会議記録

 今、日本中で技術の運営の仕方を大きく根本的に変えなければ、どこででも事故が起こり得る危険な時期に来ている。
 次に、失敗知識の伝達についてだが、失敗知識はいろいろなところに皆バラバラにあり、1つも伝わらない。なぜかと言うと、人間がこのような逆樹木構造の組織をつくり、動いているからである。社長がいて部長がいて平社員がいるという構造である。これは、平社員が隣と干渉を起こさないようにするための組織であり、ここで何があっても隣に伝わらない。このような運営を行い、日本中が今までは上手く行っていたが、もうこれでは全然立ち行かないところに来ている。ではどうすれば良いのだろうか。
 失敗情報の知識化が必要である。知識化というのはどういうことか。短い文章で書く、簡単な絵で描くといった、人が分かるような格好である。グジャグジャと沢山書いては駄目である。そのように知識化をして、ある閾値を超えた時に初めて水平展開が可能である。情報だけ集めても誰も使えない。
 さらに失敗は、いろいろなところでドキュメント化されている。どこにでもある。皆が使うことを期待されているが使わない。なぜかというと、使えないからである。それは、結果として表現されているものだけしか与えられないからである。そこまでに失敗の脈絡というものを示さなければいけない。どんなことを迷ったか、何を試したか、その結果としてどういう失敗になったかというところまで、後ろ側を書かないと理解ができないのである。理解ができなければ使えない。
 次に、失敗を生かす工夫について述べる。皆がデータベースをつくって何とかやろうと一生懸命努力している。そして沢山そのようなものができているが使われない。失敗、事故、不具合のデータベースは使われない。なぜか、本当に使う人は、皆欲しい時に欲しい中身を必要な形で与えて欲しいのである。しかし、現在日本中で行っている全部のデータベースは、そうではないのである。欲しくもない時に決まり切った中身がわからない形で与えられる。それは一件落着のためにデータが集まっているだけで、それを利用しろと強制しても無理なのである。
 本当に失敗を生かすにはどうすれば良いか。多分、失敗博物館というものをつくるべきだと思っている。そこでは、失敗の情報収集、発信、伝達などを行うのであるが、多分、実体験を行うというところが非常に大事であろう。それからもう1つは、失敗学の研究を行う必要があると考えている。
 この失敗の実体験とは何かというと、例えば、自動車がスリップしてコントロール不能になるというのは、いろいろなところで皆が経験する。ハイドロプレーニングと言って、雨の路面で起こる。本当にそれが起こってみるとコントロール不能になるので、頭が真白になる。1度真白になった人は、2度とそれだけの危ないことはしない。だから、実体験をやらせる場が一番大事なのである。
 このようなことを主張していたら、去年、科学技術庁の中曽根長官が、この話を聞かせてくれと言うので説明したのである。すると突然、国のプロジェクトを始めてくれと言うことで「失敗知識の活用研究会」というプロジェクトが本当に始まり、今そのとおり動いている。今年はデータベースづくりを行っている。予算は3億円である。現在行っているのは、機械方面、材料方面、化学・プラント方面、土木・建築方面であり、きちんと土木・建築方面も入っている。ここで、本当に失敗したものでデータベースづくりを行う。データベースをつくるのに、事例を沢山集めることも行う。しかしそれだけはなく、どのような脈絡でその失敗が起こって行ったのかをきちんと抽出する作業をやろうということで動いている。最後にまとめとして、失敗についての基本的な考え方について述べる。
 今からスライドを5枚お見せするが、皆さんにお配りしているレジュメの1ページがこれと対応している。

失敗についての見方について。

 これは積極的な取り扱いが必要である。上手く行く方法を教えるより、まずくなる道筋を教える方が効果が大きい。失敗をしなければ、受け入れの素地としての体感や実感は得られない。失敗には許される失敗と許されない失敗がある。これらを混同してはいけない。許される失敗とは、組織や人間個人が成長や進歩する際に必要なものである。そして許されない失敗というのは、同じことを繰り返すものである。

失敗を捉える視点について。

 失敗は、立体的に捉える必要がある。失敗の原因は多層に重なっており、多くの様相で結果が現れてくる。だから、失敗は立体的に、もともと失敗というものを立体で捉えなければいけない。技術的な側面からの取り扱いは当然である。また、責任追及も必要である。しかし、心理的側面というのが最も重要である。経済的、法律的、社会文化的、経営的側面も必要であるが、心理的側面を無視した失敗対策というのは全て失敗する。そして、全ての失敗はヒューマンエラーであるというのが基本である。そして、人は誰でも間違えるということを認めないといけない。

失敗知識の伝達について。

 失敗は知識にしなければ伝わらない。事例についての情報だけでは何も伝わらない。知識にした時に初めて伝達可能になるのである。そして本当に伝えようとすると、結果だけでは分からない。それではどうすれば良いか、脈絡を伝えれば良いのである。脈絡を知らなければ分からないからである。分からなければ伝わらない。伝わらなければ使えない。

失敗の必然性について。

 失敗の出来には必然性がある。失敗は予測ができる。先程述べたように、幾つも次は起こるということを言っている。実は狂牛病問題についても、昨年の6月の時点で新聞を読んでいて、日本が文句を言った時から、「これは必ず起こるから皆待っていろ」と、周りの人に言っていた。客観情勢があるところまで行っていると、必ず確率的に起こることは先が見える。
 予測できるのに防げないのはなぜか。防げないのではなく防がないのである。失敗の素地を放置して予兆を無視し、顕在化しなければそれで良しとする力が働くからである。先程述べたように、失敗の出来は確率現象である。300件に1件しかひどいことにならない。隠そう、隠そうである。
 産業の成熟とともに脈絡の成長と衰退が起こる。成熟すると余計な選択肢が切り捨てられて脈絡が単線化し、予期せぬ外乱で破滅が起こる。それから、局所最適は全体最悪をもたらす。
 また、失敗とか事故が起こると、皆その対策をどうするかという話になり、管理を強化すると言う。それでは全然駄目である。管理はもともとやっていなければ駄目なのである。それがないから、「駄目という時に管理を強化します」というのは答えにならない。なぜそのようなことが起こるかというと、管理を強化すると形骸化が起こり面従腹背ということが必ず起こる。不合理なのに管理だけを行うからそれが起こるのである。失敗を隠すようになるので、結局、同じ失敗を繰り返すことになる。失敗の拡大再生産の道を開くことになる。
 また、社会が依存して影響が大きくて危ないのは、原子力、半導体と大量輸送機関(新幹線と航空機)である。それから、食品と医療である。この辺は沢山起きている。日本では医療ミスで死んでいる人の数というのは、推計でだれも正確な数字を言わないが、アメリカでは最低年間4万人死んでいると言われている。人口比で見た時に、日本は医療ミスで約2万人は死んでいるはずだと言われている。勘定のしようがない。どこも出さないからである。

失敗を生かすための工夫について。

 失敗は、工夫しなければ生かせない。まず、原因究明と責任追及とをすぐにでも分離する必要がある。こうした時に初めて真の原因究明ができるからである。日本は法体系が全くの後進国というか、先進国の中で日本だけ駄目である。免責、司法取引や懲罰的賠償は必須である。
 もう1つは、どんどん起きている告発である。これを奨励しなければいけない。支援のためにやるのではない。社会公正のための告発の奨励ということをやらなければならない。「日本は法律の中でこれが全然体系化されて入っていない」と述べたら、先日、原子力の保安員の方が、原子炉と規制法というものを持ってきて読んでくれた。そこにははっきり、「この法を邪魔すると有罪だ」と書かれていた。日 本もようやく原子力のところだけ1個入った、という状態である。
続いて、全ての基になる知識のデータベースについては、これは多分300件もあれば十分であろう。
最後に、失敗を生かすには得になるような経済的な仕掛けが必要である。潜在失敗の顕在化は経済原則に載せるのが最も良い。例えば失敗への無対策を未払金に計上するような時価会計といったものが必要である。
 先程、下河辺顧問が、「事故や失敗が起こる確率をどのように評価するかということが非常に重要である」と述べられたが、私は全くそのとおりで、それが日本を変えるのではないかと考えている。きちんとした失敗対策、確率的に起こるものの発生の金額を正確に算出して、その分が未払いだということでオープンにしてインターネットに載せたら、日本の資本の流れが全然変わると思う。その位真剣に、早く行う必要がある。それを行うには、どうしても損害保険の方達が一番頑張らなければならないのである。これが日本を変える。

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