水管理・国土保全

  

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久慈川の歴史

久慈川の歴史と治水

"水戸藩の穀倉地帯として開けた久慈川沿岸では、度重なる洪水の被害から逃れるため、文政3年(1820)に竹林による水害防備林の整備が始められ、現在でも多数の地区で残存しています。また、その他にも霞堤・水屋などの洪水との戦いの歴史が残されています。"





特有の歴史、先人の知恵の活用
水害防備林と霞堤
水戸藩(徳川光圀:水戸の黄門様で有名)の穀倉地帯として開けてきた久慈川沿岸では、江戸の昔から度重なる洪水被害を受け、小倉村の庄屋となった沼田伝蔵という人が久慈川の氾濫に心を痛め、築堤とともに川岸に真竹の植栽を進めました。また、辰ノ口村の木村弥次衛門という人も文久2年(1862)に洪水の跡を見回った折、川岸に竹根が残っていることに気付き、竹を植えて護岸とすることを始めたと伝えられています。竹林は、当時水戸藩によって「御立山」(おたてやま)として保護されてきたと記録されています。現在でも、久慈川流域には河口から上流域までの間で、12ヶ所の水害防備林が残っています。現在、この水害防備林はほとんどが民有地となっています。それらは、各地域の組合組織で管理されていましたが、中には管理の手が行き届かない箇所も見受けられ、堤防の整備が進められてきた現在では、「低水護岸の保護・堤防への水当たりの減勢(水の勢いを弱める)・洪水流とともに氾濫源へ流れ入る土砂の抑制」と言った目的で整備されましたが、近年、水害防備林の面積が増加し、洪水流の流れを阻害している等の好ましくない要素を持つようになってしまった箇所があります。それらは、今後の河川整備を進めていく中で、一般の方々の意見も参考にしながら、歴史的な治水資料として保存して行かなければならない地区・安全に洪水を流下させるために伐採整理して行く地区、に分けて管理していくことが必要と思われます。

 また、久慈川本川の常陸大宮市富岡橋付近や支川の里川には、「霞堤」と呼ばれる堤防が連続していない箇所があります。これは、洪水流を逆流させて水の勢いを弱めたり、上流部で堤防を超えた氾濫水を川にスムーズに戻したりと言った目的で造られました。
 このように、昔からの工法が現在でも流域の安全を守るため活かされています。


水害防備林 久慈川 21.0k付近 (H25年度撮影)


霞堤 里川6.5k付近 (H25年度撮影)



生活に根付く治水

久慈川下流の洪水が多い地帯では、昔から水屋と呼ばれる蔵や隠居所を母屋よりも一段高い土台に整備する方法で安全を図っていました。


亀下地区の水屋(東海村)






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