水管理・国土保全

  

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高津川の歴史

益田平野の発達

 縄文時代(約6,000年前)は海面が現在の位置より高い位置にあったため、益田平野の大半は日本海でした。高津川筋では、少なくとも現在の益田市飯田付近にまで海水が流入し、吉田付近一帯は『古益田湖』と言われる潟湖(砂州によって外海から分離されてできる海岸の湖)の状態であったと考えられています。弥生時代以降、鎌倉~室町時代(約800年~400年前)にかけて古益田湖は、高津川・益田川の堆積作用により縮小を続け、中島、吉田付近も陸化していきました。


縄文時代の高津川


鎌倉~室町時代の高津川



津和野藩による高津川の改修

 高津川における最も古い治水工事の記録は、元和2年 (1616) 津和野藩が名越の地に水刎工事を行い、自領内に新河川を開削し、益田川に流れ込んでいた高津川を流入させました。これにより、津和野藩では自領内に高津川の河口を位置させることによって産業の興隆(たたら鉱業等)、舟運の発達、物資の輸出入を図りました。当時の重要産業として製鉄業があり、軍備増強のため、日原に炉を建設し、那賀群井野村(現在の浜田市及び三隅町の一部)から原料の砂鉄を海路で高津に運び、高瀬船で日原まで運んで製鉄を行われました。製鉄業に必要な木炭は高津川上流の山林から調達されました。また、虫追の上端に大石を積んで堤防を築き河川を花カ瀬に向けて曲流させ、内田のライコウを掘り切って現在の高津川派川を飯田に向けて通されました。これより虫追は干上がり良田となりました。


江戸時代の高津川





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