水管理・国土保全

  

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利根川の歴史

利根川の東遷

現在の利根川は、関東平野をほぼ西から東に向かって貫流し太平洋に注いでいますが、近世以前においては、利根川、渡良瀬川、鬼怒川(毛野川)は各々別の河川として存在し、利根川は関東平野の中央部を南流し荒川を合わせて現在の隅田川筋から東京湾に注いでいました。天正18年(1590年)に徳川家康の江戸入府を契機に付替え工事が行われ、この結果、利根川は太平洋に注ぐようになりました。この一連の工事は「利根川の東遷」と言われ、これにより現在の利根川の骨格が形成されました。


東遷前


東遷後



利根川東遷と舟運

天正18 年(1590)に徳川家康が江戸に幕府が開いたことにより、江戸が政治の中心となりました。そのため、年貢米の輸送や、寛永11年(1635)の参勤交代制度、江戸城普請などをきっかけとして江戸の人口が増加し大量の物資輸送が必要となりました。
 東北諸藩では江戸への廻米によって換金する必要がありましたが、外海を通って江戸に向かう航路では、風待ちのために多くの日数を要し、鹿島灘や房総沖の難所を通るため、常陸の那珂湊に入り、途中陸送を伴うルートをとっていたが、輸送力が限られていました。
 東遷事業により利根川水系は関東平野に巨大な水路網を形成し、関東地方だけでなく、外海ルートと結ばれた津軽や仙台など陸奥方面からも物資が盛んに行き交うようになりました。
 このため利根川は、日本きっての内陸水路として栄え、本川・支川の沿岸には、荷を下ろす河岸が数多く設けられ蔵や河岸問屋が建ち並び、賑わっていました。
 明治23年(1890)には利根運河が開通し、東京への舟運は従来と比較して航路、日程とも大幅に短縮できたため運賃も安くなり、明治24(1891)年には年間3 万7,594 艘もの船が利根運河を通りました。
 明治20 年代前半まで荷物輸送の中で重要な地位を占めていた舟運でしたが、明治17年(1884)の高崎線、明治29(1896)の土浦線(常磐線)をはじめとする鉄道網の整備や道路の改良など陸上交通が発達し、舟運は徐々に衰退していきました。


江戸時代の利根川




浅間山大噴火

利根川水系の水源山地には多数の火山が存在しています。これらの火山は溶岩と火山砕屑物との互層から成り、急峻な地形を呈しています。このため豪雨のたびごとに水源山地において多くの崩壊が発生するとともに多量の土砂が流下し、下流では河床の上昇等が発生し、治水・利水機能等に障害をもたらしてきました。
 天明3年(1783)の浅間山大噴火は、わが国でも最大級のもので、利根川の支川吾妻川上流端にあった群馬県嬬恋村の鎌原集落を全滅させ、浅間山麓だけでも泥流によって多くの家が流され、多くの死者を出す大惨事となりました。
 浅間山は、5 月(旧暦4月)から噴火を始め、震動を繰り返し、8月(旧暦7月)の利根川流域が大雨に襲われていた時期に、大噴火を起こし、激しい降灰をもたらしました。
 爆発によって吾妻川に流れ込んだ火砕流は、すさまじい泥流を引き起こしながら利根川に流れ込み、前橋にかけての沿岸の村々を襲いました。
 泥流は、烏川との合流点で3m堆積し、河口では流れ出した泥流が海を真っ黒にしたといわれています。
 浅間山の噴火は、多量の泥流で利根川の流れを一変させただけでなく、土砂の堆積により河床の上昇を招いて、以後、利根川が氾濫しやすくなる要因となりました。
 また、この噴火は「天明の大飢饉」の一因にもなりました。


浅間山大噴火のようす


噴火により運ばれた石を利用してできた石垣(埼玉県本庄市)



近代国家誕生と利根川の改修

明治維新後、新政府の諸施策が進められるなかで、交通運輸の近代化は重要テーマの一つでした。しかし、鉄道網の整備には長期間を要するため、これと平行しながら江戸時代から発達している海上沿岸交通と内陸舟運路の整備と拡充が当面の重要政策として進められました。また、一方、政府財源の大半を占める地租対策として、水害防除と灌漑用水の安定化のための河川整備も重視されていましたが、大工事を完遂するだけの資力は乏しい状況でした。このようなことから新政府はオランダ工師を招へいし、まず低水工事を計画し水運を発達させるかたわら、特に水害の恐れのある場所を選んで水害防除のための工事を行うこととしました。こうして明治8年に利根川で河川改修工事が直轄事業として開始されました。


利根川ケレープ水制工事絵馬【明治16年奉納】(原資料:埼玉県加須市本郷鷲神社所蔵)





明治~戦前の改修工事の概要


 利根川の治水事業は、明治29年の大水害にかんがみ、直轄事業として栗橋上流における計画高水流量を3,750m3/sとした利根川改修計画に基づき、明治33 年から第1期工事として佐原から河口までの区間、明治40年に第2期工事として取手から佐原までの区間、さらに明治42 年には第3期工事として沼ノ上(現在の八斗島付近)から取手までの区間の改修に着手しました。
明治43年の大出水により計画を改定し、栗橋上流における計画高水流量を5,570m3/sとして築堤、河道掘削等を行い、屈曲部には捷水路を開削し、昭和5 年に竣功しました。さらに、昭和10年、13年の洪水にかんがみ、昭和14年に利根川増補計画に基づく工事に着手しました。その計画は、八斗島から渡良瀬川合流点までの計画高水流量を10,000m3/sとし、渡良瀬遊水地に800m3/s の洪水調節機能をもたせ、取手より下流に利根川放水路を位置づけたものでした。


明治以降の工期区分図


第3期改修工事の概要



戦後の改修工事の概要

太平洋戦争終戦直後の昭和22年9月のカスリーン台風は未曽有の豪雨をもたらし、甚大な被害をもたらす大洪水となりました。このため治水計画の再検討が必要となり、昭和24年2月に利根川改修改訂計画を策定しました。これ以降、利根川では羽生・千代田・五霞地区、江戸川での宝珠花地区等の150m を越える大規模な引堤を始め、流下能力の確保に主眼を置く河道改修の他、渡良瀬遊水地等の調節地化工事が進められ、一部完成しています。上流部においては、昭和27年に利根川本川の藤原ダム(昭和33年竣工)に着工したのを始め、相俣(昭和34年竣工)・薗原(昭和41年竣工)・矢木沢(昭和42年竣工)・下久保(昭和43年竣工)、奈良俣(平成3年竣工)等のダムが完成しました。これらのダム群は、利根川の治水に大きな役割を果していると同時に、発電をはじめ農業・工業・上水道用水の安定化を図っています。


大規模引堤(利根川)


渡良瀬遊水地調節池化工事




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