淀川は長岡京(784年遷都)や平安京(794年遷都)の頃から、都と瀬戸内海を結ぶ交通の大動脈として利用されていました。江戸時代の大阪は「天下の台所」として繁栄しましたが、その基礎となったのも淀川の水運でした。
ところが明治初めの淀川は、上流から流れてくる真砂(花崗岩が風化した砂)が堆積し、水深およそ40cm。流心は一定でなく、昨日の澪筋は今日の浅瀬と変わり、航路は迂余曲折し、40石積みの舟がようやく航行できるというありさまでした。河床の浅いところでは数人の人夫が小舟に乗り、鋤簾で土砂をすくい、舟を進める「澪掘り」という一時しのぎで、わずかに航路を維持していました。
当時、日本に招かれた、オランダ人土木技師ヨハネス・デ・レーケ達によって、淀川の改修工事が始まりました。この工事の目的は蒸気船が淀川を通って大阪湾から京都の伏見まで行けるように、1.5mの水深を保つことにありました。そのため、この工事で用いられたのが、明治時代の初め、ヨーロッパから持ち込まれた「粗朶水制」という技術です。 この水制は岸から川の中央に向かって垂直に突き出した形をしており、木の小枝や下草をあんだものを何重にも積み重ね、その上に大きな石を乗せ、川の底に沈めて作りました。この水制を使えば、水の流れは、木の小枝の間を通ることができ、穏やかに川の流れを曲げることができました。この水制で囲まれたところに土や砂がたまり、その上に水際を好む木や草が茂り、現在の「ワンド」の元の形ができました。水制工事は、昭和20年代前半まで行われました。