水管理・国土保全

  

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円山川の歴史

アメノヒボコ伝説

古代の但馬(たじま)は、日本海の「海の道」を通じて大陸との交流が盛んに行われた地域で、代表的な伝説の一つに「アメノヒボコ伝説」が存在します。朝鮮半島の新羅(しらぎ)の王子アメノヒボコは、今からおおよそ二千年前、垂仁(すいにん)天皇の時代に但馬に渡って来たと伝えられています。

『古事記』には「天之日矛(あめのひぼこ)」、『日本書紀』には「天日槍(あめのひぼこ)」と記されているアメノヒボコは、但馬に製鉄技術を伝え、大規模な治水工事を行って繁栄の基礎を築いた「但馬開発の祖神」とされているのです。

遠い昔、円山川は広い入り江湖で河口まで土砂が堆積し、その一帯が泥海で毎年のように大水の被害に苦しめられていました。そこで、アメノヒボコが瀬戸と津居山(ついやま)の間の岩山を切り開き、泥流を日本海に流して肥沃(ひよく)な但馬平野を現出させたというのです。そのアメノヒボコの功績が讃えられ、現在、但馬の一の宮の出石(いずし)神社(豊岡市出石町)に祭神として祭られています。



瀬戸岩引きの図(出石神社蔵)




治水の歴史

円山川の歴史は川と人間との戦いの歴史でした。流れが緩やかなうえに曲がりくねった円山川は、年に2~3度も流域一帯に氾濫を起こし、農作物の被害は元より、住民の生活や生命をも脅かすものでした。

室町時代には「人柱」の悲しい歴史をうみ、六方新田(ろっぽうにった)の領主新田史郎義直(にったしろうよしなお)が悪習をなくすよう遺言を残し、自ら人柱になったという歴史悲話も残っています。命がけの治水の歴史を刻む円山川で、本格的な河川改修が行われるようになったのは近代に入ってからのことです。

「治水組合」がやっと結成された明治時代に、国の管轄のもと、人々は発達した治水技術を基に1920(大正9)年から1937(昭和12)年に本川をショートカットするなどの大改修を行いました。その後、一時は兵庫県管理となりましたが、水害が続いたため、「砂防の神様」赤木正雄博士、河川改修や港湾整備に尽力した「治水の神様」沖野忠雄博士などの地元出身の土木技術者により1956(昭和31)年からは再び国の直轄管理となり、築堤や河床の掘削、川幅の拡幅といった治水事業が実施され、現在に至っています。


赤木正雄氏の銅像 (豊岡市塩津)


沖野忠雄氏の碑(出石神社)



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