大原女の歴史
宗教的に重要な拠点のひとつであることに加えて、大原は、ガスが導入される前、料理や暖房に使われた薪の多くを京都に供給する産地でもあった。室町時代(1336~1573年)にはすでに、町を取り巻くうっそうとした山の中腹から木材を集め、それを20km離れた京都に運ぶようになっていた。
地元の女性たちは60kgもの重さになる薪を、稲藁で編んだものを丸くしたものをクッションにして、頭に乗せて運んだ。彼らは木材を積んだ車を引く男たちに付き添われていた。彼らはその日のうちに、大原では入手が難しいもの、すなわち生魚などを持って戻ってきた。
女性たちの旅は毎年行われる大原女まつりとして再現されている。女性たちは当時の衣装を身につけ、寂光院から三千院までの2kmのルートを歩く。
何世紀もの間に女性たちの服装は変わってきたが、一般的には、袖が細く、腰回りのゆったりとしたタイプの着物を着ていた。この着物は伝統的な着物よりも丈が短く、膝丈となっている。これは快適さと動きやすさのためである。また、稲藁で編んだ脚絆と草履をはいていた。
今日、町を訪れる人々はこの女性たちが身につけた独特な服を借りて身につけ、大原女まつりのルートを歩くことができる。京都への薪運びは、やがて明治時代になり、ガスが市内の多くに供給されるようになると終わりを告げた。