水管理・国土保全

  

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小瀬川の歴史

小瀬川の歴史

 小瀬川は、広島県、山口県の県境を流れる川です。1600年代の小瀬川河口部の川筋は幾筋にもなっており、洪水の度に川筋を変化していました。そのため1801年まで両県の県境が確立していませんでしたが、両県の和談成立を契機に、大規模な干拓事業が行われるようになり、この干拓事業と併せて小瀬川河口部の築堤も進み、現在の様な河川が完成しました。





小瀬川境界論争

 小瀬川は、広島県、山口県の県境を流れる川で、藩政時代には安芸(あき)側(広島県)で木野川(このがわ)、周防(すおう)側(山口県)で小瀬川、またこの河川は芸防(げいぼう)両国の国境であることから御境川(おさかいがわ)と呼ばれていました。

 1600年代の小瀬川河口部の川筋は幾筋にもなっており、また、洪水の度に川筋を変化させ、上流からの土砂供給等によって自然の沖積作用によって広大な干潟が発達していました。

 両国の境界の決め方一つで、そのまま両国の利害が大きく左右することにつながるため、自然本流の定まらない状況の中、国境河川であることから度々領地紛争が繰り返され、その度に多くの負傷者を出してきました。

 この紛争を解決する方法は、明確不動の国境を定めて、両国にて合意する外に方法はありませんでした。そこで両藩当局は享和元年(1801)和談によってこの地に境界を設置し、翌二年(1802)には大工事を断行して境界水路(現在の川筋)を大きく掘り割り、水路の中央線をもって境界を確定させました。

 また、磯別けも同時に行い、毎年両国は磯の境界線より双方30間(約54m)ずつ離して杭を打ち、それより内側を双方の利用範囲として、長い間続いた境界論争に終止符が打たれました。


寛政10年(1633年)頃の小瀬川河口


現在の小瀬川河口



河口干拓の歴史

 小瀬川境界工事の完成に伴い干拓も境界付近において活発に行われる様になり、山口県側の和木(わき)村では岩国藩(いわくにはん)により享和3年(1803)から享和開削が始められ、その後も、次々と嘉永3年(1850)までに装束(しょうぞく)開発、沖(おき)新開(※)の事業が行われました。

 一方、広島県側の大竹(おおたけ)村による干拓事業は山口県側より遅く文化5年(1822)に青木(あおき)新開が、その後、中(なか)、沖(おき)、油見(ゆみ)、立戸(たちど)、小島(こじま)、烏帽子(えぼし)新開が開かれ明治の始めまで大規模な干拓事業が行われました。

 これら両県の干拓事業と併せて小瀬川河口部の築堤も進み、現在の様な堤防の線形が完成しました。

 このように、小瀬川の河口部の堤防は主に治水上の堤防ではなく、干拓による土地造成のための必要な堤防として干拓事業の進行に伴って築堤されてきました。
(※)新開:荒れ地を新しく切り開くことや干拓をすることをいう。


和談成立前後における干拓の進捗





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