明治時代以降の近代的な治水事業は、明治17 年4 月に国直轄工事として始まりました。内務省はオランダ人技師デ・レーケの協力を得て、河川の測量を実施し、航路維持を主な目的とした水制や護岸等の低水工事を実施しました。
その後、明治18 年6 月の洪水を契機として、明治19 年4 月に筑後川初の全体計画となる「第1 期改修計画」を策定しました。この計画に基づきデ・レーケ導流堤に代表されるような航路を維持するための低水工事のほか、金島、小森野、天建寺及び坂口の各捷水路工事に着手しました。
その後、明治22 年の大洪水を契機に、高水防御を主とした「第2 期改修計画」を策定しました。この計画に基づき、河口から旧杷木町までの間で分水路工事 や築堤及び水門を整備しました。
さらに、大正10 年6 月洪水を契機に、大正12 年に「第3 期改修計画」を策定しました。この計画に基づき、久留米市から上流の連続堤(天端幅約7m法勾配2 割)の整備や河川拡幅のほか、各支川の合流点に水門を設置し、金島、小森野、天建寺及び坂口の各捷水路の開削、大川市若津下流及び派川諸富川を浚渫して洪水疎通と航路維持を図りました。