綾瀬川流域は、中川と同じく標高10m以下の地域が大半を占めています。また、綾瀬川は江戸時代以前には、荒川の派川であり、大河であったと考えられています。しかし、1600年代初頭に伊奈備前守忠次により、荒川分流口に堤(備前堤)が築かれた時期にあわせて荒川と分離され、以降かんがいの用・排水路としての役割を担うことになりました。
現在の草加市一帯は、かつては低湿地で、人々は綾瀬川や中川が運んだ堆積土砂でつくられた自然堤防の上を行き来するしかなく、江戸時代初期までおもな交通路はありませんでした。
江戸時代初期の1630年頃、草加は日光街道の宿場となり、本陣、脇本陣を持つ宿場町となりました。この街道と宿場の発展とあわせ、洪水被害をなくすことと、かんがい用水の確保や舟運に使うために、綾瀬川や伝右川などの整備も行われたともいわれています。
現在、草加市内には草加松原と呼ばれる1.5kmほどの旧街道と綾瀬川が平行している区間があります。ここは、江戸時代の整備後松が植えられたといわれ、樹齢200年程度と言われる松並木が残る綾瀬川の代表的な風景として、人々に親しまれています。