会議記録

【高木政務官】
 畑村委員の失敗学のお話で、最初聞きながらずっと考えていたのは、自分も役所の政治家であるが、役所の側に入って政治行政、まさに失敗を許さない状況の中で、第1回目の時にも論議になったのであるが、やはり価値観の問題が大きいということである。
 まさに政治や行政、技術の分野から少し離れてしまうのかも知れないが、何のためにやっているのかというと、やはり人のために、人間の幸福のためにというところで追及をしていくはずだと思うが、結局、何かそこの部分があいまいになり、失敗をしてはいけない、ということになる。国会のやり方というのは全て先例主義である。若手の議員は皆、より効率的にやれば良いと考えてはいるが、なかなかそうは行っていない。
 しかし役所も、かなり手続を大切にしていく部分で、もちろん個々人は考えるということはしていると思うが、その考えを何かやはり組織の中で生かし切れていないという、これは1つ価値観の問題なのかと思う。しかし、それをどうすれば良いのだろうかと自分自身も模索しているが、この失敗学という考え方から行くと、役所というのはどのようになって行けば良いのだろうか。

【畑村委員】
 勝手に手順を変えて良いのであれば、皆楽しくできると思う。しかし、やはり本当に変えたら国の経営はできないと思う。だから、決まりを決めて守るというのは基本であろう。しかし、決まりを守っているのだから私は正しいのだと、そのような主張をするようになった途端に、もうマニュアル化の弊害が起きている。だから、先程も申し上げたように、高いレベルになればなる程、基準というもの自身をいつも変えなければならないものと考えている必要があると思う。
 私は、例えば狂牛病の話で、他の省庁にあまりうるさく言うのは嫌かもしれないが、はたから見ていて、あれはどうかしている。それは何かというと、皆が本当に農水省に求めているのは、畜産の保護だということになっているが、一番ひどいのは畜産を処理したことである。だから、自分達が大事だと思っていると言っても、ひとつも大事にしたことにならない。そうだとすれば、そのからくりをきちんと考えて実行していないこと自体、いかにも手順を正しく踏んでいるかのように言いながら、社会全体にとっては一番駄目にする方向を実行していることになる。それは本当にいけないことである。
 そのように考えると、自分達の中で基準を守ること大事かというと、それは大事である。しかし、本当に最も高いレベルで社会が求めていることをきちんと実行するためには、そこの決まり自身を変えようとしなければならない。それは中からも社会からも出てくるべきことであると思う。
 仮に、自分達の今までのやり方はこうなのだからと言い訳をすると、「そのような省庁はもう要らない」と国民が判断をする時は来ると思う。実際に、農水省と厚生省が行っていたことは、実際にはドイツでも起こった。ドイツでは省庁を改変し、生産用に何かを行うのではなく、消費者用の方に全部の行政の方向を持っていこうと動き出している。
 昨日出席したBSE対策の委員会報告もそのようなことを言い始めているが、おそらく、その方向には大変な抵抗を受け、どうなるのか分からない。しかし、そのような方法を取り込んだ動きをしないと、2つのことが起こる可能性がある。
 1つは、日本の停滞した状況がいつまでも続くということである。
 それから、もう少しそのポテンシャルエネルギーが溜まると、そのようなものは全部要らないということで、日本から日本人が逃げ出すであるとか、皆が考えていることとは違い、誰も日本の国債を買わないといったことが起こる。日本人が日本を全く信用しなくなると、日本のお金が外に全部出て、外から日本は攻撃を受けるようになる。私は、そのようなことがまもなく見えそうになっていると考えている。あまりに甘く見ては大変危ない。
 日本の国債の格付けが落ち始めたということは、外国が日本を信用していないという話で述べられているが、これは嘘である。日本から出て行った大半のお金が日本の攻撃に回り始めているのではないか。私は国際経済のことは何も知らないが、どうもそのように見えて仕方がない。そのようなことが起こり始めて、自分達は正しいと思って行っていたのに、全然違っていたということが起こるのではないか。怖い話であるが。

【高木政務官】
 今、狂牛病の話からお話をいただいたが、私も、国土交通省の政務官の立場をいただいて、国土交通省は6万人以上の職員がいる巨大な官庁になり、言っていることは大変幅広い。何かあると、これはうちの省庁の問題で何かあるなと考えるようになった。
 ところが、自分は政治家でもあるから、逆に言うと国土交通省以外の役所の所管ではないけれども、何かあった際に、政治の側がより持っていないといけないのではないか。
先程の狂牛病の問題について、厚生省と農水省の隙間ができたところで、役所の立場で言うと、まずは法律があり、制度の中で自分の所管がある。若手のメンバーと話した際に、「これはうちの所管ではない」という発言が急に出ることがある。それは、現場で一生懸命やっているが故に、なかなか他の全ての事象に関心を持てというのは無理であるが、やはり、幹部もしくは政治家は、その辺の意識をもっと持って欲しい。逆に、所管ではないが故に、より積極的に何かの問題に取り組むシステムというのがあって良いのではないかと思う。

【畑村委員】
 全くそのとおり、同感である。それをやらないと、皆が思っているより早く日本が駄目になるのではないかという気がする。

【青山技監】
 未来技術から少し離れるかもしれないが、今の話の続きで、役所というシステムについて、私も30年以上勤めてつくづく思うが、一番大切な判断は、これは上に上げるべき話か、上に報告すべき話か、どの問題を自分が判断し、どの問題をもっとレベルの高い人に上げていくのかという、その判断力をまず養うことであると思う。
 どうしても日本の学者の場合は、ボトムアップ方式になっている。だから、上に判断を上げないという判断ミスがあった途端に、その現象はなくなる。それは、例えば何かの議論をする場合に、非常に新しい事実が新たに浮かび上がるということで、判断が狂うケースになる。それが一番大事なことだと思う。
 それから、ボトムアップ方式とは、ある意味ではかなり日本の社会に染みついたスタイルという気がするが、トップダウンでやらなくてはならない問題も必ずある。その切り替えをいかにスムーズにできるのか、非常に大きな組織の中で我々も最も気を遣うところでもあるし、それができるかどうかということが、組織としての柔軟性ではないかと思う。

【畑村委員】
 今の話の中で大事なのは、何についてトップダウンでやるべきか、何についてボトムアップでやるべきか、ということである。日本は、その点の取り違いがすごく染みついている。この50年の間、ボトムアップで上手く行ったということが、社会の中にあまりに染み渡り過ぎており、何かボトムアップが全て正しいかのように錯覚をしている部分が非常に多いと思う。
 ボトムアップで日本が一番上手く行ったのは、生産性を向上する、もしくは、社会全部を効率よく動かすということである。ある時期のある社会体制の中では、それが最も能率が良かったのは確かである。ボトムアップが良いと思うようになり、皆ボトムアップになっているうちに、トップダウンでなければならないことを考えなくなったのだろう。
 絶対にトップダウン行うべきことの1つが、失敗の扱いである。失敗の扱いについてだけは、絶対にボトムアップで行こうとしては駄目である。トップダウンで行うべきである。しかし、頭でっかちで口だけ動くトップダウンは駄目である。失敗に関してだけは、トップが普通の情報のルートと別な扱いをするということを実行した時のみ、組織が柔軟に正確に動くのである。
 雪印の食中毒の時に、皆が何かおかしいと思ったのは簡単なことである。社長が工場長に、「おまえ、ほんとか」と言った。あの一言で、全ては決まった。それは、この会社はまずいことが上には何も伝わっていないということを、あの一言で全ての日本人が学んだ。雪印とはそのような会社だったのかと。「おまえ、ほんとか」、わずか7語で会社を殺せた。言葉が大事なのではない。組織運営がそうであると、そのような言葉が出るのである。
 雪印と同じことが、日本の多くの会社で起きている。役所でも当然起こる。本当に変えようとする場合は、トップから変える以外に方法はない。会社の場合、社長が自分で変えることを実行しないと駄目である。副社長や専務にやらせても駄目である。担当の組織を立ち上げても動いているところはない。しかし、社長が自分で本当にやると決めて動いている会社も数多くある。本当に柔軟で正確であり、不思議な位しっかりとした対応で動いる。これは、完全に社長マターだと思う。


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