水管理・国土保全

  

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手取川の歴史

高度な水利用と洪水とのたたかい
水流の趣くままに流路を変えてきた手取川
手取川の下流部は、鶴来町を扇頂部として典型的な扇状地地形を形成していますが、その形成が始まったのは今からおよそ200万年前と考えられています。その後、扇状地が海になる海進時代と海岸線が後退する海退時代が繰り返され、現在のような地形が概ね完成されたのは、およそ縄文時代後期頃になってからです。
 手取川本流は現在の山島川(山島川用水)の南川水系であったと考えられおり、日本海の海退の進行につれて左岸へ分流し、奈良時代には水流の趣くままに扇状地を広がって流れ、比楽河川と呼ばれていました。その後、本流は大慶寺川、比良瀬川へと移り、さらに冷川、今湊川、北川(中島用水)、南川へと移動して、現在の手取川へとその姿と呼び名を変えています。


流路変遷の年代図



荒ぶる川
手取川は古くより、石川県の穀倉地帯である加賀平野を潤し、流域の人々に恵みをもたらしてきた一方、その急流河川、天井川という河道特性ゆえに、度々洪水を起こす「荒ぶる川」でもありました。
 特に被害の大きかったのは、昭和9年(1934年)7月11日の洪水です。活発な梅雨前線による記録的な豪雨に、残雪による融雪出水も加わり大氾濫となり、堤防越水や侵食により数カ所で決壊し、97名の人命が奪われ、2,113町歩の耕地が手取川から流出した土砂などにより埋没したという記録が残されています。
 昭和41年(1966年)には一級河川に指定され、水衝部の補強、堤防の嵩上げなどの治水事業が進められました。昭和43年(1968年)完成の大日川ダムと昭和55年(1980年)完成の手取川ダムと合わせ洪水調節が可能となり、現在は河川氾濫による被害も激減し、手取川は安全な郷土形成の確固たる土台となっています。


昭和9年7月洪水の状況



「霞堤」「村囲堤」
洪水の歴史とともに治水事業の歴史も古く、下流の河道部には、洪水との闘いの歴史から生み出された治水技術である「霞堤」や「村囲堤」などが今も残っています。

手取川「霞堤」

霞堤












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