熊川は室町時代に戦略的な要地として足利将軍直属の武士沼田氏が山城を構えたところであり、さらに浅野長政が小浜城主となったとき、交通・軍事の要衝として天正17年(1589)、熊川に対して諸役御免の布告を発し、この地の特別な発展を図りました。この政策は受け継がれ、熊川は江戸時代を通じて近江国境に接する宿場町として大いに繁栄してきました。
「熊川村誌」によると、当時の多いときには20万駄の米・肥料・魚などの上り荷が熊川宿を経由したと記されています。牛馬平均2俵半の荷付けで1年間のうち240日働いたとしますと、1日1000頭の牛馬を必要としたことになります。
熊川文書「御用日記」享保14年(1729)の覚書によれば、越後・宮津・田辺・峰山・豊岡・出石などの蔵米、カレイ、アゴ、アジ、タラ、能登イワシ、能登サバなどの塩で処理したものや四十物、干し魚、その他たばこ・厚紙・半紙・木地・ごま・鉄・銭など他種類に及んでいます。いかに熊川が商業交通の中継地して栄えていたかを、窺い知ることができます。
宿場は、荷物運送の中継地としてだけではなく、休憩や宿泊の機能も有していました。大名や役人、貴人が休憩宿泊する本陣としては、熊川町奉行所を充てたようです。また、酒井家の菩提寺空印寺住職は、問屋十一屋久左衛門が進めた旅館に泊まり、これを本陣としたとされています。熊川では、民間の本陣や脇本陣は設けられませんでしたが、問屋や一般商家も休憩宿泊の機能を果たしていたようです。
熊川宿は、国道303号の南測に約1.4kmにわたる旧街道沿いに、約1.1kmの区間に伝統建造物群が軒を連ねています。
この建物群の前を街道に沿って前川が流れ、かわとがあり、小さな水車風の小芋洗い器がかけられて、速い流れにクルクルと廻り風情をかもしだしています。