水管理・国土保全

  

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矢部川の歴史


矢部川の歴史
先人の利水施設【廻水路】
矢部川の流域面積に対するかんがい面積は他の河川に比べて大きく、藩政時代以前よりしばしば用水不足に悩まされました。そのため、藩政時代には、矢部川を藩境とした久留米藩・柳川藩の間でかんがい用水をめぐって常に紛争が絶えませんでした。その結果、両藩がそれぞれ自ら設けた堰の水を他藩に落とさないことを目的に、1664年より約180年間をかけて、矢部川の中上流域に「廻水路」(バイパス)が設けられており、当時の激しい水争いの歴史を物語っています。この廻水路は明治時代に入り、各水利組合に引き継がれ、現在も利用されています。
 また、矢部川の下流域では、干拓により耕地面積が増大する筑後平野の稲作に必要な水を確保するため、低平地の特性を活かした「クリーク」が網の目のように発達し、水田への取水・還元が繰り返される「反復利用」によるかんがいが行われています。



廻水路模式図



先人の治水施設【千間土居】
矢部川の藩政時代の治水利水の先人者として田尻惣馬があげられます。惣馬は、元禄より享保にかけての30余年間で、「千間土居」を整備しました。これは、当時築かれた千三百間(約2,300m)におよぶ土居(堤防)であり、現在は公園としても利用されています。



千間土居


先人の治水施設【水刎】
その他に、矢部川をはさんで、右岸の有馬(久留米)、左岸の立花(柳川)の両藩が、それぞれの領土を濁流から守るため、相手側に向かって水勢をはねだす強固な石積みの「水刎(みずはね)」を競って構築し、それが現存しています。


水刎





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