国による直轄事業としては、大正6年9月の大洪水を契機として、大正12年に「紀の川改修計画」を策定したことから始まりました。(計画高水流量は最下流で5,600m3/s)
その後、紀の川の歴史に残る大洪水となった昭和28年・34年の台風による出水を受け、昭和35年に「紀の川修正総体計画」を策定し、初めてダムによる洪水調節を取りんだ計画となりました。この計画では、橋本における洪水時のピーク流量を7,100m3/sとし、このうち2,600m3/sを多目的ダムで洪水調節(貯水)する事としていました。
紀の川における計画は、昭和40年の新河川法の施行に伴い、そのまま「紀の川水系工事実施基本計画」として策定されるところとなりました。
しかしながら、昭和40年、同47年と大出水が相次いだことや、紀の川流域の家屋・資産が増大していることから、紀の川の治水安全度を向上させる必要性が生じ、治水安全度を船戸下流では1/150、上流及び支川貴志川では1/100とする、工事実施基本計画の改訂が昭和49年3月に河川審議会で認められるところとなりました。この計画では、紀の川最下流の基本高水流量が16,000m3/s、ダム群による洪水調節を4,000m3/sとして計画高水流量は12,000 m3/sと定められ、内務省が始めた大正12年当時の流量5,600m3/sに比較すると約2倍となりました。