水管理・国土保全

  

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淀川の歴史

日本で最初の大規模治水工事

時は4世紀、淀川と古川の間の小高くなった土地(旧茨田郡)を度重なる水害から守るため、仁徳天皇によって淀川左岸に築造された堤防が「茨田堤(まんだのつつみ)」です。茨田堤は古事記や日本書記にも記されています。 淀川の治水の歴史は、およそ1600年前につくられたこの茨田堤にはじまり、これは日本で最初に行われた大規模な治水工事とされています。茨田堤の確かな場所についてはいろいろな説がありますが、門真市の堤根神社境内に今もその名残を見ることができます。

茨田に堤を築くとき、二ヶ所の難所があり、天皇の夢に神が現れ、「武蔵の人強頸と河内の人茨田連衫子(まんだのむらじころもこ)の二人を捧げろ」と告げました。武蔵の強頸は川に沈んで死に、一ヶ所の堤は完成しました。河内の衫子は瓢箪を川に投げ入れ、「瓢箪を沈めることができなければ、それは偽りの神のお告げである。」と言いました。すると突風が起こり、瓢箪を水の中に引き入れようとしますが、瓢箪は浪の上を転がるだけで沈まず、急流にただよいながら流れ去りました。それで衫子は助かり、その難所の堤も完成しました。その二ヶ所を強頸絶間、衫子絶間と呼びます。




茨田堤


堤根神社(門真市)にある碑



ヨハネス・デ・レーケらによる淀川改修

淀川は長岡京(784年遷都)や平安京(794年遷都)の頃から、都と瀬戸内海を結ぶ交通の大動脈として利用されていました。江戸時代の大阪は「天下の台所」として繁栄しましたが、その基礎となったのも淀川の水運でした。

ところが明治初めの淀川は、上流から流れてくる真砂(花崗岩が風化した砂)が堆積し、水深およそ40cm。流心は一定でなく、昨日の澪筋は今日の浅瀬と変わり、航路は迂余曲折し、40石積みの舟がようやく航行できるというありさまでした。河床の浅いところでは数人の人夫が小舟に乗り、鋤簾で土砂をすくい、舟を進める「澪掘り」という一時しのぎで、わずかに航路を維持していました。

当時、日本に招かれた、オランダ人土木技師ヨハネス・デ・レーケ達によって、淀川の改修工事が始まりました。この工事の目的は蒸気船が淀川を通って大阪湾から京都の伏見まで行けるように、1.5mの水深を保つことにありました。そのため、この工事で用いられたのが、明治時代の初め、ヨーロッパから持ち込まれた「粗朶水制」という技術です。 この水制は岸から川の中央に向かって垂直に突き出した形をしており、木の小枝や下草をあんだものを何重にも積み重ね、その上に大きな石を乗せ、川の底に沈めて作りました。この水制を使えば、水の流れは、木の小枝の間を通ることができ、穏やかに川の流れを曲げることができました。この水制で囲まれたところに土や砂がたまり、その上に水際を好む木や草が茂り、現在の「ワンド」の元の形ができました。水制工事は、昭和20年代前半まで行われました。



粗朶水制工の作業の様子


淀川を進む外輪船



淀川改良工事による新淀川掘削

明治18年の洪水をきっかけに、明治29年(1896年)河川法が制定され、淀川の洪水対策が本格化し「淀川改良工事」が行われました。

改良前の淀川は、川幅が狭く蛇行しており、また、低平地である大阪の街の中心部を流れていたため、いったん洪水が起こるとその被害は甚大でした。そこで、街の中心部から離れた北側に新しい放水路を開削し、川幅を大きく拡げて、大雨の時に大量の水を直線的に素早く海に流せるよう、新しい川を造りました。

この守口から大阪湾までの約16kmの「新淀川」の誕生により、安全に流せる水の量が飛躍的に増え、大阪の街の中心部は洪水の被害が起こりにくくなりました。




現在の淀川と改良工事前の三川




淀川大堰

淀川大堰は、平常時には大阪湾からの塩水の遡上を防止し、都市用水(水道用水等)の取水や大川・神崎川への維持用水の流下を行っています。渇水時には都市用水の貯留を行います。また、洪水時には、速やかに淀川の洪水を大阪湾に流下します。




淀川大堰





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