水管理・国土保全

  

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地域と淀川

舟運で栄えた淀川

日本の川づくりの原点である茨田堤、難波堀江、奈良時代の都や寺院建築のための筏による木材流送など、淀川と人との関わりは深く、古くから様々な利用が行われています。

また、舟運も盛んで、三十石船、くらわんか舟などの歴史があり、水上交通が西国街道、京街道、木津路などに連絡し川と関連した交通が古くから発達していました。

豊臣秀吉は河川を作戦に積極的に利用した武将で、淀川左岸の文禄堤など軍事と治水さらには交通と、多目的な築堤工事を行っています。

鉄道等の陸上交通機関の発達により、淀川においても舟運の衰退が見られましたが、今日では観光を目的とした定期運航が平成29年から始まりました。


定期舟航


月見クルーズ




万葉集において詠まれた淀川

古くから政治、経済、文化を支え育んできた淀川ですが、歌枕としてもその面影を今に伝えており、万葉集に以下のような歌があります。

三島江の玉江の薦(こも)を標(し)めしより 己(おの)がとぞ思ふいまだ刈らねど(柿本人麻呂)
 時知らぬ里は玉川いつとてか 夏の垣ねをうづむ白雪(定家)

ここで歌われている三島江や玉川は淀川右岸の高槻市にあります。
 また、与謝蕪村は大阪郊外の摂津の国東成郡毛馬村(現在の都島区毛馬)に生まれ、淀川を題材にした詩を多数残しています。

やぶ入(いり)や浪花を出(いで)て長柄川(「春風馬堤曲」第一首)
春風や堤長(なご)うして家遠し (  同    第二首)


与謝蕪村生誕地の石碑




淀川サミット

「大塚切れ」から100 年である平成29(2017)年淀川流域の首長を含む行政関係者が集結し、想定される最悪のシナリオを念頭に、淀川流域における将来に向けたあり方などを議論する「大塚切れ100 年淀川サミット」が開催されました。 サミットで、先人たちのご労苦に感謝するとともに、昭和5 (1930)年に建立された大塚切れ洪水記念碑の最後に刻まれている、「居安必勿忘危(安に居て必ず危を忘るること勿れ ) ― 安楽に暮らしていても、絶対に危機のあることを忘れてはならない」との言葉をいましめに、、未来に向けて流域に暮らす人々が共に歩んでいくことを「淀川宣言」として宣言しました。


淀川サミット





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