常磐線の開通を封切りに鉄道の整備が進み、またその後バスやトラックなどの陸上交通も登場し、水上交通は幹線輸送の手段としては鉄道・自動車に主役を譲りました。しかし、ローカルな交通手段としては、水泳客や観光客の輸送手段として昭和40年代まで舟運が利用されました。今でも、潮来のアヤメ祭りの季節等にはサッパ舟が行き交う等、観光客を楽しませています。


嫁入り舟(茨城県潮来市)


・漁業の変遷(霞ヶ浦の風物詩~帆引き船~)
霞ヶ浦が入り海であったころは黒鯛、スズキ、蛤といった海産の魚種が多かったことが「常陸国風土記」に記されています。しかし、江戸時代以降は利根川東遷により霞ヶ浦が淡水化してきたため、コイ・フナ・ワカサギ・シラウオなどの種類にかわってきました。この豊富な水産資源を管理するため江戸時代の霞ヶ浦・北浦では、霞ヶ浦四十八津、北浦四十四津と呼ばれる自治組織が霞ヶ浦を入会管理(共同管理)していました。これらの結束を強化するために従来の漁業の慣習を明文化した「霞ヶ浦四拾八津議掟書」は入会で漁をするときの漁具、漁法、漁期の制限について規定し、これにより漁業資源の保護が図られ、湖の秩序が維持されました。明治に入ってから地元の漁師によって大徳網漁や帆引き漁という霞ヶ浦独特の漁法が考案されました。特に帆引き漁は少人数での操業で大量の漁獲が得られたためワカサギ・シラウオ漁に用いられて広く普及し、帆引き船が浮かぶ独特の景観は霞ヶ浦を代表する風物詩ともなっていましたが、現在は観光用に運行するのみとなっています。


帆引き船





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