水管理・国土保全

  

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地域と小瀬川

地域と小瀬川

 小瀬川の水質は和紙生産には最適であり、昔、小瀬川流域には多くの紙すき職人が活躍していました。

 現在は、石油精製、石油化学、製紙業、化学繊維等の水を用いる大規模な工場が誘致され、現在の太平洋ベルト地帯の主要な地位を占めることとなりました。

 小瀬川の河川利用状況は、弥栄ダムの周辺でスポーツ公園や水辺広場、キャンプ場等が整備され、魚釣り、水遊び、カヌーや体験学習等に利用されている他、ひな流し(大竹市)等で利用されており、小瀬川を舞台に様々な行事が催されています。




小瀬川の水と産業

藩政時代の産業は水と密接な関係があり、流域の大部分が農業に従事し、小瀬川の水が重要な資源として貢献してきました。その中でも、小瀬川の水質は和紙生産には最適であり、小瀬川流域には多くの紙すき職人が活躍していました。

 明治・大正時代になり、近代化の基礎が確立されてきてはいましたが、引き続き農業と和紙生産が中心の時代が続きました。

 昭和20年代以降、戦後復興を完了した日本経済は成長期入り、技術革新によってめざましい発展をし、小瀬川下流地域も岩国(いわくに)・大竹(おおたけ)工業地帯として石油精製、石油化学、製紙業、化学繊維等の小瀬川がもたらす豊かで良質な水を用いる大規模な工場が誘致され、現在の太平洋ベルト地帯の主要な地位を占めることとなりました。



紙すきの様子


小瀬川河口の工業地帯



小瀬川と人々の暮らし

 小瀬川は人々の往来においても関わりが深く、山陽道を下って安芸(あき)の国(広島)から周防(すおう)(山口県)に入る際に小瀬川の渡し船が重要な役割を果たしておりました。

 小瀬川の渡し船は、大正10年(1921)に両国橋(りょうごくばし)が完成してからまもなく姿を消してしまいましたが、安政の大獄(1859)で処刑された幕末の思想家「吉田松陰」が萩から江戸に移送される時に二度と帰れぬ故郷を忍んで詠んだ歌「夢路にも かへらぬ関を 打ち越えて 今をかぎりと 渡る小瀬川」からも当時、小瀬川が交通の要所であったことが伺えます。


小瀬川の渡しに立つ吉田松陰の歌碑




小瀬川の水辺利用

 小瀬川の河川利用状況は、上流に国定公園、県立公園が隣接し、鳥獣保護区や自然環境保全地域に指定されている区間等が多く、自然に恵まれ、中流部は全国有数の規模を誇る弥栄(やさか)ダムが完成し、関係自治体により周辺整備がなされ、スポーツ公園や水辺広場、キャンプ場等が整備され、魚釣り、水遊び、カヌーや体験学習等に利用されています。また、下流部は散策、魚釣り等恒常的に利用されいる他、「ひな流し(大竹(おおたけ)市)」等、小瀬川を舞台に様々な伝統行事が催されています。


弥栄ダムの利用状況(カヌー)


和木環境護岸での散策




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