矢部川の流域面積に対するかんがい面積は他の河川に比べて大きく、藩政時代以前よりしばしば用水不足に悩まされました。そのため、藩政時代には、矢部川を藩境とした久留米藩・柳川藩の間でかんがい用水をめぐって常に紛争が絶えませんでした。その結果、両藩がそれぞれ自ら設けた堰の水を他藩に落とさないことを目的に、1664年より約180年間をかけて、矢部川の中上流域に「廻水路」(バイパス)が設けられており、当時の激しい水争いの歴史を物語っています。この廻水路は明治時代に入り、各水利組合に引き継がれ、現在も利用されています。
また、矢部川の下流域では、干拓により耕地面積が増大する筑後平野の稲作に必要な水を確保するため、低平地の特性を活かした「クリーク」が網の目のように発達し、水田への取水・還元が繰り返される「反復利用」によるかんがいが行われています。